辞めてきたぞ
「ああ、手嶋さん。
唐橋さんについていってしまった……」
と桜子は開いたスタッフルームの戸口から、唐橋とともに去りゆくにゃんこを見送っている。
メスだからな、と思いながら、佐丸もまたそれを見ていた。
桜子よりは、何故かモテるあのおっさんについて行くだろう。
桜子の今、一番気に入っているものは、『手嶋さん』か。
自分がメモに書き留めていると、桜子がそれを覗こうとする。
「なに書いてるの?」
「……ご主人様の好みをメモしております」
「書かなくても全部知ってるじゃないの、私の好みなんて」
「さっきの本にメモした方がいいと書いてあったので」
と言って、
「だから、本から入るのやめなさいよ」
と言われてしまう。
なにを言う。
本には先人の知恵がつまっている。
お前ももうちょっと本を読め、と思ったが、執事の立場でそれを言うのもな、と思った。
だからといって、七時まで待って言うほどのことでもない。
「桜子様。
明日、私、図書館に本を返しに行くのですが、一生に参りましょうか」
「なにその回りくどい言い方……。
私だって、本くらい読んでるわよ、ミステリーとか、SFとか。
っていうか、そのメモ、なにが書いてあるの?」
と言われたので、なんとなく隠す。
「なんでよ。
私のことが書いてあるんでしょ?
合ってるか、採点してあげるから見せてよ」
どんな主人だ。
「結構でございます」
と後ろに隠すと、後ろに回り込もうとする。
「結構でございます」
と上に上げると、飛んで取ろうとする。
……なにかに似ている、と思いながら、ソファに向かって投げると、走っていった。
わかった。
猫だ……。
自分に似てるから、好きなのか? 猫、と思っていると、メモを奪取した桜子は、
「見ていいっ?」
とその手にあるのに、わざわざ訊いてくる。
「それは命令ですか、ご主人様」
「だからそれ、いちいち訊いてくる執事、おかしくない?」
「まあ、別に見てもかまいませんが」
と言ったが、桜子は、メモを両手でつかんだあとで、
「やっぱいい」
とそれをテーブルに置いた。
「……なにか恐ろしいことが書いてあったら嫌だから」
いや、お前のことが書いてあるんだろ?
なにか恐ろしい事実がお前の中にあるのか、と思う。
「じゃあ、俺、見てもいい?」
と桜子の向かいの椅子から京介が訊いてきた。
「まだ居たんですか、杉原様」
と言うと、
「せめて、視界に入れてよ、ねえっ」
と言ってきた。
そのとき、そういえば、まだ開けたままだった入り口のドアを誰かが叩いた。
いや、姿はもう見えていたのだが。
ガタイのいいスーツ姿の男。
芹沢だ。
「開けっ放しとは不用心だな」
と言う芹沢に、
「いらっしゃいませ、芹沢様」
と佐丸が言うと、
「あれっ?
芹沢さん、どうしたんですか?」
と京介とメモ帳を取り合いながら、桜子が訊く。
「桜子、此処は本当に靴磨きの店にはならないのか?」
「してもいいですけど?」
と芹沢に答える桜子に、佐丸は、
おい、あっさりだなっ、と思ったのだが、適当に言ったわけではないようだった。
桜子には父親譲りの勘の良さがある。
普段とそう変わりない芹沢の態度の中に、なにかを感じとったようだった。
俺より、こいつの方が執事に向いてるかも、と思ったとき、芹沢が言ってきた。
「そうか。
じゃあ、俺を雇ってくれ。
会社を辞めてきた」
桜子が、やっぱりか、という顔をする。
「無理ならいいぞ。
別に働かなくても、暮らしていけるだけのものはあるから」
と芹沢が言い、京介が笑顔で、
「ねえ、佐丸。
この人、殴ってもいい?」
と言ってきた。
「今までは、叔父の会社に居たんだ。
いや、元々は俺の父親の会社だったんだが、俺は父親が八十近い年に出来た息子でな」
話を聞きたがる京介を、大好きなお仕事が待ってますよ、と佐丸は追い返し、芹沢の話を聞いていた。
「父が亡くなったとき、俺はまだ小さくて、父とは年の離れた父の弟が会社を継いだんだ。
間は七人、みな女だったから」
と笑う。
「今は叔父の許で会社はうまく回っているよ。
叔父の息子も俺より随分年上で、専務をやっている。
俺はいらないんだ。
むしろやりにくいだろうと思うのに、ないがしろにしても悪いと思ったんだろう。
会社に入れてくれ、いずれ、上に上げてくれるつもりのようだった。
でも、あの会社はもう叔父一家のものだ。
ま、そういう言い方もおかしいかな。
基本、株主のものだからな、会社」
と言ったあとで、
「俺はあそこに居る意味が見出せないんだ」
