うさぎにも肉球ありましたっけね?
「桜子様。
私、今日は魁斗様たちと食事会がありますので」
夕刻、佐丸がそう言ってきた。
ああ、学生時代の仲間と集まると言ってたな、と思ったあとで、桜子は不安を覚える。
「あのー、まさか、その口調で魁斗と話すの?」
七時より前に待ち合わせだったら、どうなるのだろう、と思っていると、
「桜子様がいらっしゃらないところでは、魁斗様とは主従関係はありません」
と佐丸は言い切る。
いやー、でもあれ、一応、主人である私の兄なんですけどねー、と思いながら、出て行く佐丸を見送ろうとすると、佐丸は振り返り、
「寄り道などなさいませんよう、いい子で真っ直ぐおうちにお帰りください」
と言ってくる。
いい子でって……。
それもまた、執事から主人に向けてのセリフではないような……と思いながらも見送った。
「桜子、送ってやろうか?」
と唐橋が言ってくるが、
「いえ。
ちょっとお買い物して帰りたいので」
と言ったあと、
「佐丸には内緒です」
と笑うと、
「そうか。
わかった。
じゃあ、気をつけてな」
と唐橋はあっさり引く。
女の買い物が長いことをよく知っているからだろう。
手嶋さんとともに唐橋が去っていったあと、鍵をかけていると、まだ残っていた芹沢が言ってきた。
「桜子、買い物に行くのは本当か」
ええっ? なんで、嘘をつく必要があるんです? と芹沢を振り返る。
「唐橋先生を追い払うためかと思った」
いや……なんで、先生を追い払う必要があるんですか、と思っていると、
「あの先生、ちょっとお前に気があるだろ」
と言い出した。
そんな莫迦な。
まだ自分の中では教師としての唐橋の印象が強いので、自分たちの関係もその延長線上だと思っている。
だから、そんな莫迦な、だ。
よく考えたら、そんなに歳が離れ過ぎ、というわけでもないのだが。
此処のメンバーの中では、みんなを指導して引っ張っていってくれるお父さん的な存在だと思っていたので、そんな風に言われると違和感がある。
「一応、佐丸との仲を応援しているようだが、隙あらばとも思っているようだ。
大人の男ってのは、ああいう小ずるいところがあるからな。
ああ、先生を責めてるんじゃないぞ、一般論だ」
なんかもう、センセイ、という仇名みたいになってきたな、と思いながら、そんな芹沢の言葉を聞いていた。
「遊びたい相手をつついては逃げる猫みたいに、受け身な感じで。
あわよくば、幸運が降ってこないかなあ、みたいに思ってるんだろう。
俺もそんな小ずるい男の一人なんで。
佐丸が居ないこの隙に誘ってみようか。
うちに靴を磨きに来ないか」
……どんな誘い文句だ、と思った。
「……えーと。手嶋さんも一緒なら」
「今、出てったろうが。
手嶋さんは居ないが、実はうちにはうさぎが居るぞ」
「ええっ?」
「いや、俺が飼ってるんじゃないんだが。
妹のだが、可愛いぞ」
と芹沢が言ってくるので、
そうか。
妹さんが居るのか。
自宅だもんな、と思う。
頭の中では可愛らしい小学生の妹さんがうさぎを抱っこして、おねえちゃん、あそぼー、と可愛らしく言っていたのでつい、安心して、
「じゃあ、伺ってもいいですか?」
と言ってしまっていた。
……居ないじゃないですか、妹さん。
芹沢の自宅の、寒々しいほどの広い玄関で靴を磨かされながら、桜子は思う。
「誰がうちの妹が小学生だと言った?
