考えなきゃいけない時点で、ないですよねー
靴を磨いて、部屋に戻ろうとした佐丸は、そういえば、桜子はもう寝たろうか、と思った。
「桜子」
とドアをノックしたが返事はない。
だが、いつもの習慣で勝手に開けていた。
桜子はベッドで、お気に入りのお姫様みたいなシーツに包まれて、すやすやと眠っている。
「……おやすみ」
寝ている桜子の額に軽く口づけた。
そのまま、その小さな白い顔を見下ろす。
このキスをあと十数センチ下に下げられれば、なにか変わるのかもしれないが――。
自分が執事をしている限り、桜子との結婚話はおそらく出ないだろう。
京介の家は、普通の家だが、確か彼の母方の実家は京都の老舗旅館で、道明寺の会長もよく利用している。
道明寺と縁がないわけでもなく、そんなに釣り合わないわけでもない。
「おやすみ、桜子」
もう一度呼びかけてみたが、桜子は、ぴくりとも動かず寝ている。
……子どもか。
鼻でもつまみたくなったが、なんとか堪えて部屋を出た。
「あら、先生……、唐橋さん。
おはようございます」
翌朝、桜子は店舗に入る前に、唐橋と出会った。
唐橋は、今日もあのツナギを着ている。
教師時代も、部活のせいで、ジャージなことも多かったので、あまり違和感はないが。
「おはよう。
出かけたてたのか。
ちょっと来るの早かったか?」
と訊いてくるので、
「いえ。
唐橋さんが来られるので、お菓子を買いに行ってただけです」
と言うと、
「お前がか? 佐丸はどうした?」
と訊かれる。
笑って、
「なんだか真剣に掃除をしていたので、私が買い物のついでに」
と言うと、
「……何故、俺が来る前に掃除する」
と言われた。
「いやー、佐丸、完璧主義ですからね。
清掃員の方に見られる前に、完璧に掃除しときたいんじゃないですか?」
「それ、俺を呼ぶ意味がないだろう」
と唐橋は呆れるが、いや、佐丸は、そういう人間なのだ。
なんとなく、大学の友達が、マンションに親が掃除に来る前に掃除すると言っていたのを思い出していた。
『片付けてに行ってあげるわ、とか言っておいて、ほんとに散らかってると怒るのよ』
と言っていたが。
佐丸は別に唐橋に叱られる、と思っているわけでもないだろうが。
普段の自分の仕事がいまいちだと思われたくないからだろう。
「じゃあ、行ってもやることなさそうだな」
と呟く唐橋に、
「あの、掃除もなんですけど。
実はその、佐丸と少し話してやってくれませんか?」
と言ってみた。
「たぶん、佐丸は迷ってるんです。
執事をやりたいけど、このまま自分がそれを続けることは、自分の立場的に我儘になるんじゃないかって」
そう言うと、唐橋は、
「なに言ってんだ。
やりたいことやればいいんだよ。
一度きりの人生だろ。
ましてや、それをやることで、人に迷惑をかけるようなことでもないだろう」
と言う。
まあ、それは確かに。
「だが、そこで周りのことを考え、迷う佐丸は立派だな。
お前はなにか物を考えてるのか?」
……先生。
いや、考えてるから、働いてみようかな、と思ったんじゃないですか、と思っていると、唐橋は言い出した。
「よく佐丸は呆れずにお前と居るなって思うよ。
あんな完璧主義な奴が」
と言ったあとで、教師時代を思い出したのか、フォローを入れてくる。
「だがまあ、お前にもいいところはある」
深く頷いてみせる唐橋に、
「どんなとこですか?」
と突っ込んで訊いてみた。
……訊かない方がよかったようだ。
沈黙している。
「待て、ちょっと考えるから」
「考えなきゃいけない時点で、ないですよねー」
「いや、あるじゃないか、ほら……」
と唐橋は、笑顔を押し上げたまま、しばらく止まり、
「……可愛い、とか」
と言い出す。
「ありがとうございます。
でもそれ、性格とか能力、関係ないですよね?」
「……スタイルがいいとか?」
それも関係ないですよね……。
「笑える」
「……もう黙ってください、先生」
「いやいやいや。
確かに手を焼きそうではあるが、お前とだったら、楽しい一生を送れそうだぞ。
そうだ。
先生と結婚してみるか?」
「もうフォロー、結構です」
と言いながら、二人で、店舗に戻った。
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