第5話 帰還

夢か現実かわからない真っ黒な世界に、流行りの和風ロックが少し擦れた音で鳴り響く。

それが起床を促すアラームだと気付いた俺は、枕元にあるスマートフォンに手を伸ばし時間を確認する。起床時間の十分前。俺はアラームを止めてもう一度布団にもぐる。

あと十分したら本命のアラームが鳴る。その時間に起きて準備をすれば十分間に合う。この起きているのか寝ているのかわからない時間が一番心地いい。

甘い快楽に身を任せながら、昨日までの事を考える。ついに三十路童貞になった俺は魔法使いの国に行き、胸が化け物のように大きいクランと共に魔王を倒す旅に出た。そして襲撃に来たプロクスと名乗るヒョロヒョロの魔法使いをぶん殴って倒し、傷ついたクランを宿に運んだあと、疲れた俺は死ぬように眠った。

三十路童貞になったらこんな非日常が待っているとは思っていなかった。というか、誰もそんなことは思わないだろう。

今日は月曜日。仕事に行かないといけない。昨日の疲れもあって体がだるい。「ああ、仕事がしたくない」と毎朝思うことを今日も飽きずに思い、慌てて飛び起きる。

「俺の部屋、だよな……」

辺りを見渡すが間違いなく俺の部屋だ。

白い壁に誰の作品かもわからない風景画が飾ってある。部屋の中心には、我が物顔で少ないスペースを占領している炬燵がある。その上には見覚えのあるウイスキーと、水が入ったグラスが置いてある。そして俺の横には現代科学の集大成ともいえるスマートフォンが置いてある。慌てて日付を確認すると月曜日の午前七時五分だった。

(夢、だったのか……?)

魔法が存在する世界に飛ばされたり、俺が勇者になって魔王を倒すことになるなんてのも、夢の話なら何も不思議ではない。

そう思う反面、あの世界で感じた風、見たこともない深い森、クランが作ってくれた料理、なにより、クランの胸を揉んだ時の柔らかい感触が鮮明に残っている。本当に気持ちよかった。

スマートフォンが本命のアラームを鳴らす。これは流行など関係ない、本当に俺が好きな曲。これを聞いてから起きると少しやる気が出る。

それを止めてから台所に向かい、コップに水を汲み腰に手を当てて一気に飲む。俺の朝は必ず、このコップ一杯の水から始まる。

冷たい水が火照った体を冷やしてくれる。一息ついてから、もう一度頭の中を整理する。

昨日までのことを夢とするなら、この二日間、俺はどう過ごしていたのか。

こちらの世界での記憶は一切ないが、仮に記憶が無くなってしまう病気だとしても、日課となったSNSのメッセージは返しているはずだ。

そう思いSNSを確認すると、返した記憶がある二つ以外のメッセージはすべて未読になっていた。その日付のほとんどが一昨日の土曜日だ。

つまりこの二日間、本当に魔法使いの国に行っていたのか、もしくは寝たきりだったかのどちらかだ。

(疲れてんのかな……)

昨日の事が本当ならばどうやってこの世界に帰っていたのか。そしてそもそも、どうやってあの世界に行ったのか。

(わからねぇ……)

とりあえず今わかっていることは、今日が月曜日で出勤しないといけないこと、今すぐやらないといけないことは仕事の準備をして会社に向かうことだ。

俺は頭から魔法使いの国を追い出し、準備を始めた。



△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



俺が務める会社は誰に聞いても知っているような大手企業だが、俺が務めているのは本社ではなく、都心部から少し離れた工場だ。

男女平等が謳われて久しいけれども、品質管理課以外の現場で働く女性社員の数は未だにゼロだ。力仕事が多いのと、油まみれになるということで、やはり本社も配属しづらいのだろう。でも最近の入ってくる男の子は非力な子も多いし、油まみれになることを嫌がる子も多いから、それに合わせて機器の変更も行っている。だから女性でも問題なく仕事はできると思う。

