お願い。ちょっと黙って……
夜、佐丸が戸締まりをしていて、店舗の方に入ると、いきなり、桜子がど真ん中に寝ていた。
顔には出さないが、うわっと心の中で声を上げてしまう。
「……なにしてるんですか、桜子様」
そろそろお嬢様とか呼んでもいいかな、と思っているのだが、まだなんとなく呼べないでいた。
桜子お嬢様、なら言えなくもないのだが。
なんでだろうな。
本当の意味でこいつを主人だとは認めたくないからだろうか。
そんなことを考えていると、桜子は天井を見たまま、
「いや、此処、会社になるのかあ。
お店になるのかなあ。
どんな風になるのかなあ、と妄想していたのよ」
と言ってくる。
昼間、靴屋か靴磨き屋をやれ、と言われたせいで、前より具体的に考えてみているのかもしれないと思った。
自分も立ったまま、同じように上を見てみた。
「佐丸には、今、なにが見えるの?」
と訊かれ、
……天井、と思った。
吸音性のある、無数の小さな穴の空いた化粧石膏ボードが見える。
だが、桜子が要求しているのは、なにか違う答えなんだろうな、というのはわかる。
しかし、思いつかないうえに、言葉を返すのが遅れたら、反応の鈍い奴だと思われそうだったので、とりあえず、
「天井が見えます」
と思ったままを言ってみた。
一瞬、沈黙したあとで、桜子は起き上がり、
「……そうね。
佐丸は頭はいいけど」
と言いかけ、あとの言葉を飲み込んだ。
想像力が欠如していると言いたいんだろう。
蹴ってやろうかな、と思ったが、仕事中なので、ぐっと堪える。
もう一度、天井を見上げた。
「スプリンクラーが見えます」
「いいから、もう黙って……」
と言われてしまった。
次の日、早速、芹沢が桜子の許を訪ねて来た。
暇なのか?
もしかしたら、名ばかりの営業部長というのは、本当なのかもれしないと佐丸は思う。
芹沢は、なにもない店舗の中を見回し、
「ほう。
なにもないな!」
とわかっていることを声高に言う。
「気持ちいいくらいなにもないな。
新しくなにかを始めようという意気込みが感じられていいんじゃないか?」
と言い出した。
……人に会ったら、とりあえず、なにかを褒めてみるタイプなのだろうか。
では、実際のところ、そんなに悪くない上司なのかもしれないな、と佐丸は思った。
上役は最前線に出て、あくせく働かなくてもいい。
常に部下を上手く持ち上げ、気持ちよく働かせて、いざと言うとき、責任を取ってやればいいと、いつか、桜子の親戚の松本さんが言っていた。
なにがどう親戚なのかよくわからない親族の一人だが、気のいいおじさんであることには変わりない。
それにしても、この男、部長にしては若いな、と思う。
せいぜい、俺たちよりもちょっと上。
上質なものを嫌味なく着こなしているし、身のこなしから言っても、やはり、何処かのおぼっちゃまなのか、と眺めていると、芹沢はいきなり桜子を向き、
「で? なにするんだ? 此処で」
と痛いところを突いていた。
「そ、それを今考えてるところです」
と桜子が言うと、
「昨日も考えてたな」
と言っている。
ちょっと笑いそうになってしまった。
執事という立場上、遠慮しているところをズバズバ言ってくれるからだ。
まあ、桜子に言わせれば、きっと、何処が遠慮してるんだと言うところだろうが。
そのとき、芹沢の目がこちらを向いた。
「お前が桜子の執事とかいう男か」
「……武田佐丸と申します」
と頭を下げる。
「いい執事だな」
と佐丸のなにを見てもいないのに、芹沢は言った。
桜子も不思議に思ったらしく、
「なんでですか?」
と訊いている。
すると、芹沢は、彼女が今日履いているベージュのパンプスを見た。
「桜子。
靴は、お前が管理してるんだろ。
執事にさせてない。
執事がしていたら、こんな無様なことになってはいないはずだからだ」
うっ、と桜子がつまる。
「なのに、今、この執事は、俺になんの弁解もしなかった。
自分の不手際と取られかねないのにな。
主人に恥をかかせない、いい執事じゃないか」
「そうですか。
そうなんでしょうか……。
すべてをお客様に読み取られている時点で、間違っている気もするんですけど……」
自分だけが責められ、そう言う桜子を、おい、と見る。
「まあ、言うまでもないだろうが。
桜子、ちゃんとした場所には、ちゃんとした靴で出ろよ。
お前に仕えているものの恥になる。
ところで、椅子はないのか」
突然、芹沢は、手にしていた大きな木のケースのようなものを床に置きながら、言ってきた。
ちょっと座れ、と言う。
芹沢はケースを開けながら、
「このまま磨いたら、スカートの中が丸見えだからな」
と言ってきた。
本当に磨く気か? と覗いたケースの中には、数種類のブラシやクリームのようなものが入っていた。
言うだけあって、本格的だな、と思いながら、
「少々お待ちください」
と言って、椅子を取りにリビングに戻る。
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