わたくし、まだまだ修行が足りません
佐丸が椅子を取ってくると、見た瞬間に、芹沢は、
「ほう。
これはいい椅子だな」
と褒めてくれた。
なかなか見る目がある男らしい。
ちょっと気が合いそうだなどと思ってしまったが。
いやいや、と思い直しながら、佐丸は彼の仕事ぶりを眺める。
執事は物を磨いたり、主人の身のまわりの物を管理するのも仕事だ。
銀食器や靴などがそれに当たる。
他の者に任せてもいいのだが、絶妙な技で靴を磨く執事も居る。
気配りなどの点に置いては、小方たちのキャリアに到底敵うものではないので、せめて、技術だけでも鍛えたい、と思っているのだが――。
そういえば、執事になったばかりの頃、桜子が、突然、
「銀食器買ってあげようか」
と言い出した。
どうした、この女、また唐突になにを言い出した、と思った。
道明寺家には銀食器はない。
昔はあったのかもしれないが、今は、現当主の好みなのか、仕入れ先との付き合いの関係なのか。
日本は湿気が多く、銀が黒ずみやすいからか。
道明寺では、上質なステンレス素材のカトラリーを使っていた。
「……何故ですか?」
なぜ、また突然、銀食器……と思いながら訊くと、桜子は、
「え?
佐丸に磨かせようかと思って」
と言つてきた。
何故だ……ともう一度、心の中でだけ繰り返す。
「だって、外国のドラマとかだと、執事って、よく銀食器磨いてるじゃない。
佐丸、好きでしょ、そういうの」
と言ってきた。
俺の仕事を故意に増やすな……。
「いいじゃないの、銀食器。
毒を盛られたら、色が変わってわかるのよ」
と桜子は言い出す。
お前は毒を盛られるあてでもあるのか、と思ったが、七時過ぎるまで言わなかった。
……執事だからだ。
ありもしない銀食器はともかく、靴の管理は本来、執事の仕事だ。
桜子の言うがままに、彼女に任せるのではなかったなな、と今更ながらに思う。
だが、主人の言うことは、執事にとって、絶対ではないのか?
そんなことを思いながら、芹沢の仕事を眺めていた。
芹沢はそれこそ、桜子の従者か騎士でもあるかのように、彼女の前に高いスーツが汚れるのも厭わず跪くと、持って来ていた折り畳み式の小さな木の台の上に桜子の美しい脚を置かさせた。
桜子のパンプスに丁寧にブラッシングをかけ始める。
物言いや態度から、大雑把そうな奴だと思っていたのだが、その仕事は丁寧できめ細かい。
ほんとに靴職人じゃないのか、と思いながら、手際良く、くるくると指に布を巻き付ける芹沢を見ていた。
一応、靴磨きに関しても、
「佐丸様は、そんなことまでなさらなくても結構です」
と言われながらも、靴磨きの上手い使用人の後を仕事外の時間について歩いて、勉強したつもりだが。
なにが違うのか、芹沢の手先の動きは無駄がなくて美しく、思わず見惚れてしまう。
桜子もじっと靴の汚れを落とし、ワックスを塗り込む芹沢の手許を眺めていた。
主人に対して失礼な言い草だが、桜子は器用な方ではない。
だから、それを見て、靴磨きの技術を習得出来ると言うことはないだろうが。
魁斗やその父に似て、見つめることで、人の本質を見抜くようなところがあった。
結構長い間、三人とも黙っていたと思うが、苦痛には感じない沈黙だった。
やがて、あまり光り過ぎない上質な輝きが桜子のベージュのパンプスに戻っていた。
「今度、昨日の春ブーツも持って来い」
と芹沢は言う。
「ありがとうございました」
と桜子は大喜びだ。
いい技術だ。
ぜひとも盗みたいくらいに、と素直に相手を賞賛し、佐丸は思った。
ただひとつ、言わせてもらうならば。
……靴は、脱がせてから磨いてもよかったんじゃないのか?
と桜子の脚と芹沢の目線の近さがずっと気になっていた佐丸は思う。
その辺は趣味と実益(?)を兼ねているのかもしれないが。
「すごいですねっ。
あの、お幾らですか?」
と訊く桜子に、芹沢は持ってきていた木製のケースに道具をしまいながら、
「趣味だと言ったろう。
金はいらん」
と言う。
「まあ、なにか礼でもしたいのなら、うちの会社からなにか買ってやってくれ」
と言われ、はい、と桜子が言うと、芹沢は立ち上がりながら、
「……いつまで、『うちの会社』かは知らないけどな」
と呟いた。
え? と桜子が見上げる。
芹沢はなにもない店内を見回し、
「此処、本当に靴屋か靴磨きの店にするなら、雇ってくれ」
と言って、帰ろうとする。
「あっ、待ってくださいっ。
お食事でも奢らせてくださいっ」
と桜子は言ったが、
「いや、一応、仕事中なんで、また移動するから」
と言って、芹沢はあっさり帰っていった。
桜子に気があるのかと思っていたが、そういうわけでもないのだろうかな、と思っていると、桜子は早速、実家に電話をかけ、芹沢の名前を言って、芹沢の会社から買えるものがあるのなら、なにか買ってやってくれと頼んでいた。
靴磨きのお礼にしては、高過ぎる報酬になる気がしたが、あの男は特になにも考えてなさそうだなと思う。
桜子が何者か知っている風だったのに。
だが、そういう欲のなさや、ガツガツしたところのない感じが桜子は気に入っているのかもしれないと思った。
電話を切った桜子がこちらを見て、ふふ、と笑う。
「……なんですか? 桜子様」
と言うと、
「佐丸、靴、磨きたそう」
と言ってくる。
さすが。
今見たものをすぐに試してみたくなる自分の性分をよくわかっているようだ。
「……いえ、別に」
と言うと、
「磨いていいわよ、私の靴。
家にあるの全部」
と言われる。
そうだな。
手入れがいまいちなの、いっぱいあるからな、と思っていた。
「特に用事もないし、なんだったら、今から帰って磨いてもいいわよ」
と言われたが、
「いえ、私は桜子様の側に居るのが仕事ですから」
と答える。
このお嬢様育ちの莫迦娘を見張っていることこそが、もっとも自分に期待されている仕事なのだということはわかっていた。
だから、なにを恥じらっていたのか、遠慮していたのか知らないが。
桜子が自分に靴を磨かせないと頑張っていたときにも、イラッとしながらも、黙っていた。
だが、ああいう技術を目の前で見せられると、確かに、やってみたくなる。
「靴磨きの店もいいかもねー」
と桜子は新品のようになった革のパンプスを見ながら機嫌がいい。
「大丈夫ですか? 桜子様。
明日、腕のいいラーメン職人に会ったら、この店はラーメン屋になっていませんか?」
軽く嫌味を言ってみたのだが、桜子は、
「そうかもねー」
と笑顔で流す。
いや、そうかもねーじゃないだろ、と思っていると、
「じゃあ、行きましょうか」
と言い出した。
「何処にです?」
「やあね、ラーメン屋さんに決まってるじゃないの。
ラーメンとすき焼きとお寿司は見たり聞いたりしたら、食べたくなるものなのよ」
行きましょう、と促される。
俺は今日は、カレーな気持ちだったんだが……と思いながらも、まだ執事の営業時間内だったので、
「そうですね。
わかりました。
今すぐご用意致します」
と口先だけで言ってみた。
てめー、桜子。
覚えてろよ、と目で語っていたかもしれないが。
……まだまだ修行が足りてない。
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