温かく見守っているだけなのに……
人は何故、落ち込んだり考え事をしたりするとき、高いところに上りたがるのだろうかな。
いや、私もだが……と思いながら、桜子は、ビルの屋上に来ていた。
あの日、京介と上がった場所だ。
案の定、京介は手すりに寄りかかり、そこから下を眺めていた。
「……こうやって、落ち込んでいると、ふっと飛び降りたくなるんじゃないかしら」
真後ろでそう呟くと、
「後ろで物騒なこと言うなよ。
飛び降りる予定はな……」
と振り向いた京介が目を見張る。
桜子に向かって手を伸ばし、
「手嶋さんっ」
とその温かい塊を抱き上げた。
此処へ来る前にササミで捕獲してきたのだ。
なんだかわからないまま連れてこられた手嶋さんが、とりあえず、抱っこされて、ぐるぐる言っている。
「京ちゃん、ミーアキャットみたいなおじさんが迎えに来てるよ」
ミーアキャット? と手嶋さんから顔を上げ、京介は訊き返してくる。
「……そんな可愛い感じの上司の人」
「あー、課長か。
課長にも迷惑かけちゃったなー」
と言いながら、京介は手嶋さんを撫でている。
こんなとき、気まぐれな猫が自分になにかしてくれるわけではないが。
撫でてやって、ぐるぐる言われると、自分がした僅かな動きで、すごく喜んでくれているものが居ると感じて、なんだか幸せになる。
猫と居ると、誰かになにかしてあげることも幸せなんだなと思えるのだ。
いつの間にか笑顔になっている京介を見ながら、
「でも、別にクラアイントの反応悪くなかったみたいよ。
一生懸命さが伝わって、微笑ましかったからじゃない?」
と言うと、桜子……と顔を上げた京介がこちらに向かい、笑いかけた。
「っていうか、京ちゃんが噛み噛みでも、内容的に悪くなかったからじゃない?
プレゼンの仕方より、結局は内容でしょ」
「……お前、妙なところで、佐丸よりクールだな」
と京介は呟く。
「そんな落ち込んでたんなら、気分転換に、うちに来ればよかったのに。
アイスコーヒーくらい淹れてあげたわよ、佐丸が」
「お前じゃないのか……」
「だって、疲れてるときには、美味しいものが飲みたいでしょ」
私が淹れたのなんかより、と言うと、
「合理的過ぎて、泣けてくるな。
桜子、お前はきっと経営者に向いてるよ」
と言い出す。
なんだろう……。
迎えに来てやったのに、微妙に批判されている気がするぞ、と思っていると、京介は、
「でも、そうだな。
お前の店、いい店だな」
と笑って言ってくる。
いや、だから、人材派遣会社なんだが。
「手嶋さんに癒されて、佐丸のアイスコーヒーに癒されて。
唐橋先生に悩みを聞いてもらって。
今度、大事な仕事があるときは、芹沢さんに靴を磨いてもらおう」
……私は?
あのー、私は? と思っていると、少し考え、
「お前も此処まで迎えに来てくれたしな」
と付け足しのように言う。
どうしよう。
自分が始めようとしている会社なのに、自分の存在意義がわからない。
「おい。
なんで、お前がそこから下を見る」
「急に落ち込んだからよ……」
と手すりに手をかけ、呟いて、手嶋さん貸してやるから、元気出せよ、と言われてしまった。
京介につかまれた手嶋さんの手が、ぽん、と桜子の肩に乗る。
ああ、肉球……と思っていると、京介は後ろを見ながら、
「それから……
いい店だとは思うが、スナイパーはいらないからな」
と言ってきた。
振り返ると、階下に続く階段の扉の隙間から、佐丸が瞬きもせず、こちらを見ていた。
その、おかしな動きをすれば、撃つ! みたいな視線に固まりながら、京介は、
「……あれは安らがない」
と呟いていた。
此処だったか。
一度外に出て、何処かへ行った桜子が、ササミらしきものを手に、手嶋さんを釣り上げ、また何処かへ走っていった。
案の定、屋上だったか。
そういえば、あの日、桜子も此処から下を見ていたな、と思う。
こいつでも悩んだりするのか、と思いながら、桜子の邪魔をしないよう、屋上へと続く扉の隙間から、二人の様子を窺っていた。
京介が桜子に気づき、彼女に向かい、手を伸ばす。
反射的に、撃つっ、と思ってしまった。
なにも凶器は手にしていないのに。
だが、京介は、桜子ではなく、手嶋さんを抱き上げた。
桜子を抱き上げていたら、確実に殺していたが……。
程よく、京介は落ち込んでおり、先程まで、屋上から下を見ていた。
……殺るのは簡単だし、自分が疑われることもないだろう、と探しに来たはずなのに、何故か、京介を殺す算段をする。
