無償の愛ではありません

俺は別に酔ってない

 



「佐丸。

 うさぎには肉球、ないのよっ」


 知らなかったわ、と夜、靴置き場にやってきた桜子が騒ぎ出した。


 本当に唐突な奴だ……、と暖色系の灯りの下、佐丸は手を止め、桜子を見上げる。


「……何処でうさぎと触れ合ってきた」


 動物園か?

 ペットショップか?


 っていうか、仕事帰りにか?


 寄り道したな、こいつ、と思っていると、桜子は言う。


「芹沢さんち」

「何処だって?」


「芹沢さんち」

「ぬいぐるみか」


「いや、生きてた。

 抱っこさせてもらった」

と桜子はまるで今抱っこしているかのような仕草をする。


「あの男、うさぎなんて飼うのか?」


 そういえば、手嶋さんを見る目も意外とやさしいが、と思っていると、すのこに腰を下ろしながら、桜子は、


「ううん。

 妹さんの」

と言ってきた。


「あいつ、妹が居るのか」

とチューブ状の靴クリーナーを絞りながら言うと、


「うん。

 居なかったけどね」

と言う。


「……どっちなんだ」


 出過ぎたじゃないか、と言いながら、むにゅっと余分に出てしまったクリームを見せると、

「いや、それ、私のせい?」

と言ってくるので、無言でその白いクリームを指につけ、桜子の顔に塗ろうとした。


「いやーっ。

 なにすんのっ、この執事ーっ!」


「今は執事じゃない。

 そして、今は俺の癒しの時間だ」

と桜子の顔にサッカーのサポーターのようにペイントしようとした。


 やめてよー、と桜子は逃げる。


「わかった。

 帰るわよ」

と言うので、


「いや……別に帰らなくていい」

と言うと、どっちなんだ? という顔をしながら、桜子はまた、側に腰を下ろした。


 そのまま桜子は膝を抱えて、靴を磨く自分を見ている。


「っていうか、酔ってても磨くのね」

と呆れてるのか感心しているのかわからない口調で言ってくる。


「俺は別に酔ってない」


 そういえば、魁斗はどうした? と扉の方を振り返る。

 今日は来ないな、と思ったのだ。


「高いびきで寝てるわよ。

 いいストレス発散になったんじゃない?」

と桜子は笑う。


 京介なんかは、アイスコーヒーだけで発散出来るようだが、と思いながら、桜子のピンクの靴の汚れを落とす。


「……なにかもっとこう」

と呟くと、うん? と桜子がこちらを見た。


「日々、ご主人様に無理難題を押し付けられたり。

 凄い大変なことが起こったりして、鍛えられるのを夢見てたけど」

と言うと、


「待って。

 ご主人様って、私よね?」

と桜子は不本意そうな顔をする。


 とりあえず、それを無視して言ってみた。


「でも、違うなって気づいたんだ。


 そういうものじゃないんだな、仕事って。

 日々、淡々と続いていくものだ」


 そうよ、と桜子は言う。


「でもきっと、それでいいのよ。

 人生に劇的なことなんてなくていい――」


 そう呟いた桜子が、そっと自分の肩に頭を寄せてくる。


 何故なのかわかる気がした。


 中学生のとき起こった、『劇的なこと』のために、自分はすべてを失った。


 なにもドラマティックなことなんて起こらなくていい。


 愛する人たちと、コツコツと日々、なにかを積み重ねて生きていけたら――。


「桜子……」

と佐丸は呼びかけた。







 キスしてもいいかと芹沢さんに訊かれたとき、芹沢さんじゃやだな、と思った、と桜子は思う。


「桜子……」

と佐丸は呼びかけてきたが。


 俯いてなにかを考えたあと、桜子の肩に手を触れ、遠ざけながら言ってきた。


「……桜子様」


 何故、今、『様』っ!?


「私に近寄らないでください」

と言う佐丸の顔は何故か青ざめている。


「でないと……、恐ろしいことが起こります」


 どんなことっ!?


 って、今、そう言ってる佐丸の顔が一番怖いんだけどっ!? と桜子は固まっていた。






 なにやってんだ、こいつら。


 魁斗はドアを開けかけた手を止め、その隙間から中を覗いていた。


 喉が渇いたから起きてきたんだが……。


 佐丸は桜子の肩に手を置き、もう片方の手を、ストップ、というように突き出している。


 なにやってんだか知らないが。

 俺から見たら、いちゃついてるようにしか見えんな。


 今日は放っておこう。


 ……まあ、とりあえず、俺の弟は仮面ライダーや靴磨き職人や、マダムキラーな清掃員にはならないようだな、と笑う。


 しかし、そうか。

 佐丸にしては頑張っている。


 仕事をではない。

 桜子のことだ。


 仕事はいつも頑張っているから。


 廊下で足を止めた魁斗は、いつ会社から呼び出しがかかってもいいように、持ち歩いていたスマホを取り出した。


 佐丸に出来て、俺に出来ないということもあるまい、と思いながら、スマホの画面を見つめる。


 ひとつ大きく息を吸って、既に出してあった画面をタップした。


 もうメッセージは入れてあった。


『今から電話してもいいか?』


 送信するだけになっていたそれを送ると、すぐに軽快な音がして、返事があった。


『いいですよ』


 軽く咳払いする。


「も、もしもし……。

 ……ど、道明寺魁斗だ」


 らしくもなく、どもってしまったが、彼女は笑っていた。





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