ドブに落ちて普通な人

 



 桜子が自分の店舗に戻ると、佐丸はお気に入りの椅子に座り、分厚い本を熟読していた。


 十九世紀に書かれた執事の本だ。


 また本から入ってるな、と思い見ると、その横には普通のビジネス書が積んであった。


 ……迷ってるんだろうな、ほんとは、と思う。


 魁斗に武田物産がうちの傘下に入るかも、と聞いた。


 佐丸の父親が死んだあと、会社を乗っ取った親族の経営では業績が思わしくなかったようだから。


 たぶん、ずっとタイミングを見計らってて、今なんだろうな、と思う。


 相手が手放したくなるまで、放っておいて、今がギリギリのタイミングのはずだ。


 これ以上、放置したら、取り込んだあとに大変になる。


 のちのちには、佐丸を社長に、という考えだったはずなのだが。


 当の本人は、何故か、此処で執事をやっている。


 桜子は戸口に立ったまま、本だけを見ている佐丸の整った白い顔を眺めていた。


 なんで、佐丸は執事になりたいんだろうな。


 小方に感銘を受けたからか。

 決められた道を行くのに、戸惑いがあったからか。


 それとも、その両方か――。


 まあ、今現在、私が此処に立ってるのに、気づいてない時点で、執事としてはあまり適性がない気がしてるんだが……。


 昔から、本を読み始めると周りが見えなくなる人だからな。


 意外と学者とかの方が向いてたんじゃ、と思う。


 学者とかって、本読みながら、ドブに落ちて普通なイメージがあるからな、と佐丸に言ったら、即行、

「違うだろ」

と言われそうなことを思う。


「佐丸。

 今、三階で唐橋先生に会ったわ」

と口を開くと、佐丸はようやく顔を上げた。


「……おかえりなさいませ、桜子様」


 遅い。

 そして、今、自分を見てから、言葉が出るまで、間があったぞ、と思う。


 現実に戻ってくるまで、時間がかかったようだ。


 いつものことだが、やはり、執事には向いていないような気がする。

 佐丸は自分と同じ、世話される側の人間に思えるのだが。


 佐丸は本を閉じて立ち上がり、

「唐橋先生ですか?

 ああ。

 桜子様の高校の、あのイケメンなんだかそうじゃないんだかよくわからないけど、モテる先生ですね」

と言ってきた。


 的確な表現だが、ひとつ疑問がある、と思った。


「モテてたっけ?」

と訊くと、


「生徒よりも父兄の方にモテてらっしゃいましたね。

 私が桜子様を待っていると、門のところで、若く美しいお母様に言い寄られたりしておりました」

と言ってくる。


 ……初耳だ。


 婚約者に逃げられたり、教師やめたりした原因はそれじゃないのか、と思った。


「それにしても、先生が何故、オープン前のビルに?」


「先生、今は清掃員をやってるらしいの。

 先生辞めたんだって。


 婚約者に逃げ……」


 しまった。

 此処にも逃げられた男がっ、と思い、口を閉ざすと、


「私のことならお構いなく。

 むしろ、せいせいしております。


 あの方のお屋敷で開かれたホームパーティに出た際、うっかり考え事をしてしまい、目の前にあったその顔をずっと眺めていたらしいのです。


 そのあと、勝手に向こうがいろいろ言って来られていただけでございますから」

と言ってきた。


 それはしょうがないわ、と桜子は言った。


「佐丸に見つめられたら、誰でも恋に落ちるわよ」


 どうせ、さっき、本を見ていたみたいに真剣な眼差しで見つめていたのだろう。


 どんな女の子だって、きっと。

 おばさんだって、猫だって、佐丸にあの瞳で見つめられたら、舞い上がるに違いない、と思っていた。


「そうだ、猫といえば」

と話を繋げて、


「すみません。

 今、何故、『そうだ、猫といえば』になったのかわかりませんが」

と言われてしまう。


「ごめん。

 私の頭の中では繋がってたのよ。


 このビルの周りに人懐っこいブサ猫が居るんだって。


 メスの三毛で、どーんとしたブサ可愛かわの猫。

 手嶋さんって言うらしいわ。


 最初はオスの三毛だと思って、みんなで手なずけたらしいわ」


 そう桜子は笑って言った。





「最初はオスの三毛だと思って、みんなで手なずけたらしいわ」

という桜子の言葉を聞きながら、佐丸は、


 欲まみれか……と思っていた。


 オスの三毛だと、オークションで2、3000万するという噂があるからな、と思いながら、

「先生は清掃員をされてるんですか?」

と話を戻す。


「そうなの。

 今度来てもらう?」


 名刺もらったから、と笑って言う彼女に、

「そうですね」

と言うと、意外そうな顔をした。


 いや、何処かを磨いて欲しいわけではない。

 自分の仕事がなくなるし。


 ただ、ちょっと話してみたいだけだ。


 あの先生。

 生徒にも父兄にも好かれて――


 いや、まあ、違う意味でも好かれていたようだが。


 教師が天職という感じだった。


 その天職を捨て、違う仕事についた彼の話を、今、ちょっと訊いてみたい気がしたのだ。


「そう。

 じゃあ、佐丸がそういうのなら、連絡するわ」


 行動の早い桜子はもう名刺を手に、電話をかけている。


 ちょっと待て、こらっ、と思っている間に、明日来てもらう話になった。


「そうなんです。

 オープン前ですし、あまり広くないので。


 はい。

 唐橋さんひとりで結構です」


 結構広いぞ、と思いながら、それを聞いていた。


 名刺をケースにしまった桜子は、よし、と言って、今日運んで来ていたキャリーケースを取りに行った。


「ちょっと隣、使うね」

と言ってくる。


 隣とは、店舗スペースのことのようだ。


「広い場所、寝かせておくの、もったいないじゃない」

と言って、インテリアとして置いていた全身が映る大きな鏡を運ぼうとする。


 なにする気だ、と思いながら、それを隣に運んでやった。


 あまり外から見えない方がいいと言うので、広い部屋の奥側に置いてやる。


「ちょっと鈍らないように身体鍛えようかと思って」

と言うと、奥に入り、バレエのレッスン着に着替えてきた。


 白いレオタードに可愛らしいピンクの透ける巻きスカート。


 いつも思うのだが。


 ……踊らなければ、バレリーナ。


 愛らしい顔と美しいスタイル。


 長い手脚で、ポージングも上手いので、踊る前は、おっ、と思うのだが、踊り出すとそうでもない……。


 燕尾服を着て、格好だけでも執事になったら? と言われたことを思い出しながら、邪魔しないよう、ドアを閉めた。



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