アイスコーヒーを淹れているのは女神様ではありません




 桜子たちが職場に着いてしばらくすると、芹沢がやってきた。


「あれ? 芹沢さん。

 午前中は残務処理じゃなかったんですか?」

と桜子が訊くと、


「いや、終わったあと、急いで来てしまった。

 早すぎたか?」

と言ってくる。


「いいえ。

 特にまだすることはないですが。

 来られる分には、いつ来られてもいいですよ」

と言うと、そうか、と言う。


「こんなことは初めてなんだが。

 職場に来るのが楽しみで早く来てしまった」


 そんなこと言われると嬉しいな、と桜子は思う。


 いや……本当になにも揃ってない場所なんだが。


 仕事の始まる月曜日がつらいというのはよく聞くので。


 来るのが楽しみと言ってもらえるだけで嬉しい。


 まあ、本格的に仕事が始まっても、そう言ってもらえるかはわからないが。


 だが、芹沢は初めて会ったときと変わらぬ大仰さで語ってくる。


「美しい社長、愉快な仲間。

 なにもない職場。


 なにかこう、いろいろと楽しみじゃないか!」


 ……愉快な仲間って俺ひとりなんだが、という顔を佐丸はしていたが。


 芹沢は座っていた桜子の靴に目を留め、

「ほう。

 それか。

 昨日佐丸が買った靴というのは。


 いい靴だな」

と頷く。


 だが、と少し寂しそうな顔をして。


「それは佐丸が買ってやった靴だから、佐丸に磨く権利があるな。

 桜子、俺も靴を買ってやろう」


 それは、俺に磨かせろ、と言い出す。


 よくわからないな、この人たちは……と思いながら聞いていた。


「そんなに磨きたいのなら、お互いの靴を磨き合ったらどうですか?」

と言ってみたのだが、二人とも無言だった。


「ところで、桜子。

 この間、お前がレオタードで店舗をウロウロしていて、此処がバレエ教室になるという噂が立ったようだな」

と芹沢が言ってくる。


「やはり、此処は、位置的に注目度が高いということだ。


 桜子、違う靴を持ってこい。


 なにもないあの店舗で、俺がお前の靴を磨いてやる」


 たぶん、それ、履いたままなんだろうな……とは思ったが。


「いいかもしれませんね。

 パフォーマンス的には」

と言う。


「店名も出してないのがかえって興味を引いていいかもしれません。


 ふかふかのクッションの上に足を置いても磨けますか?


 それとも、足を置く台を綺麗に飾ってみましょうか?


 あと、素敵な椅子と」

と佐丸を見る。


「女性客が、シンデレラがガラスの靴を履いてみる瞬間みたいなイメージで、足を差し出すの、悪くないかもしれませんね。

 素敵な調度品に、跪いて、靴を磨いてくれる格好いい王子様」

と言って、芹沢に、


「王子、靴磨かないだろ。

 靴持ってくるのは、従者だろうが」

と言われる。


 でも、うちの王子は靴磨きますけどね、とチラと佐丸を見た。


 そのとき、勝手にドアが開いた。


「あー。喉が渇い……」


 無言で佐丸はドアを閉める。


「なんだよ。

 開けろよ、薄情だな」

とドアを叩く京介に佐丸はそのドアを抑えながら、


「この砂漠に女神はおりません。

 お帰りください。


 と申しますか、アイスコーヒー淹れてるのは女神じゃなくて、私です」


 なんでもいいいから、開けてよっ、と京介はドアを叩いていた。




「あー、生き返るー」


 京介はソファでアイスコーヒーを飲みかながら一息ついていた。


 なんだかんだで甘いな、佐丸、と思いながら、桜子も一緒に飲んでいた。


「芹沢さん、本気で会社辞めちゃったんですね。

 でも、子どもの頃からの夢を追いかけるっていいですね」

と適当な京介は言い、


「いや、……靴磨き始めたの、最近なんだが」

と芹沢に言われていた。


「俺は、子どもの頃、仮面ライダーになりたいと言ってたみたいなんですけどね。


 桜子は、俺が仮面ライダーの俳優になりたいんだと思ってたみたいなんですよ。


 こう見えて、現実的なんで」

と京介は言う。


 さらに、

「佐丸も口に出さなかっただけで、仮面ライダーになりたかったんじゃないか?」

と後ろに控えている佐丸を振り向き、一緒にするな、と目で訴えられていた。


 だが、そうなのかもしれないと思った。


 それが子どもじみた願いだと、子どもの佐丸は知っていたから言わなかっただけで。


「怪人になる」

と言っていたうちの兄は論外だが。


 ……あれはそのうち、悪の帝王にでもなりそうだ、と桜子は思っていた。






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