一応職責者に当たる俺は、始業時間の一時間前から始まる全体ミーティングに参加する。その後担当しているグループの朝礼を済ませて、デスクワークをこなす。

午後、時間があれば現場に入ろうと思うけど、最近俺が現場に入ることは少なくなった。役職が付くのは光栄だが、現場で作業できないのが寂しい。

「戸隠さん、おはようございま~す」

「おう、おはよう」

会議室に向かう途中で、前からやって来た後輩の田辺が声をかけてくる。

「戸隠さん、土日どっか行ってたんすか? メッセ入れても返ってこないですし、飲みに行こうと思って電話かけても出ないですし……」

「ああ。すまん。ちょっと野暮用で家を空けてたんだ。携帯を持っていくの忘れてな」

不思議そうな顔をする田辺。でも嘘は吐いていない。

「なんすかそれ。戸隠さん、携帯と命は同じ重さだから、携帯を忘れるのは死ぬも同じだ。って言ってたじゃないっすか」

「いや悪い悪い。急用だったからさ。慌ててたんだよ」

そういえばあの世界にこの世界の物を持っていけるのだろうか。もし持って行けるのなら、学生時代に魔改造したBBガンを持っていきたい。まだ実家にあったはずだ。

「やぁ戸隠くんおはよう。そして三十路の誕生日、おめでとう」

「佐々木部長、おはようございます。あとそれは嫌味ですか」

「もちろん嫌味だよ。……でも戸隠くんももう三十路か。そりゃ私も年を取るわけだよ」

「部長はまだまだいけますよ」

「ふふっ。定年間近のジジイをおだてても何も出ないぞ」

そう言いながらふくよかな体を揺らして笑うのが佐々木部長。この工場の立ち上げメンバーの一人だ。工場を知り尽くした佐々木部長は俺の上司で、製造部長として手腕を振るっている。

「じゃあ戸隠さん、また後で」

「おう」

「……田辺くん、仕事で体を壊さないようにね」

「やだな部長。俺、ほぼ毎日定時っすよ?」

「早出が多いだろう、君は」

田辺は子供の都合があってあまり残業できないため、こうして朝早くから仕事をする。

「残業代は大いにつけなさい。私の目の黒いうちは、土山には何も言わせんからな」

土山さんは工場長で、工場立ち上げメンバーの一人だ。そして、佐々木部長とはお互いの手腕を認め合いながらも意見をぶつけ合う、いわば好敵手だ。

「ありがとうございます。でもあんまり無茶しないでくださいね」

「はっはっはっ。ありがとうな」

田辺がタイムカードを切ってから自分の席に向かう。彼も製造部だが、今の仕事はトータルマネージメントで、役職こそないものの、年になれば製造部長になるのだろう。そうなったら俺の上司だ。

俺は佐々木部長とたわいのない話をしながら会議の準備をする。

「おはようございます」

総務、経理部の森川部長とその部下で入社一年目の鹿島が入ってくる。鹿島はこの工場で唯一の若い女の子だ。他にも女性はいるが、ほとんどが大きな子供がいるマダムだ。

鹿島が今日の資料を机に置いていく。その間に会議室には続々と職責者が入ってきて、あっという間に席が埋まる。全員で安全唱和をしてから予定の確認と土日の進捗確認(俺たちの課は土日が休みだが、ライン課は三交代なので土日も出勤している)を終えて解散。三十分にも満たない打ち合わせだが、これがないと仕事に支障が出る。

