それは危ないところでしたね
翌朝、仕事場に行った芹沢は早々に、ソファに行き倒れた。
「ど、どうしたんですか……? 芹沢さん」
とりえず、人材派遣会社のチラシなど作ってみようとしていたらしい桜子が、膝に置いたノートパソコン越しにこちらを見る。
「いや、志保さんに潰されて」
と芹沢は言った。
「え……」
と桜子が固まる。
「危うく、持ち帰られるところだった」
と呟くと、
「それは危ないところでしたね……」
と桜子は苦笑いしていた。
桜子、あの女には気をつけろ、と思ったが、よく考えたら、小さい頃からの付き合いだ。
佐丸の母のことは、自分より、よくわかっているだろうと思った。
「志保さん、佐丸の心配してたぞ。
一見、そうは聞こえない感じではあったが」
と言うと、でしょうね、と桜子は苦笑する。
「ああ見えて、佐丸のこと、大事に思ってるみたいなんですよ。
佐丸と一緒で、あんまり言葉にも表情にも出ないみたいなんですけど」
と言うので、
「いや、佐丸は結構出てるぞ」
と言うと、不思議そうな顔をする。
志保は、いいシャンパンは後を引かないと言ったが、そのあと、それ以外の酒を散々呑まされたので、結局、頭痛がしていた。
目を閉じ言う。
「お前は、ずっとそういう態度で接せられてるから気づかないんだろう。
佐丸は、お前と居るときは、他の人間と居るときと全然違う。
……敵に塩を送ってしまったな。
キスしてくれ、桜子」
ご褒美に、と目を閉じたまま、言ってみたが、
「なに言ってんですか」
と笑われた。
「お水持ってきますよ」
と立ち上がった桜子が側を通ったので、その手をつかむ。
「そのまま、そこに座っててくれ」
と言って、もう一度、目を閉じた。
桜子は、なんだかんだでやさしいから、弱っている自分を見捨ててはいかないだろうと思っていると、案の定、そのまま、側に腰掛けてくれた。
今は居ない佐丸が開けていったのだろう。
いい風が窓から吹き抜けていく。
気持ちがいいな、と思っていた。
他人と居るのになんだか落ち着く。
桜子には緊張感というものがないからだろうか。
産まれて初めてのことだが。
このまま、ずっとこうして居たいような気もしている――。
目を閉じたまま、芹沢は言った。
「お前のこと、ちょっといい、と思っていたんだが」
ちょっといいくらいで、プロポーズしてくるなと思ってるだろうな、と思いながら、
「訂正しよう。
かなりいい」
と言うと、
「そ、そうですか。
ありがとうございます」
と照れたように桜子は言った。
強くその手を握り直す。
近くに座っていた桜子の腰がびくりと逃げかけるのを感じたが、起こしては悪いと思ったのか、逃げなかった。
今にもつけ込まれそうな性格だが、こう見えて、隙がないからな、と思う。
昨夜のことを思い返しながら、桜子に言った。
「俺が靴磨きになると言っても、あのマダムたちは誰も信じなかったよ。
笑ってた。
志保さんが、うちの息子は執事になるらしい、と言っても、やっぱり笑ってた。
俺も佐丸も本来、行くべきではない場所に行き、自分が全うすべき運命から逃げてるんじゃないかと思ったよ」
「なんでですか?
新しい場所でチャレンジするのは悪いことではないですよ。
誰だって、最初は一からでしょ?
今の立場を成した、貴方のご先祖様だって、佐丸のご先祖様だって」
「そうだなあ。
うちは創業は江戸まで遡るが。
まあ、そうだな。
なんだって、最初は一からだよな。
でも、俺は別に凄い靴磨きのチェーン店を作ろうって言うんじゃない。
ただ、ひとつひとつ、想いを込めて、磨きたいだけだ」
その結果として、店が大きくなるかは知らないが――。
「佐丸もそうだ。
いきなり執事長になろうって言うんじゃないんだろ?
とりあえず、誰かに尽くしたいだけだ。
父親が亡くなり、母親を見失って。
それでも、自分を支えてくれているものたちの有り難みを感じたから、あいつは、誰かになにかを返したいだけなんだ。
はっきりと目に見える形で――」
「そうかもしれませんね。
でも、会社のトップに立っても、返せると思いますよ、いろいろと」
「……お前、実は一番冷静だよな」
と言うと、桜子は笑う。
「桜子……」
「はい?」
キスしてもいいか? ともう一度訊こうとしたとき、派手にドアが開いた。
「どうしようっ。
緊張しちゃうよーっ!」
京介だ。
なにがあったのか、入ってくるなり、騒ぎ出す。
芹沢は起き上がり、
「鍵かけとけっ、桜子っ」
と叫んで、
「客と社員が入れないとか、どんな会社ですか」
と笑われた。
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