夜七時以降に、いらしてください……
可愛いなあ、手嶋さん。
ソファに座る桜子は腕の中の手嶋さんを見つめていた。
でっぷりとした腹に、腕にのるくらいのたぷたぷした顔。
人間なら、健康のために痩せた方が……と思うところだが、猫だと思わないのは何故だろう、と思いながら、桜子は温かい手嶋さんを抱いていた。
手嶋さんは桜子の腕に両の手をちょこんとかけ、愛らしい丸い瞳で自分を見つめてくる。
「手嶋さんっ」
と可愛さのあまり抱きしめていると、
「貸してっ。
手嶋さん、貸してよっ、桜子っ」
と向かいの一人がけの椅子から、京介が手を伸ばしてくる。
手嶋さんを受け取った京介は、両手で手嶋さんを抱え上げ、手嶋さんと間近に目を合わせながら、
「手嶋様、手嶋様。
私を癒してください」
と祈っていた。
「どんだけ疲れてんだ……」
とその隣りに座る唐橋が呟いている。
「疲れてますよー。
毎日、風呂入ってビール飲むだけが楽しみなんですよー」
でもまあ、好きな仕事だから、と京介は手嶋さんに向かって、微笑み、
「頑張ります」
と言っていた。
「此処でたまに癒してもらえれば、頑張れる気がしてきました。
手嶋さんと――」
手嶋さん、いつもは居ないぞ。
「佐丸のアイスコーヒーが此処にあるのなら――」
いつもは淹れないぞ、という顔を佐丸はしていた。
「……あのー、京ちゃん、私は?」
と桜子が訊くと、
「もちろん、桜子もだよっ」
と笑顔で言ってくる。
本当か……?
「だって、桜子の悩みのなさそうな顔を見てるだけで、癒されるよっ」
いや……悩み、ないでもないでもないんですよ。
「まあでも、確かに。
私は、五分くらい先のことまでしか考えないことにしてるの。
いろんな嫌なこととか、面倒臭いこととかが起こりそうなときも――。
とりあえず、五分先までは、なにも変わらず平和かな、と思って」
そこまではダラッとしてる、と言うと、
「その五分が永遠に続いてくわけだな……」
と唐橋が呟き、
「だから、昔からやること無謀なんだね」
と京介が言い、
「桜子様でしたら、その五分以内にタライでも落ちてきそうですけどね」
と佐丸が言ってきた。
そして、
「桜子様を見ていると、愚者のカードを思い出すのは私だけでしょうか」
と佐丸は付け加えてくる。
ああ。
あの、目の前崖なのに、笑ってる奴……。
「でも、あれ、悪い意味のカードじゃないわよ」
とせめても抵抗に言ってみると、京介が、
「愚者のカードと言えば」
と言いかけ、関係ないけど、と前振りしたあとで、
「会長が決めてた桜子の結婚相手って、佐丸だったって、ほんと?」
と言ってきた。
……は?
「いや、昨日、お得意さんに此処の話をしたとき、聞いたんだけど」
と言い出すので、
のちのち宣伝してくれるのはいいんだけど。
今、まだ、するな、と思っていると、京介は、
「桜子の結婚相手は、佐丸の予定だったみたいだよ。
武田物産が戻ってきたら、桜子と結婚させて、佐丸をいずれ社長にって話だったんだってさ。
佐丸が執事になるとか言い出したから、立ち消えたみたいだけど」
と言ってきた。
「今、愚者のカードからその話に流れた理由が怖いな、杉原」
と佐丸の心の内を代弁するように唐橋が言う。
「佐丸は知ってたの?
もしかして、桜子と結婚したくないから、執事になったとか?」
と京介は笑う。
こいつ、殴ろうかな、と思っていると、京介は、こちらを見て、
「佐丸が桜子と結婚しないのなら、俺がしようかなー」
と言い出した。
……は?
「最近、よく見合いの話とか上司から来るんだけど。
結婚した方が社会的信用が得られるとか古いこと言ってさ。
でも、どうせ結婚するんなら、全然、知らない人より、桜子の方がいいかなあって、今、思ったんだけど」
そんな軽い理由でプロポーズしてくる奴、初めて見たぞ、と桜子は思ったが、京介は、いつものように、あっけらかんと笑っている。
「疲れて帰っても、ビールと風呂があったらいいんじゃなかったんですか、杉原様」
と佐丸が無表情に言う。
「ビールに風呂に、桜子が居たら最高だね」
あと手嶋さん、と言われ、
良かった。
せめて、手嶋さんの前で……と思っていた。
「ねえ。
桜子、気が向いたら、考えてみてよ」
と言われ、
「あ、じゃあ……気が向いたら」
と答えると、うん、と笑い、また、手嶋さんをかまいだす。
その程度の感じなんだな、と思い、眺めていると、
「杉原様」
と佐丸の声がした。
杉原様、と佐丸は微笑み、もう一度、その名を呼ぶ。
「今度ぜひ、当家にいらしてください」
こら、執事が勝手に招くな、と思っていると、
「……夜七時以降に、ぜひ、いらしてください」
と付け足していた。
さすがに殺気を感じたようで、手嶋さんを抱いたまま、京介は、……はは、と笑い、
「あんまり行きたくないかな」
と呟いていた。
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