うさぎを愛する女子大生だ」
遊び歩いて帰ってこない、と桜子の想像に文句をつけ、芹沢は言う。
「あいつのお気楽さがうらやましいよ、まったく」
と言いながら、上がりがまちに腰掛け、自分も横で磨いていた。
「俺もお前も、なんにも気にしないで生きていけば楽なんだろうがな。
自分の立場とか、周囲の目とか。
……自分の生き甲斐ってなにかとか。
でも、人間って、ふと、立ち止まってしまうんだよな」
芹沢はおのれの磨いた靴を蛍光灯にかざして、その光具合を確認し、よし、完璧、と言っている。
光り過ぎない、いい風合いだ。
思わず、覗き込むと、芹沢に近づき過ぎたらしく、彼の方が身を避けた。
「あ、すみません」
と思わず言うと、
「母親も居ないんだ。
襲うなよ」
と言ってくる。
「……え。
お母様もお出かけなんですか?」
と訊くと、芹沢は何処から持ってきているのか、次の靴を出しながら、
「泰子さんに――
ああ、俺の叔母さんなんだが、
誘われて、モナコに行くらしくて。
新しい鞄がいるだの服がいるだの、理由をつけて買い物して回ってるぞ」
掃いて捨てるほど持ってるのにな、と言う。
「モナコ……」
「泰子さんのお友だちのお友だちに誘われたとか。
よくわからんが、あの辺のマダム連中で行くんだろ?」
「す、すみません。
それ、うちの親かもしれません」
と言うと、ああ、と言う。
「そうか。
志保さん経由なのかな。
佐丸は志保さんが嫌いなようだが、あの綺麗な顔を受け継いで、得したこともあるだろうにな」
……あるのだろうかな。
とりあえず、あの顔のせいで、夜子さんにつきまとわれたことくらいしか思い浮かばないんだが。
「しかし、てことは、お前とも、もともと縁があったわけだ」
と芹沢は笑う。
「あの日、エレベーターで出くわさなくても、きっと何処かで出会ってたな」
と言われ、そうかもしれませんね、と桜子も笑った。
桜子は手を休め、高い玄関ホールの天井を見上げる。
「すごいおうちですね」
「ありがとう。
だが、俺が建てた家じゃない。
親父が残したものだ」
金ならある、と芹沢は言った。
「だが、人は働かずにはいられない生き物なんだよ。
自分という存在を他人に認めてもらうために。
お前や佐丸と同じだ」
自分という存在を他人に認めてもらうため、か。
「でも、仕事って頑張っても、頑張った分、なにかが返ってくるわけでも、報われるわけでもないですよね」
父や兄たち、そして、唐橋や京介を見てきた桜子はそんなことを思う。
この芹沢だってそうだ。
仕事はちゃんと頑張っていただろうが。
今の経営陣にとっては、会社に居られると困る存在だったせいで、やめざるを得なかった。
「そうだな。
でも、お前は、人を評価してやれる立場になるんだから、社員が頑張った分は、ちゃんと返してやれ」
と芹沢は言ってくる。
そうですね、と言おうとしたら、
「俺にもな」
と言ってくる。
……そうですね、と笑って言った。
「桜子」
「はい?」
今の話の延長線上のように、芹沢は、さらっと言ってきた。
「キスしてもいいか?」
「は……」
うっかり、今の流れで、はい、と言いかけ、
「だだだ、駄目ですっ」
と桜子は顔の前で大きくバツを作る。
そうか、と予想していたように笑った芹沢は、
「でも、佐丸はお前の彼氏でもないのに、毎晩キスしてるんだろ?」
と言ってくる。
「ひ、額にですよ」
と言いながら、誰が言いやがったんだ、と思っていた。
まあ、志保さんだろうな……。
「執事なら、額にキス出来るのか?」
いや、幼なじみだからですよっ、と思っていたが、芹沢は実にスムーズに桜子の手をつかむと、佐丸にもらった手袋を外させ、その手の甲にキスしてくる。
「じゃあ、靴磨きはこの辺りで」
そう言って笑っていた。
ひー、と赤くなっていると、
「さあ、ちゃっちゃと磨けよ、桜子。
あんまり遅くなると、佐丸にどやしつけられるぞ」
とまず自分がどやしつけてくる。
ひー……と思いながら、桜子は再び、手袋をはめ、磨き始めた。
全然、私が経営者な感じしないんですけど~っ、と思いながら。
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