第13話 長い一週間

「はぁ……」

大きくため息を吐いて、俺はパソコンの画面とにらめっこを続ける。

一昨日、魔法使いの国で一日休んだとはいえ、襲われたことやシレーナのこともあって俺は心身ともに疲れていた。

そして昨日、重たい体を引きずりながら出勤すると、体調不良者が出て頭数が揃わず、運悪く他のグループから人を借りることも出来なかったので、俺が現場に入ることになった。

そのため定時寸前まで机に座ることが出来ず、こういう時に限って提出期限が短い書類が多く、全て片付けて帰路に着けたのは日付が一つ進んでからだった。

二十代前半の頃は仕事が終わってから飲み会に行って、その足でカラオケで夜通し騒ぎ、酒も抜けきらぬまま仕事をしても平気だった。しかし二十も後半になるとそんな体力はなくなり、オールをするときは次の日が休みの場合のみと決め、それ以外の日は、遅くとも日が変わる前には家に戻っていた。

三十路になった俺は、日が変わるまで仕事をするのも困難になってしまったようだ。我ながら情けない。

「戸隠さん、頼まれていた資料ですが……」

鹿島が人懐っこい笑顔で声をかけてくる。いつもなら癒やされるその笑顔も、今の俺は何も感じない。

「ああ、そこに置いといて」

「え、はい」

鹿島が書類を置いて、俺がカリカリしているのを感じてか、いつもよりも足早に立ち去る。

(怖がらせちゃだめだよな。平常心、平常心……)

心の中で何度も唱えながら、鹿島の計算した金額と生産量を打ち込み、資料をまとめていく。

(あれ……?)

計算された金額は、想定していた額よりもずいぶんと高い。いったん落ち着いて再度考える。俺の想定が間違っていたのかと思ったが、そう外れてはいないはずだ。

入力した値を間違えたと思い、また大きなため息を吐いてから、先週の勤怠表やら検査成績表やらを引っ張り出し照らし合わせていく。

三十分かかって確認を終えるが、間違いはなかった。

「なんなんだよ……」

計算式が間違えているのかと思って、顔をパソコンの画面に近づけて一つずつ確認していくけど問題はない。

(やばい時間がない……)

だいたい本社の連中も、どうせ提出したところで五分ほどしか見ない資料を作れ作れとうるさい。こっちは製造作業の上にデスクワークをこなすのだ。現場の人間が、五分も見ない資料を何時間もかけて作る必要がどこにあるのだ。

頭の中で愚痴をこぼしながら、ざっくりと全体を見直してみるが間違っていない。

残り十分。俺は早々に諦め、本社の担当に電話をする。俺よりも三つも若い癖に、人を小馬鹿にした態度を取る担当は、「一時間後にお願いしますよ」と言って一方的に電話を切った。

ため息一つ。まだ二件やらないといけないことが残っている。今日も遅くなりそうだ。

(ん……)

鹿島が作った資料が視界に入る。その合計に違和感を感じる。

まず各小計を足して総計があっているか確認する。それは問題なかった。しかし各小計がおかしい。計算してみると、どうやら計算式が一つずつずれているようだ。

また大きくため息を吐く。鹿島を呼び出そうとPHSを持ったその時、鹿島が前を通った。

「鹿島、ちょっと来い」

「は、はい」

出来るだけいつも通り接しようとはしているが、疲れているせいか、いつもは出来ている心の制御が上手くいかない。鹿島も俺がピリピリしているのを感じているのだろう。少し強張った顔をしている。

「これ、計算式ずれてる」

「あ……」

「この前も同じことを注意しただろ。これじゃこっちの計算が合わない。さっさとやり直して来い」

「は、はい。すいませんでした」

鹿島が頭を下げてから駆け足で席に戻る。

俺は椅子に深くもたれ掛かり、辺りに響くようにため息を吐く。鹿島のミスがなければギリギリ間に合っていて、あのくそ担当に謝る必要もなかっただろう。小さく舌打ちをする。

