しつけろ、この執事
「桜子。
ちゃんと執事をしつけろ」
バイオリン教室が終わり、桜子がスタッフルームに引き上げると、手嶋さんを膝に乗せた唐橋がソファから、そう言ってきた。
「え?
佐丸、なにかやらかしました?」
今にもやりそうなので、特には驚かないが、と思いながら訊くと、唐橋が答える前に、佐丸が笑顔で、
「申し訳ございません。
唐橋様といえば、その手の問題かと」
と言いながら、珈琲を出していた。
どの手の問題だ……。
「違う。
クビになったんじゃない。
今度、リストラするんだそうだ、うちの会社で。
それで、実家を継ぐとか、今後の予定のあるものは希望退職という形で辞めてくれと言われて」
桜子、と唐橋がこちらを見て呼びかけてくる。
「俺を雇わないか?
手嶋さんとセットで」
にゃっ、と手嶋さんの両手をつかんで、持ち上げ、腹を見せてくる。
うむ。
先生、此処は実家ではありません、と思いはしたが、そんな体勢の手嶋さんに頼まれて、断れる人間はおそらく居ない。
人手が足りないのは確かだし。
清掃の仕事なら、いろいろとありそうだし、まあいいかと思った。
「仕方がありませんね、手嶋さん」
腰を屈め、手嶋さんと目線を合わせて、そう言うと、何故か、後ろの唐橋の方が身を引いた。
そのとき、パンッといい音がして、佐丸が桜子の額をはたいた。
反動で後退する。
「桜子様、蚊が」
「蚊っ!?」
と辺りを見回すが、この季節に居るはずもない。
何故か、芹沢が笑っていた。
私の額はキスされたり、弾かれたり、叩かれたり、忙しいな、と思う。
莫迦になるではないですか、と思いながら、額を押さえていると、
「芹沢様、桜子様もどうぞ」
と佐丸がテーブルにカップを置いた。
あ、ラテアートだ。
エスプレッソの上にフォームドミルクを注いで、絵が描いてある。
「猫」
「クマ」
「飲んじゃったな」
「唐橋様……」
最後の呟きに、佐丸が脅すように彼を見る。
「すまん。
喉乾いてたんで、つい」
と唐橋は苦笑いしている。
気づかなかったのか。
らしいと言えば、らしいな、と思っていると、唐橋は、桜子たちのカップを覗き、
「さすがだな、佐丸。
上手いな。
俺も描いてみたい」
と言い出した。
「……いいですよ」
と言った佐丸が準備をしてきた。
挑戦なら、受けて立つ、くらいの感じだった。
負けず嫌いだからな、佐丸も、と思い、眺める。
佐丸に少し習いながら、唐橋はエスプレッソの上に絵を描いていた。
桜子と芹沢もそれを覗き込む。
「……なにか得体の知れない生き物が」
「猫に見えなくもないな」
果てしなく、デッサンがおかしいが……。
「三つ目じゃないですか? この猫」
「猫又だろう」
「莫迦。ひとつは鼻だ。
そして、これは手嶋さんだ」
と唐橋は威張って言う。
「手嶋さん、怒りますよ……。
あっ、出て行こうとしているっ」
とドアをカリカリやり始める手嶋さんを見て桜子が言うと、
「飽きたんだろ。
此処に居るのが。
ま、俺も帰るよ」
と言うので、つい、お前も飽きたのか……と思ってしまったがそうではなかった。
「まだ仕事があるからな。
桜子、雇ってくれるなら、また返事をくれ。
それじゃあ」
と言って、手嶋さんとともに唐橋は出て行った。
「マイペースな男だな」
とそれを見送る芹沢に、いや、貴方もですよ、と桜子が思っていると、芹沢は、
「お前の元担任なのか。
まあ、先生と名のつく奴にロクな奴は居ないからな」
と言い出す。
……いや、貴方もバイオリンの先生ですよね? と思ったが、言わなかった。
「先生」
少し遅れて、桜子は唐橋を追いかけた。
「どうした、桜子」
と唐橋は、ビルの出口のガラス扉のところで振り返る。
手嶋さんはもうひとりが何処かへ行ってしまったようで、唐橋一人だった。
「いえ。
先生をうちで雇うのはいいんですが。
先生、今のお仕事好きだったんでしょうに、と思いまして。
いいんですか?」
と問うと、
うーん。
まあ、そうなんだが、と言ったあとで、唐橋は、
「でも、俺は誰か養わなきゃいけないような身の上でもないし。
ああ、たまに手嶋さんに猫缶貢いでるくらいで。
でも、家族が居る人間は、辞めさせられたら困るだろ?」
と言う。
「……わかりました。
では、そちらの仕事が片付き次第、うちにいらしてください」
そう言って、じゃあ、と桜子はその場を後にした。
相変わらず、人がいいな、と思いながら。
少々上から物を言うくらいで、先生と別れた婚約者の人は莫迦だな、と一瞬、思ってしまったが。
ふと我が身に置き換えてみた。
上から物を言う、魁斗、佐丸、鳴海に一生罵られ続ける自分。
……いや、やっぱ、勘弁、と思いながら、スタッフルームへと戻っていった。
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