9 二週目 木曜日
木
昨日と同じように開錠してもらい、エレベーターで七階まで上がった。インターホンを押して出て来た華は、昨日と同じ格好してる。
「おはよう、華」
「おはよう。――秋」
な、名前が付いた! 感動! しかもはにかんだ気がする。なんなんだよマジ、この可愛い生き物!
心の中で大騒ぎしながら中に入って、絵の道具しかない部屋でオレは持って来た袋を開けた。
「華、これは既製品です」
暗示のように言いながら、家で作って来たイチゴのジャムサンドを華に差し出す。床へ胡座で座ったオレとジャムサンドを交互に見た華は、無言でオレの向かい側へペタンと腰を下ろした。緊張しつつ華の口元へジャムサンドを持って行く。華は、オレの目をじっと見ている。チラリ目線を落としジャムサンドを確認すると、小さな口を開けぱくりとかぶり付いた。
食べてくれた事に安堵して、オレはむぐむぐ口を動かしている華を眺める。
飲み込んだ後で華が口を開けたから、ジャムサンドを差し入れる。これは多分、気に入ってくれたんだと思う。
「美味しい」
花が咲くみたいに、華が笑った。初めての表情。オレはまた、泣きそうになる。
「イチゴのじゃないけど、牛乳は飲める?」
泣きそうになったのを誤魔化すように、袋を漁って牛乳の小さいパックを取り出した。華が頷いたのを確認してから、ストローを刺して渡す。
今度は卵サンドを差し出してみた。またオレの顔をじっと見てから華は食べる。良かった。これも気に入ったみたいだ。昨日食べた弁当の量で考えて八枚切り食パンで二種類作ってみたんだけど、全部食べきる前に華のお腹は一杯になった。
「秋のご飯は?」
「オレは食べて来た」
「お腹、いっぱい?」
華が残ったサンドイッチをオレの口に持ってきた。何でも真似する子供みたいで可愛い。そんで、とてつもなく照れ臭い。華がじーっと見てくるから、オレは大きく口を開けて食べた。華用のサイズで切ったからオレには一口だ。半端ない照れが、こそばゆい。
「美味しいね、秋」
なんだよこれ。可愛すぎるの見ると泣きそうになるのかな。
オレは、うんうん頷いた。オレが飲み込んだのを見て、華が最後の一個を差し出してきたからまた一口で食べる。
「ごちそうさまでした」
オレが手を合わせたら華も真似をする。とんでもなく可愛くて堪らずぎゅーっと抱き締めたオレの腕の中で、華はじっとしてた。
華が着替えるのを待ち、髪を梳かしてオレが結う。今日は黒猫の飾りが付いたゴムでポニーテール。その内違う髪型も練習してみるつもりだ。華は鏡で黒猫のゴムを嬉しそうに見てる。
「華、こっち向いて」
仕上げにイチゴ味のリップ。華は舐めたそうにしてたけど、我慢したみたいだ。
「華、可愛い。大好き」
完成した華の姿に満足して言ったオレをじっと見て、華が淡く笑った。めちゃくちゃキスしたくなったけど、ここでまた警戒されたら嫌だ。我慢だ。我慢。
玄関の鍵を閉めたのを確認してエレベーターに乗ったら、華が手を繋いできた。びっくりしすぎて息が止まった。華は平然としてるけど、オレの頭の中は大パニック。真っ赤になってるだろう顔を空いてる手の甲で隠して一階まで行った。
少しひんやりした外の空気を吸い、必死に冷静さを取り戻す。
多分華は、昨日のオレの真似をしたんだ。昨日オレが手を繋いだから。きっとそれだ。でも、それでも嬉しくて、オレは舞い上がったまま手を繋いで歩いた。
「朝ごはん食べたけど、イチゴ牛乳はどうする?」
下駄箱で靴を履き替えた後、自販機の前で聞いてみた。華は少し考える素振りを見せてから首を横に振る。
「お腹いっぱい」
「そっか」
胃をさする華が可愛い。今日はイチゴ牛乳なしで教室行って、オレは自分の席に鞄を投げてすぐに華の所へ向かう。
「華は人、描かないね」
スケッチブックを出した華を見下ろし呟いた。でも答えは返ってこなくて、華は何かを描き始める。オレはいつも通りそれを黙って眺めた。
担任が来たから席に戻ると、隣の席の祐介が足を伸ばしオレの椅子を蹴ってきた。
「いい感じじゃん。上手くいってんの?」
小声で聞かれ、オレは首を横に振る。
「なんだろ、野良猫手懐けてるみたいな状態」
「んだよ、それ?」