「なんだ田辺?」

田辺と目が合う。周りの連中は我関せずと言った感じで黙々と仕事をしているが、こいつだけは違う。

田辺は俺と同じように大きく背もたれに身体を預け、緊張感のかけらもない声で話す。

「戸隠さん、今日カリカリし過ぎっすよ」

「そりゃお前、こんなに仕事を放り込まれたらそうなるだろ」

俺が疲れている理由の半分は、魔法使いの世界であった戦いのせいだ。それを言うことが出来ないから、余計に疲れているのかもしれない。

「いやまぁ、ごもっともなんすけど……」

田辺はそう言って立ち上がり、大きく伸びをする。

「戸隠さん、コーヒー行きません?」

「お前、俺の話聞いてたのか?」

「聞いてましたよ。どうせ五分も見てもらえない資料作ってるんでしょ、俺ら。手を抜くのは違いますけど、そんな資料のためにカリカリしたら損ですよ」

田辺はそう言って休憩室に向かって歩き出す。

俺はその背中に罵声を浴びせてやろうとして、しかしそんなことしても何もならないと思い、何も言いわずに立ち上がり田辺の横に並ぶ。

「コーヒー、奢ってやるよ」

「ども」

俺よりもよっぽど短い期限で頼み事をされる田辺は、愚痴をこぼすことはあっても他に当たることはない。そういうところは見習わないといけない。

休憩室の横にある自動販売機で、田辺はブラックのアイスコーヒーを、俺は微糖のアイスコーヒーを買ってちびちびと飲む。

「ありがとな、田辺」

「いえいえ、どういたしまして」

俺も田辺もたばこは吸わない。田辺も俺と同じで学生時代に吸っていたそうだが、警察に見つかって一悶着あり、吸うのをやめたそうだ。

お互い何も言わずにコーヒーを飲む。

「なぁ田辺、異世界って本当にあると思うか?」

弛緩した空気と落ち着いた沈黙に後押しされるように、俺は口を開いた。

「……どうしたんすか、急に?」

「いや……ちょっとな」

流石に「週末、異世界を冒険しています」とは言えない。

「今度の女の子はアニメとかゲームとかが好きなんですか?」

「……まぁ、そんなところだ」

田辺は何かあるとすぐに女性と結びつけたがる。

「あるんじゃないですか?」

田辺は少し考えてから、そう言った。

「どうしてそう思うんだ?」

「俺たちは自分たちが住んでいる星のことすらほとんどわかってないんですよ。異世界くらいあってもおかしくないですよ。それにその方が面白くないですか。例えば地下には地底人が住んでいて、実はすでにコンタクトを取っている人間がいる、とか。考えるだけでもワクワクしません?」

俺のくだらない質問にもきちんと答える田辺。「じゃあもし異世界に行ったらどうする?」と聞く前に俺のPHSが鳴る。鹿島からだ。

「もしもし」

「あ……。か、鹿島です。先ほどの資料、訂正が終わりました」

緊張した声の鹿島。悪いことしてしまったと思う。

「サンキュー。席に置いといて」

「わかりました」

俺はPHSを耳から遠ざけて、もう一度耳に当てて鹿島の名前を呼ぶ。

「は、はい」

「ちょっと休憩室まで来い」

「お、呼び出してあんなことやこんなことを、ぐぇっ!」

いらないことを言った田辺に裏拳をかます。人を殴ったことがないと言った記憶があるが、そういえばコイツだけは定期的に殴っていた。

「は、はい……」

緊張した声のままの鹿島は「少々お待ちください」と、お客さんに対する口調で言ってからPHSを切った。もうちょっと優しく言ってやればよかった。

「戸隠さん、もろ、もろっす」

鼻を押さえて蹲る田辺。かなりの衝撃があったはずだが、アイスコーヒーは一滴もこぼしていない。

「自業自得だ、馬鹿」

「戸隠さんティッシュ持ってないですか?」

「……ほれ」

俺は胸ポケットに入れたティッシュを渡してやる。それと引き替えに田辺が飲んでいたブラックコーヒーを渡されたので、久しぶりにブラックを飲んだ。苦い。俺は甘いコーヒーの方が好きだ。

