姿なき怪異

 私は西園寺蘭子。霊能者です。


 大きな事件を一つ解決した私と親友の八木麗華は、私の弟子である小松崎瑠希弥の助けを借り、東京の私のマンションに帰る事ができました。


 優しい瑠希弥は、そのままマンションに泊まって、翌朝の朝食まで用意してくれました。


 私達は久しぶりに楽しい朝食をいただいたのですが、近所の公園から湧き出した得体の知れない怪異が、そんな楽しい一時を一瞬にして消し去ってしまいました。


 私達はその怪異を調べようとしましたが、それはまるで何もなかったかのように消滅しました。


 私達はあまりに呆気ない結末に顔を見合わせました。


 


「何やのん、さっきの? 楽しい気分が台無しや」


 リヴィングのソファに寝そべって、麗華が怒っています。


 口を動かす暇があるのなら、手を動かして欲しいです。


 彼女は食べるだけ食べて、後片づけをしてくれません。


「麗華、今度から朝食は一人で外に食べに行ってね」


 私は瑠希弥と洗い物をしながら嫌みを言いました。


「な、何言うてるねん、蘭子ォ。冷たい事いわんといてえな」


 麗華はビクッとして起き上がり、慌ててキッチンに来ました。


「先生も八木様も休んでいてください。私一人で大丈夫ですから」


 瑠希弥は気を遣ってくれたのか、そう言いました。


「いいのよ、瑠希弥。料理をしてもらったんだから、後片づけくらい、私達でするわよ」


 私は瑠希弥の言葉を聞いて、またソファに戻ろうとする麗華を睨みつけながら言います。


「いえ、その、先生にお手伝いしていただくと、その……」


 瑠希弥は何だか言いにくそうです。すると麗華がソファにドスンと座り、


「蘭子、あんた、そろそろ自分が炊事の才能が皆無やゆう事に気づいた方がええで」


「え?」


 私はギクリとしました。


 そして、洗ったお皿を見直します。


 よく見ると、全然洗えていません。食べ物の残りや、油やお醤油の痕が残っています。


 それにシンクの端には、いくつもの割れたお皿やコップの破片が……。


「……」


 顔が真っ赤になります。ああ……。


「先生、その……」


 瑠希弥が私の項垂れようにびっくりし、言葉をかけようとしたようでしたが、


「大丈夫よ、瑠希弥。ごめんね、余計な仕事を増やしてしまって……」


 私はリヴィングへと歩き、麗華の向かいに腰を下ろし、溜息を吐きました。


「あの、先生、私は決してそんなつもりは……」


 瑠希弥の気遣いはよくわかるのですが、もうそっとしておいて欲しいです。


 ああ、穴があったら入りたいとは、まさに今の私のような状態の事なのでしょう。


 


