18 イブの涙とサンタクロース4

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 眠りから浮上して、腕の中の感触で記憶が呼び起こされる。昨夜の出来事が頭の中を駆け巡り、小さなパニックに襲われた。暴走するなって送り出されたのに、田所だってオレの事を信じて見逃してくれたんだろうに……完全に、理性の糸が切れた。

「秋」

 頭を抱えたい衝動に駆られていたオレを呼ぶ華の声で目を開けると、照れ臭そうで、だけど心底幸せそうな表情を浮かべた華がいる。華の顔を見たらちょっと前までの衝動はどこかへ飛んで行き、腹の底から湧き上がるように幸福感が再燃した。

 可愛いこの子が大切で、愛おしい。

「大丈夫? 痛い所はない?」

 昨夜の出来事の余韻はオレにだってある。だけど華の方が小さくて、華奢で、体力がない。体が辛いんじゃないかと心配しつつ左手の平で頬へ触れると、柔らかな表情で擦り寄って来た。

「秋がくれるものなら、全部大丈夫」

「……それって痛いって事だよね?」

「問題ない」

「あるよ! ごめん!」

 昨日は赤い顔。今日は青い顔。大切な子に痛い思いをさせるなんて最悪だ!

 焦っておろおろするオレを見上げて、何故か華が可愛らしい声を立てて笑う。

「秋。好き。大好き」

 胸元へ顔を埋められ、オレは寝癖の付いた華の髪をそっと撫でた。自然と顔が緩んでいく。

「今日は出掛けるのやめて、ここでのんびりしようか?」

「秋は? 退屈じゃない?」

「華といて退屈になるなんてあり得ないよ」

「わたしも、秋とは側にいるだけで楽しい」

 穏やかな空気が流れて、そのまま身を寄せ合いまどろみに身を任せる。華のぬくもりと呼吸音。聞いている内に段々眠たくなって来た。華も疲れているだろうし、このままもうひと眠りも有りかもしれない。飯は起きたら何か作れば良いかな……――半分寝かけていたのに、スマホのバイブに邪魔された。音は出ないよう設定してあるけど、バイブは消していなかったから枕元で震えている。その振動で華も目を開けて、オレのスマホへと視線を向けた。どうやらメッセージじゃなくて着信みたいだ。画面を確認すると、相手は田所だった。

「……切ったらダメかな?」

 後ろめたい思いがあるから、出たくない。鉄人田所はもしかしたら少し話すだけでも勘付いちゃうかもしれない。だって鉄人だから。

「壊す?」

「壊すのはダメだよ」

 本気なのかわからない華の発言に苦笑を浮かべて、観念したオレはスマホの画面を親指でスライドさせた。

「――大変申し訳ないお知らせがあります」

「突然何ですか?」

 電話に出てすぐの田所の第一声にオレは首を傾げる。

「クリスマスを楽しみにしていた秋くんには申し訳ないのですが、社長がそちらへ向かいます」

「もしかして、オレ殴られる?」

 さあっと血の気が引いた。電話に出なくても気付かれていたのかもしれない!

「一緒に眠るのはいつもの事でしょう。殴られるのなら昨日の時点で殴られていると思いますが?」

「そ、そうですよね」

 昨日と今日だと事情が違うんだけど、それを自分でバラす必要はないよね。

「…………秋くん?」

 長い間の後で地を這うような恐ろしい声で名前を呼ばれたオレは、ぶわりと全身から汗が噴き出すのを感じる。ここは何とか誤魔化さないと鉄人に殺されるかもしれない!

「えぇっと、どのくらいで来ますか?」

「……一時間程度でしたら、伸ばせます」

「助かります」

「秋くん」

「はい!」

「君がいてくれて良かった」

「え? 突然どうしたんですか?」

「伝えたくなっただけです。では、一時間以内に身支度を整えて下さいね」

 そう言って、電話は切られた。気付かれはしたみたいだけど怒られず、何故だか感謝をされた田所との通話。オレは手の中のスマホを眺めながら言葉の意味を考える。

「秋?」

 不思議そうな顔で首を傾げた華に呼ばれて、思考は纏まる前に霧散した。

「華の、パパが来るって」

「……そう」

 また無表情に戻っちゃうんじゃないかと心配したんだけど、華はただ一言答えただけで立ち上がる――

「華! 服! 着て!」

 焦って顔を逸らしたオレに掛けられた声から想像出来た表情は、いつものきょとん顔。

「全部、あげた」

 そうだけど! そうなんだけどね!