「戸隠さん。これ、先週の損失金額をまとめたものです」

「お、ありがとう」

打ち合わせが終わり席に戻ろうとすると、鹿島が五枚くらいの資料を渡してくれる。一枚目に書かれた損失額を見てため息を吐くと、その上に黒い箱が置かれる。

「お誕生日おめでとうございます、戸隠さん」

ニコリとほほ笑む鹿島。その笑顔は魔法使いの国で出会った、クランを思い起こさせる。

「おお戸隠くん、鹿島君に貢がしたのかね?」

やり取りを見ていた佐々木部長がこちらにやってくる。

「違いますよ部長。田辺ならまだしも、後輩に貢がすなんてできませんよ」

大きな声で笑う部長。

「で、中身はなんなのかね?」

「あ、大したものじゃないですよ。期待していただいてたら申し訳ないですけど……」

謙遜する鹿島だが、立派な箱から察するに安物ではなさそうだ。

「お、ネクタイじゃん。鹿島ありがとう」

中身はちょっとお高いブランド物のネクタイだった。定期的に出張や取引先への視察があるからありがたい。

「こりゃ鹿島君の誕生日が怖いねぇ~」

「ですね。部長、鹿島のプレゼントを買うために給料上げてください」

「はっはっはっ。それならまず鹿島君の給料を上げるよ」

またふくよかな脂肪を揺らして笑う部長。賃上げ交渉は失敗のようだ。

「鹿島くん、誕生日はいつなんだ?」

「七月二十一日です」

「戸隠くん、これで鹿島くんの誕生日を知らないとは言えなくなったな。鹿島くん、万が一、戸隠くんが忘れているようなことがあれば、私に報告してくれたまえ。厳しい処分を下すからな」

「はい。佐々木部長、ありがとうございます」

「よいよい。君は私たちの娘のような存在だ。何でも相談したまえ」

鹿島は良い意味で人に取り入る上手いと思う。先ほどのアラフォーマダムたちにはいくつかの派閥があるが、どの派閥も鹿島に対しては優しい。逆に俺や田辺には冷たい派閥が多い。とくに田辺に対しては当たりがきついが、やつは生粋のマゾヒストなので大丈夫だ。

「じゃあ鹿島、ありがとうな」

「はい」

もう一度お礼を言ってから席に戻り、PCを立ち上げて、先週グループ内でやらかした大ポカの始末書をまとめてる。さすがの俺も肝を冷やすような出来事だったが、製品こそ犠牲になったものの、怪我人も機械の破損もなかったのは不幸中の幸いだった。とはいえ、佐々木部長を始め、本社の役員にもかなり怒られたわけだが。

(はぁ。頭いてぇなこの額は……)

大物の製品だったので覚悟はしていたが、実際に金額を見るとやはり頭が痛い。やってしまったものは仕方ないので、さっさとまとめて来週の詳細スケジュールを決めよう。

(っとその前に朝礼だな)

やらかした二人を含めて、グループの士気はかなり低い。とにかく二回目がないように、何よりも怪我がないように注意させないといけない。

俺はおもむろに立ち上がり、帽子とヘルメットをかぶり現場へ向かった。



△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



お昼休み。

いつもなら残り物を詰めたお弁当を食べるが、あいにく昨日の晩御飯は残っていなかったので、コンビニで買ったパンを食べながら、SNSに溜まったメッセージを片っ端から返す。