と芹沢は言った。
「仕事の内容も俺には合ってない気がする。
ある日、ふと思い立って、誰にも任せず、寒い玄関で、一人で靴を磨いてみた。
手間のかかる作業だが、靴が新品のときよりも味のある輝きを放ったとき、なにかこう、やり遂げたって感じがしたんだよ。
俺は今やってる仕事より、靴を磨く方が好きなんだ」
と芹沢は言った。
「こんな気持ちのまま会社に居るのも失礼だし。
俺が居たら、仕事のやりにくい連中も居るだろうから、ずっと迷ってたんだが……」
「わかります」
と桜子が頷いた。
「芹沢さんに磨かれた靴には愛情がこもっている気がします」
とちょうどこの間、芹沢が磨いてくれた靴を履いていた桜子はそれを見る。
「まあ、お前には特別な」
と芹沢は言った。
「初めてお前の靴を磨いたとき、思ったんだ」
と感慨深く芹沢は言う。
「なんて綺麗な脚なんだ、と」
いや、靴関係ないじゃないか。
やはり、痴漢だったのか? と佐丸は思っていた。
「わかりました。
じゃあ、此処は靴屋と靴磨きの店を併設するってことで」
佐丸、と一人がけの椅子の後ろに居た自分を桜子が振り向く。
「待て」
と芹沢が立ち上がり、白い桜子の手をつかんだ。
気安く触るな~っ、と思ったが、幸い顔には出ない体質なので助かった。
まあ、眉の辺りがぴくりと動いてしまっていたかもしれないが。
「いや、いいんだ。
なんとなく此処に来ただけだから。
早まるな、桜子。
自分にいい会社を作れ」
「そうですか。
では、人材派遣会社にしましょう」
と手をつかまれたまま、動じずに桜子は芹沢を見上げる。
「人材派遣会社?」
と芹沢が訊いていた。
「とりあえず、靴磨きの職人と……執事が居ますからね」
待てこら、俺を何処に派遣する気だ、と思いながら聞いていた。
もちろん、それも顔には出ないが。
「私は――
私はなにを」
自分はなにをすればいいんだろうな、と桜子は自分の存在意義を見失ったようだった。
「いや、お前は社長だろう」
と言う芹沢に、
「でも、零細企業なので、社長も働かねば……」
と呟いている。
「桜子様」
と溜息をつき、佐丸は言った。
「出来るでしょう。
例えば、英会話の家庭……先生とか」
言いながら、家庭教師はまずいな、と思い、言い換えた。
家庭教師は駄目だろ。
男子高校生の許に派遣とかなったらどうする、と思っていた。
「お得意でしょう、英会話。
海外苦手なのに無駄な能力だなと常々思っていたんです」
一言余計だ、という顔で桜子が見る。
「他にも何カ国語か話せましたよね?」
「えーと。
ドイツ語と……イタリア語?
でも、あんまり発音自信ないわ」
と言ったあとで、
「そもそも、なんでみんな違う言葉をしゃべるのかしら。
同じ人類なのに、ややこしいじゃないの」
とよくわからない文句を言い出す。
テストが近づいた中高生が言い出しそうな不満だな、と思っていた。
「もともと、人はみな、同じ言語を話していたそうですよ。
ところが、人間が天に届くほどの高い塔を作ろうとしたので、神々が脅威に感じ、人間の言語をバラバラにして、協力し合えないようにしたということです。
裏を返せば、みんなで力を合わせれば、人は神をも脅かすほどの力を発揮できる、ということですね。
会社の理念としても、良さそうな話ですよね」
ああ、何処かで聞いたと思った……と桜子は呟く。
「聖書の時間ね。
一個、思い出したわ」
と言っていた。
「でも、瓢箪から駒だけど。
いいわね、人材派遣会社。
みんなの特技がいかせるじゃない」
どっちかって言うと、人材派遣会社というよりは、なんでも屋っぽいが……と思ったが、珍しく話がまとまりそうなので黙っていた。
「芹沢さん、あと、なにか出来ることとか、やりたいことはありますか?」
桜子にそう問われ、そうだな、と芹沢は考える。
「そういえば、バイオリンが弾けるぞ」
また唐突だな、と思っていると、桜子が、
「そうなんですか?
私、習ってみたかったんです」
と何故か話に乗っかった。
待て。
お前は派遣する側で客じゃないだろう、と思ったのだが、芹沢は、
「そうか。
じゃあ、教えてやろうか。
お前は綺麗だから、バイオリンを持っても、様になるだろう」
と言い出す。
……まあ、弾かなければ、と思っていた。
弾かなければ、バイオリニスト。
踊らなければ、バレリーナ。
……難儀な奴だな、と自らの主人を見ながら、佐丸は思う。
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