桜子との距離が近すぎるからだ。
京介は手嶋さんを手渡され、少し笑顔になっていた。
まあ、よかったか、と今、殺そうとしたくせに、ほっとしたが。
いやいや、まだ予断を許さない状況だ、と気を引き締める。
こんなときに桜子みたいな女に慰められたら、男はふらふらっと行くに違いない、と思って見ていたのだが、また桜子がなにを言ったのか、京介は、驚愕の表情を浮かべている。
なにかびっくり発言でもしたのだろう。
とりあえず、恋に発展することはなさそうだ、と思いながらも、二人の一挙手一投足を凝視していると、京介になにか言われ、こちらを振り向いた桜子が、何故か、ひっ、という顔をする。
どうしたのだろうな。
此処から温かく見守っているだけなのに……。
そう佐丸は思っていた。
「頑張れよって、見送られたのに、あんなことになって、此処には来づらかったんだよ」
と三人で下に下りたあと、京介はみんなにそう言った。
「課長、ありがとうございました」
とミーアキャットな課長に頭を下げている。
「此処、早くオープンするといいな。
楽しみに待ってるよ」
と桜子たちに笑いかけてきた。
「きっとメニューも増えるんでしょうね。
みんなを誘ってきます。
ありがとうございました」
と太田も笑顔で言ってくる。
……だから、喫茶店じゃないんだけど、と思いながらも、桜子は、つい、
「はい。
ビルのオープンまでには間に合わないかもしれないですけど、頑張ります」
と答えていた。
ええっ!?
と唐橋たちが振り向く。
とりあえず、全員、笑顔で手を振り、見送ったあとで、
「この莫迦っ。
なに適当なこと言ってんだ。
此処、カフェになるのかっ?」
「桜子様、営業許可取るの、結構手間かかりますよ」
「食品衛生責任者の資格とかいろいろ資格要るだろ」
とみんな一斉に桜子を罵り始めた。
だが、すぐに、
「まあ、とりあえず、カフェにして、そこから宣伝して、派遣とかでも悪くないですけどね」
「あ、俺、資格いろいろ持ってるよ。
仕事辞めたとき、とりあえず、いっぱい取ってみたから」
「飲食店の許可取るのには、内装もかなり変えないといけないだろ?」
「それはうちでなんとかしますよ。
系列会社に頼んでみます」
となんとなくそれぞれがそれぞれの疑問に答える形で、話が進んで行く。
その様子を黙ってみていると、
「何故、貴女が意見を出してこないんですか」
「そうだ、桜子、お前はなにが出来るんだ」
と佐丸と唐橋に言われた。
うっ……。
「と、とりあえず、カフェに靴磨きの店を併設しましょう。
なので、私は、お友だちに呼びかけて、女の子を呼び込みます。
女子を呼ぶと、男の人も付いてきたり、連れてこられたりしますから」
と言って、なんとか、よし、と唐橋に言われた。
……それにしても、誰が経営者なんだかわからない店だなあ、と話し合う男三人を見上げながら、思っていた。
手嶋さんだけがこちらを見てくれるが、その愛らしい目には、
ササミ、もうないの?
と書かれていた。
「こんにちはー。
暑いなー。
アイスコ……」
数日後の昼、京介の声が聞こえたと思ったら、すぐに消えた。
顔を上げると、佐丸が何故かドアを抑えている。
だが、すぐに、また開きかけた。
佐丸は肩でそれを抑えつつ、扉の向こうの京介に話しかけている。
「なんの御用ですか。
先日、猫が死に場所を探すようにフラフラと現れた杉原様」
この会社に救いの女神はおりません、と言っていた。
「また、コーヒーを淹れているのは女神様でもありません」
「前聞いたよっ」
京介が開けようとするドアを抑えたまま、佐丸は言う。
「何度でも言いましょう。
この会社に――」
「いいから入れてくれよっ。
俺は桜子には、気はないからっ」
佐丸がドアから手を離した。
「基準はそれか……」
と飲食店としての基準をクリア出来るよう行う内装工事の図面を見ながら、ソファで唐橋が笑っている。
なんとか入れた京介は、入っただけで、あー、生き返るーと伸びをしたあと、
「……嘘だけど」
と呟いていた。
「お帰りください、杉原様」
「えっ。
やだよっ。
まだ、なにも飲んでな……
桜子っ、助けてくれーっ」
押し出されながら、京介はそう叫んでいた。
薄情な桜子はそれを苦笑いして見送る。
どうせ佐丸のことだ。
最後には淹れてやるに違いない。
そう思っていたからだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます