8 二週目 水曜日

   水


 オートロックの自動ドア横にあるインターホンを押すと無言で開錠された。ちゃんと確認してるのかなって、心配になる。

 エレベーターへ乗り込みボタンを見たら、華の部屋が最上階にある事がわかった。七〇一号室。部屋の前でインターホンを押して出て来た華は、華らしい格好だった。裾を折って履いてる黒のカーゴパンツはダボダボ。Tシャツもヨレヨレで絵の具があちこちに付いてるし、サイズが合ってない。髪も寝起きみたいな鳥の巣だ。きっと華は、ドライヤーを掛けないで自然乾燥してるんだろうな。

 眠たそうに目を擦っている華に招き入れられた部屋の中には、何にもなかった。

 絵を描く道具はたくさんあって散らばってるけど、広いリビングダイニングにあるのはそれだけ。生活に関わる物が何もない。冷蔵庫と備え付けのガスコンロが辛うじてあったけど、テレビどころかソファも机も椅子もない。カーテンが閉まった大きな窓の前に陣取ってるのはでっかい描きかけの絵で、その前に、寝床みたいに毛布が落ちていた。

「秋、制服こっち」

 華が入って行ったのはリビングダイニングの奥にある寝室らしき空間。ベッドはあるけど使った形跡はなくて、その側には脱ぎ捨てられた皺くちゃの制服と鞄が落ちている。

 なんだかここは、華自身を物語ってるみたいだ。

「秋、また嬉しいの?」

 華に言われて、オレは自分が泣いてる事に気が付いた。だって……なんだよこの部屋。本当に華は独りじゃないか。生活感が全くないし埃も溜まっていて、こんな……こんな部屋で、飯なんてどうやって食うんだよ。華が独り、あんな毛布に包まって眠ってるなんて――

「嬉しくない。今は、嬉しくない」

 華は、心底わからないって顔してた。

「変なの」

 不思議そうに呟く華の声を聞いたら涙が止まらなくなって、袖で拭いながらオレは、華の制服にアイロンを掛けた。

「華、朝ごはんは?」

 ベッドを台代わりにしてアイロン掛けをしているオレの左横に体育座りで待機中の華に聞いたんだけど、無言だ。

「華、華、華? 朝ごはんは? 食べた?」

「イチゴ牛乳」

「イチゴ牛乳が、朝ごはん?」

 華は頷いた。

 なんなんだよもう! 涙止まんねぇよ!

「夜は? どうしてるの?」

 また首を傾げてる。華は一体どうやって生きて来たんだか、すっげぇ不思議。

「……台所、見てもいい?」

 皺を伸ばし終わった制服を差し出しつつ確認した。華は無言。華の無言は了承だと受け取る事に決める。

「待てバカっここで脱ぐな!」

 Tシャツが半分くらいめくれて腹が見えた所で必死になっておさえた。どうしてきょとんとしてるんだよ。信じらんねぇ。

 俺が動揺している理由を理解出来ていないらしい華を寝室へ押し込み、開けっぱなしだった戸を閉めた。朝からすっげぇ疲れてきた。

 気を取り直し、台所へ行く。棚の中には案の定、包丁も、鍋も、フライパンも、皿すら何にもない。床の上には通販か何かで纏め買いしてるっぽいミネラルウォーターの箱。その横にはリンゴが入った段ボールがあって、冷蔵庫の中にはバナナと食パンが無造作に置かれていた。シンクは絵の具で汚れてるし、ガスコンロには埃が溜まってる。

 洗濯物はどうしてるのかが気になり洗面所らしきところを開けた。乾燥機付き洗濯機の中に服が溜まっているから、纏めて洗って乾燥までして、干さずに皺くちゃになるんだと理解した。てか至る所が汚い。絶対掃除した事ないだろう。なんだよこの家は!

「秋?」

 着替え終わった華が顔を出した。制服はオレがアイロンを掛けたから皺はないけど髪はボサボサ。洗面所で頭を抱えてるオレを見て、首を傾げている華。

「華。髪、梳かしてあげる」

 思わずぎゅーって抱き締めた腕の中で、華はこくんて頷いた。


 アイロンは帰りに取りに寄らせてもらう事にして、今は華の手を引き学校へ向かってる。

 華の髪は昨日買った黒猫のシュシュでポニーテールに結った。似合ってるし、ちょっと嬉しそうにしてたのがまた可愛かった。華用のイチゴ味のリップを付けてあげたらぺろぺろ舐めて、舐めるものじゃありませんって教えた。

 なんだかもう、オレは華を放っておけない。放っておいたらいけない子だと思うんだ。

「秋、秋、秋」

 珍しく華がオレの名前を連続で呼んだ。

「どうしたの?」

 足を止めて聞いたら華がオレの顔に手を伸ばし、指先でほっぺに触る。

「嬉しい?」

 華はオレの泣き腫らした目を見てる。もしかしたら、ほっぺに触ってる手は瞼に触ろうとしたのかもしれない。

「華、好きだよ。オレは華が大好きだ」

 また涙が出て、華の指を伝って落ちた。

 朝ごはんだって言うイチゴ牛乳を飲ませて、いつも通り絵を描く華を眺める。二時間目の体育ではまたペアになってパスを教えた。ちょっと上手くなって、やれば出来るじゃんって褒めちぎったら嬉しそうで可愛いかった。

 昼休みになり、オレはリンゴをかじろうとした華の腕をおさえて止めた。

「華、これは全部既製品と冷凍食品です」

 嘘だけど。卵焼きはオレが作ったしご飯だって炊いた。でも暗示を掛けるように言って、卵焼きを一口サイズに切ってから華の口元へ運ぶ。オレの顔をチラッと見た華は口を開け、食べた。むぐむぐ咀嚼して、飲み込む。

「美味しい?」

 焼き芋の時みたいに瞳がキラキラしてる。うちのは甘い味付けだから気に入ったみたいだ。

「美味しい」

「そっか。じゃあこれも」

 そうやってオレの弁当の三分の一くらいを食わせた所で満腹になったみたいだ。小さくゲップして胃の辺りを撫でてる。

「お腹いっぱい?」

 確認すると満足げに頷きリンゴを差し出してきた。交換、みたいな感じかな。

「ありがとう」

 お礼とともに受け取れば、華がまた微かに笑った。笑った華は可愛くて可愛くて堪んない。


 どうして今日バイトなんだろって、地味に落ち込んだ。

 朝拒否されなかったから帰りも手を繋いで歩く。華は、手も荒れていて痛そうだ。なんだかもう、華が愛しすぎる。こんなに好きになってどうしようって、自分でも戸惑うくらいに好き。

 初めて何も話さないまま華の家に着いた。アイロンを取る為一緒にエレベーターで上がり、玄関に置かせてもらっていたアイロンが入った袋を手に持つ。

「また明日、朝来てもいい?」

 華は頷いた。

「それじゃあ、また明日ね」

 玄関の扉が閉まる間際、小さな声でまた明日って聞こえた。初めて返ってきた言葉。嬉しくて、この日のバイトはめちゃくちゃ頑張った。

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