実は待ちわびています
よし、今日は自分で起きられたぞ、と桜子が機嫌よく階段を下りていくと、下でなにやら揉めていた。
「小方さんっ、佐丸様にじっと見つめられて、仕事しづらいですっ」
と若い使用人が小方に訴えている。
……昨日の話のせいだな、と桜子は思った。
佐丸は技術に特化した執事になることにしたらしい。
使用人の訴えにも、小方は微笑み、
「緊張感の中で仕事するのもいいことです」
と言っている。
いや……佐丸のあの目で凝視されたら、ゴルゴンに見つめられたがごとく、大抵の人間は動けなくなってしまうと思うのですが。
そう思って見下ろしていたが、小方はそのまま行ってしまう。
小方さーん、と使用人はまだ未練がましく呼びかけていた。
微笑みながら、突き放す人だ……と思ったとき、玄関が開いて、若い執事に案内された美しい女が入ってきた。
芹沢いわく、『女装した佐丸かと思った』――
武田志保だ。
……いや、今でも武田なのかは知らないが。
こちらに気づき、志保は艶やかに微笑みかけてくる。
「あら、桜子さん。
今日も可愛らしいわね、ごきげんよう」
ちょうどやってきたのか、声を聞きつけてやってきたのか、佐丸が渋い顔をして現れる。
「あら、佐丸。
どうしたの、そんな顔をして。
いい男がだいなしじゃないの」
いや、どうしたのって、あんたが朝っぱらから現れたからだろう、という顔を佐丸はする。
「
と言って、志保は笑っている。
道明寺未里は桜子の母だ。
「え?
二人でモナコに行くんですか?」
……初耳だ。
っていうか、今っ!? と桜子は思った。
経営が傾いていく武田物産をギリギリのところまで放置していて、此処より先は無理、という今、道明寺の傘下に入れると聞いたが……。
志保が今一緒に居る、佐丸の父の従兄弟、
志保は優雅に桜子の母とモナコに旅行を楽しむようだった。
「いいのか、あんた。
今、優生さんと一緒に居なくて」
と佐丸は非難するように言う。
佐丸は、志保には嫌悪感を抱いているようだが、優生に対しては同情気味なようだった。
志保のこういう性格を熟知しているからだろう。
それに、優生はずっと志保のことを好きだったと聞いている。
武田を乗っ取ったのもそれが原因ではないかとも。
「いいのよ」
と志保は言う。
「別に優生が社長の座から追われそうだから、彼を捨てようって言うんじゃないわよ。
自分から退く形になるようだし、無一文になるわけでもないじゃない。
男女の仲のことと、仕事のことを結びつけて考えるなんて、無粋なことよ」
いや、お母さん……という目を佐丸はしていた。
佐丸がなにを言いたいかはわかる。
そもそも貴女がそちら側についたから、俺は実の親も経営者の素質なしと思った息子として、扱われてきた気がするんですが……と。
「じゃあね。
桜子さん」
と志保はそんな息子の視線は受け流し、自分にだけ呼びかけてくる。
「ああ、そうそう。
あの靴履いてみた?」
「は?」
小声で、
「佐丸、まだあれをやってるんでしょう?」
と笑う。
……えーと、と思いながら、使用人に先導されながら、さっさと二階に上がっていく志保を見送っていると、横で佐丸が、ぼそりと呟いた。
「女って……勝手なものだな」
「ごめん、佐丸。
お母様のことをこういう風に言ってなんだけど、と思っていると、
「そうだぞ、佐丸。
お前が使用人になっても、桜子はちゃんとついていってるじゃないか」
と声がした。
魁斗、まだ居たのか、と佐丸が振り返る。
魁斗は佐丸を上から下まで見、
「まあ、こんな尊大な使用人も居ないがな……」
と呟く。
「魁斗。
桜子が俺について来てるんじゃないぞ。
俺が桜子についてってるんだ。
使用人だからな」
と言う佐丸に、そうかそうか、と適当な返事をし、兄は居なくなった。
「マイペースなんだから」
と桜子がもらすと、佐丸は、
「お前そっくりだな」
と言ってくる。
本当に一言多いな。
早く九時にならないかな。
……まあ、なったところで、口調が改まるだけで、言ってる内容も態度も変わらないのだが。
桜子は、もう一度、二階の廊下を歩いている志保を見上げた。
「でもさ。
最初に志保さんが、優生さんのところに行ったとき、佐丸が罵ったらさ。
私だって、寂しいからって、言ってたじゃない」
と言うと、佐丸は、
「言い訳だろ」
と言う。
そうかな、と桜子は呟く。
「なんだかんだで仲良かったじゃない、ご両親。
その言葉だけは、本当だと思う」
「なんだかんだでな……」
と佐丸も志保を見送りながら呟いていた。
「ほとんど尻に敷かれてたが」
桜子、と佐丸は振り返る。
「ああいう母親にはなるなよ」
志保の消えた廊下を指差し、言った。
「家事ができないとか、身の回りの支度を自分で整えられないとか。
お前たち、実は似てるからな」
と説教が始まる。
ああ……早く、九時にならないかなー……と桜子はロビーの隅にある大きな柱時計を見上げた。
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