田辺はティッシュを鼻に詰めてぶつくさ言ってくるが、全て無視してコーヒーを飲む。一分ほど経つと、鹿島がやってきた。

「戸隠さん、先ほどは失礼しました。私、その、確認もせずに……」

「いや、俺も悪かった。頭に血が上ってた。すまない」

「いえ、謝らないでください。私の方こそすいませんでした」

鹿島は爪を噛む癖がある。だいたい左の親指の爪で、右手で口元を隠しているが、カリカリと爪に歯が当たる音が聞こえる。

「とりあえずなんか買いに行くぞ」

俺は自販機を指さす。

「きゃー。もしかしてコンドぅお!!」

俺の裏拳を某映画のように背面をそらせて避ける田辺。鹿島はそれを見て小さく拍手している。俺も素直にすごいと思った。

「じゃあホットミルクで」

俺がお金を入れると、鹿島は間髪入れずにホットミルクのボタンを押した。

「……子供かよ」

「何言ってるんですか戸隠さん。鹿島ちゃんがホットミルクを飲むのは、そのミルクを胸に蓄えるためで……」

「それはアウトだ」

頭にチョップをくらわす。

「ぐぁああぁ……。これはパワハラじゃないっすか? 佐々木部長に訴えますよ」

「そうだな。どうせ言われるのなら一回も二回も一緒だから、もう一回いっとくか?」

「いえ、遠慮しときます」

田辺が全力で手を振る。それでもやはり缶コーヒーの中身はこぼさない。

「鹿島。今のうちに戸隠さんに高い物をおねだりしとけよ」

「なんでだよ」

「だって女の子を泣かせたんですよ。そりゃお詫びの品を渡さないと。あ、戸隠さんみたいに何万人と女を泣かせた男は、この程度じゃなんとも思わないか……」

「おい。話をねつ造するのはやめろ」

鹿島はまた左の爪を噛んでいる。右手に缶を持っているので隠せていない。

「……戸隠さん。そ、その、買い物に付き合ってくれませんか」

「ん? そのくらいなら別にいいよ。大したもの買ってあげられないけど大丈夫か?」

「はい。ついてきてほしいだけですので……」

「わかった。あ~、ただ母さんの件が片付いてからでいいか?」

「はい。いつでもかまいません」

笑顔で返事をする鹿島。そしてニタニタと笑う田辺。右ストレートをお見舞いしたい気持ちを抑える。

「じゃあ私、戻ります。急ぎの案件を頼まれているので……」

「ああ。わざわざすまない」

「いえ、では失礼します」

そう言って逃げるように去って行く鹿島。

「これ、デートみたいっすね。変な噂が立たなければいいですけど……」

「そう言われればそうだな。ちょっと迂闊だったか……」

「戸隠さんが若い子と援助交際していた」と噂されるのは別にかまわないが、「鹿島がおっさんと援助交際していた」なんて噂されたら鹿島のイメージが悪くなる。

あるのかないのかわからない俺の将来よりも、可愛い後輩の将来の方が心配だ。

「あ、SNSをリアルタイムで更新すれば良いか」

「そうっすね。鹿島にコメントさせといたら、鹿島の友達も見るでしょうし。何より俺らが安心です」

「どういう意味だよ」

「戸隠さんが鹿島を泣かせるって意味です」

「するか」

流石に後輩に手を出すほど馬鹿じゃない。

「……戸隠さんの良いところって、素直に謝って、次を考えることですよね」

「なんだよ、急に」

「いえ、俺も見習わないとな、って」

そう言って飲み終えた缶を格好よくに投げて、ゴミ箱のふちに嫌われて見事に外す。良いことを言ってもやはり田辺は田辺だ。

俺たちは長めの一服を終えて席に戻る。落ち着いた頭で再度資料を作りはじめる。

(ん……?)