「鼻血噴いて出血多量で死んじゃうから、オレ!」

「それは困る」

 困ると言いつつも華は何かを羽織るでもなくそのまま風呂場へと向かってしまった。残されたオレは服を掻き集めて身に着けてから、華の着替えを出して風呂場へ届けに行く。すりガラスの向こう側から聞こえるシャワーの音。いつもの通り服を置いて立ち去ろうとしたオレを止めたのは、扉越しじゃない、華の声。

「来る?」

 扉を開けてひょっこり顔を覗かせた華はオレに、爆弾を投下した。

「い……きたいけど行かない!」

「鼻血で死ぬから?」

「そうだよ!」

「秋」

「何!」

「大好き」

「オレも!」

 顔が熱くて熱くて本当に鼻血を噴きそうになったオレは急ぎ足でその場から退散する。なんだか、華には一生勝てそうにない気がした。


 きっちり一時間後に玄関のベルが鳴った。オートロックの自動ドアじゃなくて、鳴らされたのは玄関のベル。昨日オレが自分の家でやったのと同じで確認の意味があるんだろう。朝飯はまだだけど身支度をばっちり整え終わっていたオレは、華を絵の部屋に残して玄関へと向かう。開けた先には想像通り田所と華パパが立っていた。

「食事はお済みですか?」

 こんにちは、と挨拶を交わした後で田所に聞かれた。華のパパは田所の後ろに無言で立っていて、不安そうな表情を浮かべている。社長だから華パパの方が偉いはずなのに、まるで兄の後ろに隠れる弟みたいだ。元からこうなのか、昨夜何かがあったのか、オレにはわからない。

「まだですけど?」

「千夏さんが、きっと食べていないだろうからと持たせてくれました」

 田所が差し出して来たのは見慣れたトートバッグで、その中にはラップに包まれたおにぎりとおかずが入ったタッパーがあった。あの人は、やっぱり凄いなと思う。コンビニの弁当とかだと華が興味を示さないのを知っているからこそ、手作りなんだろう。

「今日お二人は出掛ける予定をキャンセルするのではないかとも仰っていましたが……」

 エスパーかよ! 心の中で母親へ恐れを抱きつつ、田所から送られた鋭い視線からは逃げざるを得なかった。

 田所と華パパを引き連れて部屋へ戻ると、華はオレの定位置で壁に背中を預けて座っていた。先頭にいたオレを見上げ、続いて入って来た田所へ視線を向け、躊躇いがちに部屋へと踏み出した華パパを瞳に映して、目を伏せる。

「華、お腹空いた?」

 母親からの弁当を手にぶら下げて、オレは華のもとへ行く。首がふるふると横に振られた事で華の心境を察した。弁当が入ったバッグを机に置き、一緒に入っていた水筒から温かいお茶を注ぐ。それを受け取った華は、こくりと一口飲んで息を吐いた。

