とりあえず、殺してもいいですか……?

 



 佐丸の朝は、桜子をしょっぴくことから始まる。


 低血圧でもないのに、眠りが浅いせいか、時折、ぼんやりしている桜子に身支度をさせ、一応、職場であるあのビルまで引きずって行く。


 紅茶を淹れてやり、ソファに座って、まだ、ぼうっとしている桜子を横目に見ながら、窓ガラスなど拭いたりするのだ。


 此処に会社か店舗でも出来れば、まだやることもあるのだろうが、と佐丸は溜息をつく。


 実は今日、ひとつ、決めていたことがあった。


 昨日、靴磨きの技が上がったことで、自分が執事として、ランクアップした気がしたので、気持ちの上でも、もう一段階、上に行ってみようと思ったのだ。


 桜子を『お嬢様』と呼んでみる。


 それが今日の目標だった。


 簡単なようで難しい。

 桜子にお嬢様とか、自分にとっては屈辱以外の何物でもないからだ。


 よしっ、と覚悟を決めて振り返ったが、ぼんやりしている桜子を見たとき、やはり、口から上手く出なかった。


 ……何故だろうな、と思う。


 お嬢様。

 簡単じゃないか、お嬢様。


 その辺の婆さんにだって言えるぞ。

 何故、桜子には言えないんだ。


「お……」

と言いかけたとき、桜子が目を上げこちらを見た。


「お……桜子様、店舗の方の窓も磨いて参ります……」


 お桜子様ってなんだ? という目で桜子が見る。


 かえって負けた感じだ……と思いながら、佐丸は店舗に続くドアを開ける。


 店にも会社にもなっていなくとも、通りかかった人々が眺めていったりもするだろうし。


 常に、美しい状態を維持して、この店舗の印象を良くしておかねば、と思っていた。


 いちいち、あちらの部屋に行くとか、断っていく必要もないのだが、桜子は自分の知り合いが、ふいの行動に出て、突然、目の前から消えることを嫌うから。


 彼女がそうなったのは、あの事故の後からのような気がしていた。


 家族ぐるみの付き合いのあった道明寺家にも、父親の事故が暗い影を落としているような気がしていた。


 大事なもの、いつも側にあったものがいきなり消えてしまう、あの喪失感。


 それを道明寺の家の者たちと共有してきた気がする。


 だからこそ、あの家に居ることが楽で、心地よかったのかもしれない。


 ただ、もっとも影響を受けるべき母親が、もっとも受けていないような……。


 いや、あれはあれで、あの影響でああなったのだろうかな、と思いながら佐丸は、表通りに面したガラスを磨きに行く。


 丁寧に磨き上げていると、通りかかった若い女性が、何人か、ぎょっとこちらを見た。


 二度見して行く。


 なんだろうな……。

 いきなり、床に寝ている桜子じゃあるまいし、俺は特異な行動は起こしていないはずだが、とガラスを磨きながら、


「お嬢様……お嬢様。

 桜子お嬢様」

と口の中でブツブツと繰り返す。


 誰かが聞いていたら、お前、そんなに桜子が好きなのかと誤解を受けそうな光景だった。


 よしっ、と佐丸はリビングスペースに戻る決心を固めた。


 磨き終わったのと、腹が決まったのとが同じタイミングだったからだ。


 雑巾がわりの、そんなにガラスが汚れていたわけでもないので、まだ真っ白にも見えるタオルを手にドアを開けると、桜子は紅茶のカップを置いて、名刺を見ていた。


 桜子お嬢様が名刺を見ていらっしゃる……。


 ……いかん。

 暗示のように繰り返してたせいか、頭の中まで、敬語になってきた。


 おのれ、桜子め、と特に腹を立てているわけでもないのに、心の中でなじってみる。


 そのとき、桜子がこちらを見た。


 覚悟を決めていたはずなのに、ビクリ、と身を引きそうになる。


 幼い頃から見つめてきたあの愛らしい黒い瞳に自分が映ると、途端に、お嬢様とは呼びたくなくなるのは何故だろうな、と思う。


「ねえ、佐丸。

 靴磨きの店、どう思う?」


 ふいに桜子はそう訊いてきた。


 「……は?」


 靴磨きの店?


 此処に?

 本気でか?


 もしや、あの男のために? と思っていると、

「佐丸も好きなんでしょ? 靴磨き。

 とりあえず、店員二人居るわけじゃない」

とさらっと言ってきた。


 まあ、合理的な考え方だ。


 が――。


「桜子様。

 私は執事として必要だと思うから、靴磨きの腕を上げようと思っているだけで、別に、靴磨きの職人になりたいわけではありません」


 それだけに特化してどうする? と思いながら言うと、

「あらそうなの」

と桜子はあっさりその案を投げ捨てた。


 早いな……。


「いいかと思ったんだけど。

 佐丸と芹沢さんがスーツ姿で跪いて、靴を磨いてくれたら。


 この店、ガラス張りで外から良く見えるじゃない。

 女の子、すごく来ると思うんだけど」


 そこで、桜子は、ふふ、と笑い、

「今、表のガラス磨いてたんでしょ。

 前の道を通りかかった女の子たちが振り返って二度見していかなかった?」

と言ってくる。


 お前は超能力者か、と思っていると、それが目に表れたようで、桜子は、でしょ? という顔をしたあとで、立ち上がった。


「いけるとおもうんだけどなー。

 イケメンばっかりの靴磨きの店。


 私、ちょっとビルの中、フラフラして来るねー」


 そう言って、桜子は鞄も持たずに出て行こうとする。


 ……いいんだが。

 今の俺はお前の使用人だから。


 だが、そういう風に軽く自分を他の女性に切り売りするようなことを言われると、こいつ、俺のことなんて、やっぱりどうでもいいんだな、と思ってしまう。


 どうしよう。

 お嬢様と呼ぶ前に、とりあえず、殺したい……と思いながらも、佐丸は顔だけで微笑む。


「いってらっしゃいませ。

 ビルの中はまだ工事中のところもございます。

 危ないですから、くれぐれもお気をつけください」


 そういつものセリフを繰り返し、頭を下げた。







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