私、なにが出来るんでしょう……
結局、京介は佐丸にアイスコーヒーを淹れてもらい、機嫌良く飲んで帰っていった。
口では悪態をつきながらも、佐丸も悪い顔はしていなかった。
それはそうだ。
自分の淹れたアイスコーヒーで誰かが救われるんだもんね、と桜子は思う。
もうアイスコーヒーのなくなったグラスを手に、飲むでもなく、ストローを口につけ、ぼんやりしていた。
唐橋は嬉々として天井の埃をはたいているし。
……いや、先生。
私、その下で、コーヒー飲んでるんだけど……。
芹沢は通常通り。
技術に特化した執事になることにしたらしい佐丸を含め、それぞれの道を自信を持って歩き出しているように見えた。
ああ、手嶋さんもだ、と思う。
自分が落ち込んでいることを察してか。
呑気に座っているのが自分だけだったからなのか。
手嶋さんがひょいと膝に乗ってきてくれた。
スカート越しに太ももに伝わってくるその重みと温かさに、ああ、癒される……と思っていると、
「桜子」
とソファの後ろ、店舗寄りのスペースにしゃがんでいた芹沢が声をかけてきた。
また誰のだかわからない靴を無償で磨いている。
「靴の磨き方、教えてやろうか?」
「あ、じゃあ……」
と近くに行き、座って見ようとすると、さっとやってきた佐丸が、何処から持ってきたのやら、可愛らしい桜の柄のレジャーシートを広げてくれた。
「ありがとう」
気の利く執事様だな、と思って腰を下ろす。
芹沢が佐丸を見上げ、
「佐丸。
手袋はないか。
指でやると桜子の手が汚れ……
ありがとう」
言い終わる前に、佐丸が袖口も汚れないようになっている長い靴磨き用の手袋を出してきた。
「……こんなのもあるのか。
用意がいいな、佐丸」
と何故か芹沢の方が感心している。
……本当によく出来た執事様だ。
飲食店を始める手続きもスムーズにやってくれているしな。
私は言われるがままに、サインしてハンコ押すだけ。
駄目な上司そのままだな、と桜子は落ち込む。
一方、佐丸は彼が目指している完璧な執事に少しずつだか、着実に近づいていっている気がした。
なにせ、奴には既に迷いがないからな、と桜子は横目に佐丸を見る。
佐丸は、唐橋とともに、部屋の掃除をしていた。
「まず、上から掃除するんだ。
埃は上から落ちてくるからな」
という唐橋の解説を、いや、理論的にはそうなのかもしれないが、さっきみたいに、飲み物飲んでる人が居るときにも強硬するのはどうなんだろうな、と思いながら聞いていた。
元教師ゆえの融通のきかなさか。
いや、教師関係ないか。
そんな唐橋に、佐丸は黙って頷き、彼のやるようにやってみている。
なんか……素直になったな、と思う。
昔は、なにかやる前に、必ず一言ある男だったのだが。
自分の仕事に自信のある小方や、芹沢。
天職から離れても、なにかを見つけ、頑張ろうとする唐橋。
好きな仕事だから、なにがあってもやめないと覚悟を決める京介。
そして、彼らだけでなく、今までなんの気なしに見ていた使用人たちの動きにも、佐丸は感銘を受けているようだった。
執事でないときも、使用人たちに向けて、よく感謝の言葉をさりげなくかけている。
例えば、夜子の父親だったら、使用人はそれが仕事なのだから、よく出来て当たり前だし。
わざわざ褒めるのは、逆に失礼だろうと言うかもしれないが。
でも、そうして、変わっていった佐丸の方が見ていて気持ちがいいし。
尊敬出来ると思える人物が増えたせいで、佐丸自身が素直になり、技術も向上していっているように見えた。
……私はなにが出来るんだろうな。
とりあえず、靴磨きは出来ないようだ……と今、磨いた靴を芹沢に磨き直されながら、桜子は思う。
いや、此処で諦めるからよくないのかもしれないが。
芹沢は、桜子が磨いた靴を磨き直したあと、蛍光灯の明かりでその艶を確認しながら、
「いや、桜子。
やろうという意志があるだけ尊いぞ」
ととりあえず、なにか褒めておかねばと思ったのか、言ってくる。
「かえって、お手間取らせてすみません……」
と詫びると、
「まあ、最初から上手くはいかないさ。
今度、特訓しよう」
と言ってくる。
ええええええええっ、と思い、すっかり黒くなった手袋を見た。
特訓か。
ちょっとうらやましいな、と思いながら、佐丸は芹沢に鍛えられている桜子を見ていた。
ああいうのに憧れていたのに。
社会に出る前に、ああして鍛えられてみたかった。
父親たちの仕事っぷりを見て育ったせいで、必要以上に、社会人になることに対して、身構えていたからかもしれない。
「お前に教えるのは面白くないな」
と唐橋が言う。
「なんでもすぐやりこなすから。
その点、桜子に教えるのは面白そうだ」
と芹沢に叱られている桜子を見て笑っている。
「いえ。
先生……唐橋さんの教え方が上手いからです」
「じゃあ、一緒に清掃班で頑張るか?」
と笑いかけられ、
「でも、それもなにか違う気がするんです」
とはたきを手に佐丸は言った。
自分の中では、はっきりしない感情だったのだが、唐橋はあっさり、そうだろう、と言う。
「お前は自分が使えるのは技術だけ、と思っているようだが、そうでもないぞ。
お前はたぶん、清掃するだけも向いてないし、靴磨きをするだけも向いてない。
不特定多数の人に自分の技術で奉仕したいわけじゃなくて。
自分がこれ、と思った相手に忠誠を尽くし、持てる技術のすべてを注ぎ込んで尽くしたいんだ」
なるほど。
だから、芹沢に靴を磨いてみるかと言われたとき、磨く気にならなかったのかな、と思う。
「だから、執事という職を選んだのは間違ってなかったと思うぞ。
お前にとって、執事は天職だったんだ。
……でもまあ、天職だって、いつまでついてられるかわからないけどな」
俺みたいに、と言う。
「でも、いいんだよ、きっと。
お前はたぶん、いつか執事をやめるだろう」
「え」
「だけど、そのとき、今、やってることは、必ず無駄にはならないから」
「先生……」
「唐橋さんじゃなかったのか」
と言われ、少し笑うと、
「おっ。
初めて俺に向かって、そんな顔を見せてくれた気がするな」
いい顔だ、と唐橋も笑う。
「だが、お前、愛する桜子に忠誠を誓って尽くしても、執事なんだか、ただの気の利く彼氏なんだかよくわからないような気がするんだが」
と呟かれ、
「なんですか、愛する桜子って」
と言うと、
「おや? 愛してないのか」
と笑われる。
「……愛してないとは言ってません」
と言うと、ほほう、と言う。
正直言って、よくわからない。
桜子はずっと自分の側に居て。
この先も彼女が居ない未来など、想像できないでいる。
その感情をなんと呼べばいいのか。
まあ……意識しているから、額にしかキスできないんだよな。
いや、意識していないのなら、そもそも、口にキスしなくていいんだが……。
そんなことを考えながら、掃除をしている間にも、後ろでなにをやらかしているのか。
桜子ーっ、と芹沢と唐橋の怒号が上がっていた。
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