「秋ママの、ご飯?」

「そうだよ。鮭のおにぎりと、甘い卵焼きもあるみたい」

「……食べる」

 華の頭をぽんぽんと優しく撫でてから、オレは華の隣へ腰を下ろして机の上に弁当を広げる。

「二人も一緒に食べますか?」

 華とオレのやり取りを立ったままで見守っていた大人二人に声を掛けると首を横に振られた。昨夜二人はうちに泊まって、朝飯も母親と一緒に済ませたんだって。

「うちの母親、飲み過ぎませんでした?」

 酒盛りの途中で抜けたオレは、あの後大人達が何をしていたのか知らない。でも泊まったって事はずっと飲んでたんじゃないかなと思って心配になった。

「秋くんは、良い子ですね」

 優しい苦笑を浮かべた田所が、妙な発言をしてオレの頭をくしゃりと撫でる。

「まだ昨夜の酒が残ってるんですか?」

 照れ臭いけどこの人に頭を撫でられるのは嫌じゃない。でもやっぱり照れ臭くて、オレは顔を顰めて唇を尖らせた子供みたいな表情になった。そんな表情を浮かべた事が恥ずかしくて、誤魔化す為にも食事を開始する。小さめに握られた鮭のおにぎりを華へと手渡して、オレはこぶし大のおにぎりを一つ取ってかぶり付く。具は梅干しだ。向かい側には田所が、その少し後方に華パパが座ってオレ達の食事を見守っている。ここへ来た目的については食事が終わってからなんだろう。二人は黙って、食事を取る華の事をそれぞれの表情を浮かべて眺めている。田所は穏やかな微笑。華パパは、唇をきつく結んで泣くのを堪えているみたいだ。

 弁当が空になり、華もオレも満腹になってお茶を啜る。そこでようやく、姿勢を正した華パパが口を開いた。

「昨日、君のお母さんと色々と話したんだ。彼女は……私と違って強い人だね」

 聞いていないから、何を話したのかオレは知らない。でも、予想は付く。

「母は確かに強い人で、オレに弱音を吐いたりした事はないです。でもその分一人で、たくさん泣いていたと思うんです」

 今でも頭に焼き付いて離れない。あれはきっと、病室のベッドだ。横たわったまま動かない親父の体に縋り付き、壊れそうな程に泣き叫んでいた母親の背中。

 幼かった所為かほとんど覚えていないのに大きなあの手は覚えてる。優しく母親に触れていた。オレの頭を撫でていた。

――章人さん

 オレを呼ぶ時とは少し違う、母親の声。それに応える声もオレは……好きだった。

 あの日世界は恐ろしい程に冷たい電子音と共に崩れて、だけど母親は、そのまま壊れたりはしなかった。あんな風に母親が泣いたのは一度きり。オレの前では、あの一度だけ。

「そうだろうね。私も、妻を亡くしているから理解出来るよ。痛い程にね。……だけれど私は君のお母さんのように強くなれなかった。立ち上がれなかった。娘から……華からも逃げ出した、駄目な父親だ」

 机の上へと視線を落とし、零すように言葉を紡いだ華パパの顔には後悔が滲み出しているように見える。

 オレは隣に座る華の顔を覗き込んだ。そこにあるのは無で、華の目は伏せられている。床に置かれて動かない華の手に触れ、包み込むようにして握った。

「もし、うちの母と話して何かに気付けたんだったら、これからどうするかですよ。華はオレが支えます。だからお願いします。怖がって逃げてばかり……いないで下さい」

 華の手が動いて、オレの手を握り返す。指と指を絡めて、しっかりと互いの手を繋いだ。

「お母さんと、同じ事を言うんだね」

 くしゃりと顔を歪め、泣きそうな顔で華パパが笑った。勇気を取り込むように大きく息を吸ってから顔を上げた華パパは、まっすぐ、華を見る。

「華。パパは、たくさん間違えてしまった。華を、たくさん傷付けてしまった。だけどどうか……やり直すチャンスを、くれないだろうか」

 視線を逸らさず、華パパは答えを待っている。

 華は俯いたまま黙って動かない。だけど、華だって望んでいたと思うんだ。ずっと一人で寂しくて、パパの服も靴も捨てられなくて、制服以外で華はパパの服を身に纏っていたんだから。

 オレは、勇気を出してって気持ちを込めて、華と繋いだ手に力を込めた。華はオレの手を握り返してから、ゆっくりと顔を上げる。

「――いいよ」

 たった一言。だけど二人の、前進の合図。

 華はパパをまっすぐ見ていた。華パパも、逃げずに見返していた。

 父娘がやっと掴んだチャンス。どうかそのチャンスが無駄にならないよう、二人がまた、イチゴって名前の黒猫を飼っていた時みたいに笑い合えたら良いなという願いを込めて、オレは見守る。



 ※次回更新は年明け後を予定しています※

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