 しばらくして、瑠希弥がG県に戻る事になりました。


 G県に在住の私の親友である霊感少女の箕輪まどかちゃんと共に参加しているG県警刑事部霊感課の仕事があるのだそうです。


「また何かあったら、お呼びください。私はいつでも参りますので」


 瑠希弥が地下駐車場の自分の車の前で言います。


「そやな。美味しい朝食食べたなったら、呼ぶわ」


 麗華がニヤッとして言います。私は少しだけムッとしたので、


「麗華が大阪に戻った時に連絡するから、その時来て頂戴」


「蘭子、そらないがな」


 麗華は口を尖らせて言いました。


「あ!」


 その時、また瑠希弥がピクンとしました。


「どうしたの、瑠希弥?」


 いきなり外に向かって走り出した瑠希弥を私と麗華は慌てて追いかけます。


 瑠希弥は駐車場の出入り口の斜面を一気に駆け上がり、マンションの前の舗道に出ました。


 さすがです。息切れしていません。


「何があったの、瑠希弥?」


 私は呼吸を整えながら尋ねました。


「先生、あの犬……」


 瑠希弥は、舗道の向こうから小学校低学年くらいの可愛い女の子が散歩させている白い小型犬を指差します。


「あの犬がどうしてん?」


 麗華はゼイゼイ息をしながら呟きました。


「あ、もしかして」


 私は瑠希弥を見ます。瑠希弥は頷いて、


「さっきのあの怪異が起こった時、その場にいた犬です」


「やっぱり」


 私と瑠希弥は女の子に近づきました。


「どういうこっちゃ?」


 麗華も首を傾げながらついて来ます。


「こんにちは」


 瑠希弥が微笑んで女の子に話しかけます。女の子は瑠希弥を見て、


「こんにちは」


と笑顔で挨拶しました。この子からは何も感じません。


 そして、彼女が連れている犬からも何も感じません。


 しかし、間違いなく、あの現象が起こった現場にこの小型犬はいたのです。


「その犬、可愛いね。でも、迷子になっていなかった?」


 瑠希弥は女の子と目の高さを合わせるためにしゃがみました。


「うん、公園で散歩してたら、どこかに行っちゃったの」


 女の子はその時の事を思い出してしまったのか、涙ぐんでいます。


「でも、帰って来てくれたのね。良かったね」


 瑠希弥は女の子の頭を撫でて言います。女の子は涙を流す事なく、またニッコリして、


「うん! メルはいい子だから、ちゃんと帰って来たんだよ」


 瑠希弥は女の子に手を振り、別れました。女の子は実に楽しそうにその犬と舗道を去って行きます。


「どういう事や? あの犬、関わりがあるはずなのに、全然それっぽくなかったな」


 麗華は女の子と犬を見送りながら、不思議そうに言います。


「先生、あと一日、泊まってもいいですか?」


 瑠希弥が考え込んでいたと思ったら、そんな事を言い出しました。


「気になるのね、今朝の事が?」


 私も瑠希弥に残って欲しいと思っていましたので、渡りに船です。


「謎が多いですから。あの犬は利用されただけのようですが、それだけではないようですし」


 瑠希弥は黒縁眼鏡をクイッと上げ、探偵のような顔になりました。そして、


「それから、あちらから走って来る中年の男性」


 瑠希弥が目を向けたのは、青のジャージを着た如何にもメタボ感溢れるおじ様です。


 髪の毛もうっすらとしており、どうせなら、


「全部剃っちゃえばいいのに」


と思うくらいです。


 その男性は、あの犬と同様に何にも感じるものがありません。


 禍々しさの欠片もない、普通のおじ様です。


 でも、瑠希弥を通じて感じた凶悪な存在と関わりがあったのは間違いありません。


 おじ様は、苦しそうな息をしながら、私達の横を通り過ぎて行きました。


 その途端、何かを仕掛けて来る事もなく、おじ様は舗道の向こうに見えなくなりました。


「ますますわからんなあ。何がどうなってるねん?」


 麗華は肩を竦めました。


「公園に行ってみましょう」


 瑠希弥が言いました。


「ええ? ウチ、金にならん事、したないなあ」


 麗華が不満を口にしました。私は瑠希弥に近づき、


「麗華は大阪に帰るようだから、送ってあげましょうか、瑠希弥」


と言いました。瑠希弥と麗華は同時に驚きました。


「先生、それは……」


「蘭子、ちょっと待ってえな」


 麗華は、


「わかったがな。ウチも公園に行きます。それやったら、ええんやろ?」


と口を尖らせたままで言いました。


 私と瑠希弥は顔を見合わせました。


 


 私達は一度部屋に戻り、術具の用意をして、改めてマンションを出て、問題の公園に向かいます。


「麗華、無理しなくていいのよ。これは貴女の大嫌いな只働きなんだから」


 私はもう一度念を押しておきます。途中で文句を言わせないためです。


「もう、堪忍してえな、蘭子。ウチもたまには只働きしたいねん」


 麗華は顔を引きつらせて笑いました。


 面白いので、デジカメで撮っておきたかったです。


 その公園は本当にすぐ近くでしたから、私達は五分もかからないで現場に到着しました。


 辺りを見回しても、ごく普通の公園です。


 霊の存在もありませんし、特別に何か悪意が吹き溜まっている様子すらありません。


「何もいませんね」


 瑠希弥はがっかりしたようです。


「もしかすると、何か条件が揃わないと現れないのかも知れないわ。明日の朝、また調べましょう」


 私の頭の中には、一つの仮説が組み上がり始めていました。


 もしそうだとすると、敵はとんでもない存在です。


 


 蘭子達がいる公園からそれほど離れていないところにある廃ビル。


 その三階の一番奥の部屋に蘭子達が気づいた怪異の犠牲者達が閉じ込められていた。


「はああ、あん、あん」


 赤い蝋燭ろうそくが三つ灯っているだけの薄暗い部屋の中では、五人の若い女性達が全裸で絡み合って悶えていた。


 中にはお香の煙が立ち込め、女性達は油でテカテカと光っている。


 女性達は互いを求め合うように舐め合い、抱き合い、撫で合っている。


「あと二人」


 どこからともなく、気味の悪い声が聞こえた。

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