ゆるっと十時で――
桜子たちの会社の出勤時間は、ゆるっと十時に決められていた。
まあ、まだ会社として成り立っていないので、就業規則もなく、ただの口約束に過ぎなかったが。
それでも、みんな十時には集まっていた。
……手嶋さん以外。
今朝は、なにを思ったか、芹沢が佐丸に紅茶の淹れ方を習いたいと言い出し、唐橋がそのお茶を飲まされていた。
「うーん。
まあ、不味くないんじゃないか?
ちょっと濃くて、渋いかなーとは思うが」
と器だけは立派な、芹沢の淹れた紅茶を置きながら、唐橋は言う。
それ……美味しくないってことですよね、と桜子は横目に見ながら思っていた。
さすがは元教師。
なにか褒めて伸ばさなければと思ったようだった。
芹沢の味のほどは、
「じゃあ、私もいただこうかな」
と桜子が言うと、佐丸がすかさず、
「桜子様のは私がお淹れ致します。
私、桜子様の執事ですから」
と言い出したことで察せられる。
佐丸は、芹沢を傷つけないように、自分が桜子の執事である、という理由でお茶を淹れたい、と主張していたが。
自分の主人に不味いお茶を飲ませてなるものか、という空気に満ち溢れていた。
だが、芹沢はそんな二人の気遣いも何処へやら、キッチンで、小さなカップに自分で淹れてぐびりと飲むと、
「うん。
不味いな」
とあっさり言っていた。
「やはり、適材適所というのはあるな。
お茶は佐丸だ」
と言って、すっぱりお茶を淹れることを諦める。
そ、そこで努力はしないんだ……?
本当に潔いな、と思って桜子は眺めていた。
不味かったからではなく、やってみて、お茶を淹れるという行為にあまりときめかなかったからだろう。
「では、芹沢様の分も、私がお淹れしましょう」
と言った佐丸に、
「うん。
頼んだ」
と言って、ソファに戻り、桜子の横に座る。
結局、一人不味いお茶を飲まされた唐橋だったが、お茶を淹れ始めた佐丸を振り返り、
「佐丸。
執事としての技術を磨くことにしたんだろ?
掃除だったら、俺でも教えてやれるぞ」
と言っていた。
「掃除はいいぞ。
心が清められる感じがするからなー」
……いや、まず、先生が清められてないですよね、と思ったが、佐丸は、
「ありがとうございます」
と頭を下げていた。
お茶を飲んだあと、佐丸と唐橋は店舗の方に行った。
二人で話しながら、窓を磨き始める。
店舗とを繋ぐドアが開いたままだったので、芹沢は、そちらを見ながら、
「窓磨きか。
あれもまた楽しそうだな」
とまた首を突っ込みたそうだった。
仕事をやめて、今まで出来なかったことをいろいろやってみたいのかもしれないと思う。
だが、そのとき、おや? と思った。
窓を磨いている二人の向こうで、誰かがこちらを覗いている。
見たこともない、スーツ姿の小柄な男だ。
唐橋くらいの歳の、ちょっと人が良さそうな男だった。
佐丸たちが動かす雑巾を避けるように、ひょいひょい、と首を動かすさまが、なにかの動物のようだと思ったら、ミーアキャットだった。
桜子はそちらを窺いながら、芹沢に、
「あのミーアキャットは何者ですかね?」
と訊いた。
ミーアキャットで芹沢には通じたらしく、
「中を覗きたそうにしているな」
と言ってきた。
そうだな。
そう見える……。
バレエ教室になったり、バイオリン教室になったり、お掃除教室になったりする此処が気になる人なのかもしれないが、と思いながらも、桜子は立ち上がった。
外に出て、
「すみません」
とその男に話しかけた自分を佐丸が中から心配そうに見ていた。
「うちになにかご用ですか?」
と近づいてみたら、自分より背が低かったその男に微笑みかけると、
「あ、こちらの方ですか?」
男は少し赤くなりながら、遠慮がちにそう言いかけ、ああ、と手を打つ。
「アイスコーヒーの女神様!」
……京ちゃんの知り合いらしいな。
止まった笑顔のまま桜子は思う。
「あの、杉原来てませんか?」
「え?」
「今日、出社はしてきたんですけど。
外回りに出てくると言って行ったきり、連絡が取れないんですよ」
「……ど、何処かに監禁されてるとかっ?」
桜子の頭の中では、京介は外回りの途中になにかを知り、廃ビルの椅子にロープで縛り付けられていた。
その足元には時限爆弾が……。
だが、
「いや、あの……
そういうサスペンス的なあれではないと思いますけど」
とミーアキャットに困った顔をされてしまう。
「あれは桜子がなんか阿呆なことを言ってるんだな」
ガラス越しに桜子たちを見ていた唐橋が言う。
まあ、そうだろうな、と困惑する小柄なサラリーマンの顔を見ながら佐丸も思っていた。
唐橋は笑ってこちらを見、
「桜子が見知らぬ不審なおっさんに話しかけていったから、外に飛び出してくかと思ったよ。
見守る方針に変えたのか」
と言ってくるが。
「いえ。
表に回ってる間に、桜子様になにかあったら困るので。
此処で見張っていて、ガラスを突き破った方が早いです」
と近くにあった箒をチラと見て言うと、
「……真顔で言うな。
怖いぞ」
と言われたが、いや、本当に本気だ。
桜子に害をなすものは、誰であろうとみな、敵だ。
自分が彼女の執事であろうと、なかろうと――。
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