普段からコピペを多用しているので、今回もその技術を駆使して、三十分ちょっとで全てのメッセージを返す。

そして返信が遅れたことを謝罪する内容の文をトップページに載せて終了。暇な連中からメッセージが返って来たけれども、それは業務が終わってから返そうと思う。

「とっがくっしさん」

「ん? どうしたんだ?」

メッセージを返し終わって、持参のインスタントコーヒーで一服した俺に話しかけてきたのは自他ともに認めるマゾヒストの田辺。

「何でも鹿島に愛のプレゼントをもらったらしいじゃないですか?」

「ああ。これな」

そう言ってネクタイを見せる。

「さすが戸隠さん。幾多の女を泣かせてきた男は余裕が違いますね」

「馬鹿野郎。そんなことしてねーよ」

「またまた。今も女はとっかえひっかえって聞いてますよ?」

「どこ情報だ、それ」

真逆で彼女すら出来たことのない童貞だとは言えない。

「でも鹿島のヤツ、本当に戸隠さんにプレゼントを渡すとは……」

「冗談で言ったつもりだったんだけどな」

先月の末にあった飲み会で、いつものごとく王様ゲームをやった時に冗談交じりで命令したのだが、本当に持ってくるとは思わなかった。

「容姿端麗で頭脳明晰、人当たりもよくて誰にでも好かれる鹿島夏姫。くぅ~。俺も嫁に欲しいっすよ」

「お前には俺から嫁をプレゼントしてやっただろうが」

何を隠そう、コイツも俺が紹介した女性と結婚して、もう二児の父親なのである。嫁さんとはいまだラブラブで、時々のろけ話をしてくる。

「いや~。俺の嫁さんも完璧ですけど、鹿島みたいに若くはないですからね」

ちなみに俺の三つ上なので、田辺からしてみれば四つ上になる。

「そんなこと言ってたら殴られるぞ」

「良いっすよ。俺マゾなんで」

くねくねと体を動かす田辺。気持ち悪いことこの上ない。

「……そんなことより、先週頼んでいた資料できたか?」

「あ……」

「お前まさか……」

「すぐにやりま~す」

「おいマジかよ……」

こいつから資料が出てこないと報告書がまとまらない。俺の残業が確定した。

「すいません戸隠さん」

頭を下げる田辺。

「いや、進捗を確認しなかった俺も悪かったよ。頭を上げて、さっさとやってくれ」

「マジですいません。すぐにやります」

そう言って席に戻る田辺。ちょうど午後休憩の終わりを告げるチャイムが鳴った。



△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



時は流れて金曜日。

あの世界は夢の世界ということで結論付けた。

ネットで調べてみたら、たまに一日寝たままとか、記憶が一時的になくなってしまうとか、そういった現象があるそうだ。

ストレスや精神が弱っている時に発症することが多いと書いてあった。俺は特に仕事を頑張ってるし、童貞のまま三十路を迎えたことで凹んでいたので、発症する可能性は十分ある。また起こるようなら病院に行った方が良さそうだが、とりあえず様子を見ようと思う。

しかし頭で結論付けても、心がそれを否定する。あれだけリアルな夢があるのだろうか。何よりもクランの胸の柔らかさだけは嘘ではない。

「戸隠さぁ~んどうしたんっすかぁ~? さぁいきぃ~ん悩んでぇるぅ~姿を、よぉく見ますよ~?」

俺の肩に手を回し、酒臭い田辺が絡んでくる。

「ん? ああ。ちょっとな」

今日は俺の誕生会ということで、少人数ながらもお祝いをしてくれた。

「ちょっとな~。じゃわかんなぁいっすよ~」

酒が入っているせいでウザ絡みが三倍増しの田辺。そんな状況でも、俺のことを心配してくれているのはわかる。

「今日はぁ。戸隠さんの、ヒック。誕生会なんですからぁ~。もっと、はしゃいでくださぁあいゆぉ~」

呂律が回っていないが大丈夫だろうか。田辺も酒が強い方ではない。調子に乗って飲ませると後が大変だ。

「まぁちょっとしたことなんだ。しばらくはテンション低いかもしれないけど、大丈夫だ」

「なぁんかぁ、あったるぁ~。いってくだぁさいぬぇ~」

立ち上がり、今度は佐々木部長に絡みに行った。人事部にも絶対的な力を持っている佐々木部長に悪絡みしに行くって、チャレンジャーだなあいつ。



△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



「うぃ~。お疲れさんですよっと」

飲んでも飲まれるな。二次会(佐々木部長主催の酒盛り会)に行ったメンバーに別れを告げて、俺は帰宅する。

電気を点けると、いつも生活している部屋が俺を迎えてくれる。だが何か変な感じがする。

(なんだろ……?)

何となくいつもと空気が違う。ちょっと肌寒いような、空気が軽いような……。

(酒のせいかな)

今日は少し飲み過ぎたかもしれない。

俺は冷蔵庫で冷やしておいた水を飲んでから炬燵に入る。もうすぐ春だというのにまだ寒い日が続く。「こりゃ今年も春は短そうだな」と思いながらテレビを点けると、深夜だというのにやたらとテンションの高い芸人たちを集めたバラエティ番組が流れる。

わいわいと元気なテレビの画面とスマートフォンを交互に見ながらメッセージを返す。二十分ほどで作業が終わると、途端にうつらうつらとしてくる。

(やべ、ちゃんとベッドで寝ないと……)

このまま炬燵で寝ると風邪をひきそうだ。俺は心地よい炬燵から何とか脱出し、這うようにしてベッドにもぐりこんだ。

(あ、シャワーくらい浴びないと……)

そうは思ったが体は起き上がらない。こうして堕落した生活になっていくんだろうな。と思いながら、俺は睡魔に飲まれていった……。

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