俺はPHSを取り、鹿島に繋げる。

「はい、鹿島です」

「お前、また間違えてるぞ」

「へ?」

俺、今度は怒っていいかな。



△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



(やっと終わった……)

金曜日。長かった一週間がようやく終わった。俺は部屋の電気を点けて、こたつに入る。

時間は夜の十一時。流石に今から料理をする気力はないので、俺はコンビニで買ったお弁当を広げて食べる。

テレビを点けようとリモコンを手に取ると、スマートフォンが震えて着信を知らせてくれる。確認すると、ヒモ野郎の顔が表示されていた。

「よう、久しぶり」

「ああ、どうしたんだ?」

俺はスピーカーモードに切り替えて机の上に置き、お弁当の唐揚げを食べる。

「なんだ、なんか食ってるのか?」

「ああ。今、夜飯だ」

「あ~。悪いな。いいか?」

「いいよ別に。何の用だ?」

「いや、これといって用事はないんだけどな。今晩、響子が帰ってこないから暇で暇で……。久しぶりに戸隠と話をするのも悪くないかなって」

響子とはヒモ野郎の寄生先で、小さいながらも会社を経営している実業家だ。

「浮気されてるんじゃないのか?」

「さぁな。でもまぁたまにはそういうことも許してやらないと。縛りすぎると嫌になって捨てられちまうからな。ま、捨てられても次の女を見つけるだけの蓄えはあるけどな。全部響子からもらった金だけど」

ケラケラと笑うヒモ野郎。相変わらずの屑っぷりに安心した。

ヒモ野郎と話すのはおよそ一年ぶりで、会えなかった時間を埋めるように色々と話し合う。ヒモ野郎の話は相変わらずぶっ飛んでいて面白い。対する俺は童貞卒業計画の進捗を報告する。一通り話し終わると、「戸隠も顔は良いんだから、一緒にヒモの世界を堪能しないか?」と誘ってきたので丁重にお断りした。

俺はふと、田辺にした質問をヒモ野郎にしてみた。するとヒモ野郎も田辺と同じことを言ってから、「童貞を卒業できたのか」と聞いてきたが、すぐに「そんなことはないか」と言ってまた考え始める。

「う~ん。そりゃあると思うぜ。行けないだろうけど」

「あれ、なんか妙に冷めてるな」

「いや、実際問題、観光に行くなら良いけど、勇者とかやらされて戦いになるのはごめんだからな」

俺が今まさにその状況だと知ったら、こいつはどういう反応をするのだろう。

「あ、そういえば、この間やったゲームがちょうど異世界に行くやつだったんだけど……」

そのゲームは王道のRPG物らしく、異世界に行った主人公が勇者になって魔王を倒す話らしい。まさに俺だな。と思う。で、色々冒険があって、大戦争に巻き込まれる主人公を哀れんだヒロインが、主人公を元の世界に戻してしまう。しかし主人公はヒロインを守るために異世界に戻ろうとする。

「で、異世界に戻るのに、ヒロインがくれたお守りのペンダントを持って池に飛び込むってシーンがあるんだ。それがさ、大学の裏にあった池にそっくりだったんだ。あれ、俺たちの大学を卒業したやつが関わってると思うぜ」

「ふ~ん」

ヒモ野郎は熱心に説明してくれたが、俺は八割くらい聞き流していた。

「あれ、反応薄くないか?」

「……眠い」

時間を確認すると、午前二時を回っていた。

「ああ、そういえばお前、仕事遅かったって言ってたな。すまん」

「いや、いいよ。俺もさっきまで楽しかったし」

そう言って大きなあくびをすると、ヒモ野郎がカラカラと笑った。

「久しぶりにお前の声が聞こえて良かったよ。またなんか奢るわ」

「ああ、高いやつよろしく」

「任せとけ任せとけ。高級キャバクラでも連れて行ってやるよ。したかったらお持ち帰りもすれば良い。ま、俺の金じゃねーけどな」

深夜だというのに大きな声で笑うヒモ野郎。あいつの家は超高級なタワーマンションで、夜中にバイオリンを弾いても聞こえないくらいしっかりとした防音がされているらしい。

「じゃあな、お休み」

「ああ、お休み」

そう言って電話が切れる。そのまま寝てしまいそうになった俺は、こたつから這い出し、ベッドの上で横になる。

寝間着に着替えてないし、シャワーも浴びてないし、空になった弁当のプラスチックケースも片付けていない。

(まぁ明日やれば良いか……)

そう思い、俺は目を閉じた。




★ 次のULは 6/21(水) 19:00 を予定しております。

 UL情報などはツイッターにて報告します→@mirai_pretzman

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