「オレもよくわかんねぇ」
懐いてきてるとは思うけど、これはまだ違う気がした。
昼休みはまた華に暗示を掛ける。そこまでの量を食べられそうにないから作って来た弁当は一つ。だけど全部オレの手作り。冷凍食品、既製品、ゼロ。まずは甘い味付けのインゲンの胡麻和え。箸で摘んで差し出したら、華はじっとオレを見てから口を開けた。
「美味しい?」
こくり、首が小さく縦に動いた。
なんだろう。自然と頬が緩む。
「華が嫌いなのは魚だけ?」
鳥の照り焼きを咀嚼しながら華は考えてる。ゆっくり飲み込んでから、答えをくれた。
「苦いのは、嫌」
「ピーマンとか?」
大きく華の頭が縦に動く。
甘いのが好きで、苦いのと魚が嫌い。まるで小さな子供みたいだ。ぶはっと噴き出し笑ったオレを、華は不思議そうな顔で見ていた。
「華、帰ろう」
鞄を持って近付いたら当然のように手を繋がれた。まるで父親と子供みたい。体格差もあるしなぁ。
華は百五十あるのかなってくらい小さい。対してオレは百八十五センチ。結構でかい。マッチョじゃなくて細マッチョ目指してるから縦にでかい。少なくとも三十五センチの身長差。キスするの、大変そう。なんて、くだらない事を考えてる場合じゃなかった。
「ねぇ、華。もし良かったらうちで一緒に夕飯食わない?」
華の家の台所じゃ料理なんて出来ないから提案したんだけど、すぐにノーの返事がきた。
「お腹空かない」
まぁ、そうだよな。朝はイチゴ牛乳に昼果物。そんな生活だったのに、今日は華にしては食べたもんな。
「じゃあさ、華の家掃除させてくれない?」
まずはあの風呂場とトイレをピカピカに磨きたい。でも、首を横に振られた。
「どうして? 迷惑?」
これにも華は首を横に振る。
「絵を、描くの」
「絵を描くの、邪魔しなくてもダメ?」
華は、なんだかすっげぇ悩んでる。段々申し訳ない気持ちになってきて、言った事を取り消そうかどうしようか悩んでいたら華がオレを見上げ、目が合った。
「秋なら、いいよ」
ちょっと待て。それはどういう意味だ。まぁ華だ。変な意味があるはずはないけど、ちょっと興奮してる自分が悲しい。
「掃除道具買いに寄ってもいい?」
華が頷いてくれたから、近くのドラックストアで掃除道具を買って華の家へ向かった。
磨きまくってやるぜ! ってオレが燃えていたら、華が寝室開けっぱなしで着替えてた。警戒心強いくせになんだよあの無防備。ガッツリ見たけど、後悔した。生殺し、辛い。
雑念を振り払う為、まずはトイレを磨いて磨いて磨きまくった。トイレの出来に満足したら次は風呂場。風呂場をピカピカにし終わる頃には結構良い時間になってて、そろそろ帰ろうかなと考え華に声を掛ける為リビングへ続くドアを開けた――けど、声を掛けたらいけないと思った。華は、あの描きかけの大きな絵に向かっていた。油絵っていうのかな。色を乗せて、何かがそこに生まれていく。すごい真剣で、華はオレの存在に気付かない。だからオレは、床に座り華の後ろ姿を眺める事にした。
腹が減って、目が覚めた。て、目が覚めたって寝てんじゃん! 焦って立ち上がろうとして、すぐにやめた。壁に寄り掛かって寝ていたオレの脚の上に、何かいる。毛布に包まった華が、オレの腿を枕にして眠ってる。あまりにも安心しきった顔して気持ち良さそうに寝てるもんだから力が抜けた。
どれだけ寝てたのか気になるけど、スマホを見たら華を起こしちゃいそうだ。部屋を見渡してみても目に付く所に時計はない。
身動きが取れないオレは、華の寝顔を眺める事にした。手は絵の具だらけ。顔にまで絵の具が付いてる。どうしてオレを枕にして寝てるのかはわかんないけど、まぁいいかって思えちゃうくらい寝顔が可愛い。
時計の音も聞こえない、無音の空間。時間の経過なんてわからない柔らかな闇の中、華の寝息に耳を澄ませる。どれだけの時間そうしていたのか……膝の上にある小さな頭を撫でながら寝顔を眺めていたら、華が身動ぎして目を開けた。
「秋」
あまりにも柔らかな笑みを浮かべた華を見て、どこまでいったらこの気持ちが止まるのかちょっとだけ、怖くなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます