そのキスの意味はなんですか?
夜、佐丸が一階の寒い靴置き場に居ると、誰かが入ってきた。
桜子だった。
自分の横に座って笑う。
「やっぱり磨いてた」
「磨いていいとおっしゃったではないですか」
そう言ったあとで、そういえば、七時過ぎていたな、と思い出す。
だからこそ、此処に居たのだが、もう桜子に敬語を使うのが癖になりつつあった。
恐ろしい話だ。
そのうち、逆らわないのも癖になってしまうかもしれない、と思ったが、桜子に言ったら、
「何処が逆らってないのよ。
目が逆らってるわよ、いつもっ」
と言い出すかもしれないが。
敬語を使う距離か。
俺は執事になることで、自ら、桜子との間に距離を置いたようなものだな、と思う。
そんなことを考えていると、横から眺めていた桜子が言ってくる。
「営業時間内に磨いてもいいわよ。
自分のやりたいことやる時間がなくなるじゃない」
「いや。
これが今、俺のやりたいことだ」
と言いながら、桜子の黒のハイヒールにブラシをかけていると、
「これ、磨かないの?」
とこの中では一番傷んでいる、昨日桜子が履いていたブーツを指差す。
「それはあの男が磨きたそうだったから」
とブラシで塗ったクリームを馴染ませていると、桜子は笑う。
「佐丸って、職人気質よね。
黙々となにかやるのが得意っていうか。
人の上に立つのも向いてるとは思うけど」
と言われ、
「嫌味か」
と言う。
「なんでよ?」
「……自分が間違ったところに居るような気はしている。
小方さんも、みんなも、俺の気の済むまでやらせてやろうという雰囲気を醸し出している」
「別に執事をやりたいのなら、やればいいじゃない。
人がどう思おうと」
桜子はあっさりそう言ってくる。
ひとつ気になっていることはある。
俺が執事であり続けるのなら、俺は桜子とは……。
桜子にもそれはわかっていると思うが。
こう見えて、自分の立場はわかっている女だから。
それなのに、執事で居ていいと言うのは、俺のことは眼中にないということか?
と思っていると、
「佐丸は佐丸よ。
他の何者でもないわ。
執事だろうと、王様だろうと、私にとってはなにも変わらない」
と言ってくる。
「……王様ってなんだ?」
と手を止め見ると、
「王様は王様よ」
と桜子は笑う。
特に説明はなかったが、まあ、わかる気はした。
最初、自分に執事など出来るはずはないと桜子は言っていた。
でも、いざ、やり始めたら、彼女が一番応援してくれている気はしている。
たぶん……いや、かなり、我慢してくれていることもあるとは思うのだが。
我慢……いや、結構キレてたか、と思い出す。
最初の頃に比べたら、随分執事っぽくなったなーと思いながら、桜子は佐丸を眺めていた。
最初……。
ひどかったな、最初、と桜子は苦笑いする。
上から目線の男に、口だけで改まられると余計に腹が立つというか。
「何処がどのようにへりくだってるのよっ。
全然立場が下になってないわよっ。
なにこれっ。
これって、周りのみんなが耐えるって話っ⁉︎」
と叫びながらも、本人なりに頑張っている佐丸の前では耐えた。
他の使用人たちが、
「桜子様が我慢されている。
それだけでも佐丸が執事でいる意味はあるようだ」
と言っていたのは知っているが。
これって、佐丸じゃなくて、周りのみんなが成長するって話⁉︎ と兄などにブチ切れて。
佐丸が執事になるのを許したのは、お祖父様たちが、私の忍耐力を鍛えるためだったんだろうかと思った程だ。
みなは、
「佐丸様に頭を下げさせるなんて恐ろしすぎる」
と怯え、
「みんなに、気を遣わせるからお前たち二人で家を出ろ」
と魁斗は言った。
だが、佐丸は、小方や他の先輩執事、果ては、使用人にまで食らいついていって、様々な技術を習得していった。
性格的には問題のある男だが、そういうところは見習うべきところがあるよな、と思っていた。
今も芹沢の技術を目で盗み、着実に靴磨きの腕を上げていっている。
でも、執事で一番大事なの、そこじゃない気もするんだけど、と眺めていると、
「いつまで見てるんだ、もう寝ろ」
と言い出す。
まあ、あんまり見てると集中出来ないかな、と思い、わかった、と立ち上がる。
帰ろうとすると、
「待て」
と左手で腕をつかまれた。
立ち上がった佐丸は、桜子の肩に比較的、綺麗な左手だけで触れ、額にキスしてきた。
「ねえ、それ。
どうして、ずっとやってるの?」
なんとなく訊いてしまう。
訊いたら、佐丸がやめてしまう気がして、今まで訊かなかったのだが。
魁斗にやるのをやめたということは、一般的な習慣でないことに気づいているはずなのに。
「……あの日、お前の家に泊まる前の晩、いつものように父親と母親が眠る前のキスをしてこようとした」
……中学生だったよね、と思ったが、茶化すところではないので、ぐっと堪えた。
しかし、問題はやはり、そこのところだったようで、
「中学生にもなって恥ずかしいと、父親がキスしようとしたのを拒否したんだ」
と言ってくる。
「キスさせてあげなかったの、後悔してたの?」
「違う。
それもあるけど。
なんか……ジンクスみたいなもんだ。
してる間は、相手は無事、みたいな」
そう言い、佐丸はまた腰を下ろし、靴を手に取った。
「じゃあ、魁斗は死んでもいいってこ――」
「不気味だからだっ」
と言葉を遮る勢いで、振り返り言う。
なるほど。
まあ、そうか。
傍目に見たら、きっと美しい光景だが、親が見ても心配しそうな光景だからな、と思った。
お前達、大丈夫か、と言って。
「おやすみ、佐丸。
ほどほどにね」
と言って戸を閉めた。
ジンクスか、と思う。
でも、私からは出来ないな。
恥ずかしくて、と思っていると、夜の見回りに小方がやってきた。
「佐丸、靴磨いてるわ」
と言うと、
「そのようですね」
と笑う。
やはり知っていたようだ。
佐丸の居る靴置き場を微笑ましげに見ている小方を見、
「……いつまで莫迦なことやってるんだと思ってる?」
と訊いてみた。
「いいえ。
でも、執事で居る限り、佐丸様が桜子様の結婚相手に選ばれることはないでしょうね」
と言ってくる。
よろしいのですか? と問われ、
「別に。
佐丸が望んでないことだから」
と言うと、
「そうでしょうかね」
といつもの穏やかな笑みを浮かべ、小方は行ってしまった。
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