第2話 魔法使いの国

朝日が眩しい。

俺の心とは真逆で今日は良い天気みたいだ。

こんな良い天気の日は出会いを求めて街に繰り出すのだが、今日は一秒でも長く布団の中にいたかった。俺は窓に背を向けて顔に差し込む光を遮る。

今日は記念すべき三十回目の誕生日。でも今日ばかりは何もしたくない。三十路までに童貞を卒業するという俺の夢はかなわなかった。

もうどうでもいい。大学の頃から、延べ十二年間頑張った結果がこれだ。これからも継続して頑張れる気力がもうない。三十路は世間では若いって言われるけど、実際三十が近づいて来ればオールだってきついし、社会的な地位もあってストレスも溜まるし、代謝は落ちてくるし、昔のように身軽に動くことも出来ない。

だからもういい。これから先を諦めるつもりはないけれども、今日一日はドブに捨てる。もしもの時はそうすると決めていた。大きく息を吸い込んで布団を肩までかぶる。少し暑いが気にしない。

(……ん?)

ベッドで寝ていることに違和感を覚える。昨日は少し肌寒かったので、炬燵の中に入りヤケ酒を始めたはずだ。少しすると気分が悪くなったからそのまま寝て、三十路童貞確定のアラームが鳴って起きて、SNSのメッセージを返してまた寝て、その後の記憶がない。もしかして無意識に起きてベッドに入ったのだろうか。

いや、でも何か違う。昨晩肌寒かったのに、朝から布団がいらないほどのポカポカ陽気なんて考えられない。それに今日は雨の予報だったはずだ。

俺は恐る恐る目を開けて、すぐにギュッと閉じた。頭が一気に覚醒する。冷や汗が止まらない。今、俺の目の前には見慣れた白い壁ではなくて、ログハウスのような丸太の壁があった。明らかに俺の家ではない。

「うん……。はっ! 寝てしまってましたね……」

後ろから女性の声が聞こえる。俺は驚いて身をすくめる。とにかく寝ているふりをしなければ、何をされるか分かったもんじゃない。

「勇者様はまだ寝ていますね。意外とお寝坊さんなんですね……」

女の子はちょっと拗ねたような声で、大きな独り言を呟く。そして何かを閃いたのかポンッ。と手を叩く。

「もしかして流行りの、キスをしたら目覚めるということでしょうか?」

キスという言葉に体が反応する。酔った勢いで男としたことは何回もあるけど、女性としたことは母親と姉貴以外にない。王様ゲームで露骨にキスを狙ってみても、当たるのはいつも男だ。ネタとしてはおいしいのだが、口の中は大変苦い。

ふわりと甘い香りが漂ってきて、飛び出るのではないかと思うくらい心臓が高鳴り、汗が全身から噴き出る。

「う~ん。さすがに失礼ですよね……」

そうだ、そのまま思いとどまるんだ。というかキスしなくても目覚めてます。今、額から滝のような汗をかいてるから、俺が起きているってわかるだろう。あ、俺は今、彼女を背にしてるんだった。

「でもこのまま起きない方が困りますしね……。してしまいましょう」

どうしてそうなるんだ! そう叫びたかったが、俺はぐっと口を閉じる。女の子 が徐々に近づいてくるのを感じる。

というか誰なんだ一体。俺は声の主を必死で思い出す。百人以上いる女性友達(音信不通を含める)から必死に声を照合していくけど全部エラー。誰とも合わない。

というかこの声、たぶん若い。二十代前半、いや十代……、十代半ばくらいの声だ。さすがの俺も十代半ばの友達はいない(友達の妹とかそういう間接的な知り合いを除く)。

そうこうしているうちに俺の唇が奪われようとしている。「逃げるんだ俺! とんでもない地雷だったらどうするんだ」と何回も警告を出すが、しかし意思に反して体は全く動かない。頬に顔が近づいてくる。俺はダンゴ虫のように体を丸めてその瞬間を迎える。

「クラン、こちらに来なさい」

相手の顔が俺の頭上に来た時、ドア越しに声が聞こえる。

「あ……今行きます!」

女の子が俺から離れて、扉を開ける音と遠ざかる足音が聞こえる。どうやら部屋から出て行ったようだ。俺は胸を撫で下ろす。

見方によっては千載一遇のチャンスだったんだろうけど、でも変にキスなんかして、お金をせびり取られるのは勘弁だ。

ここは俺のホームスタジアムではない。味方もサポーターもいないアウェイスタジアムの可能性が高い。それはさっきの丸太の壁で分かっている。だからこちらに少しでも落ち度があれば、相手サポーターの声もあって不利な判定をされる可能性が高い。そういう修羅場を経験するのはヒモ野郎だけでいい。

俺はもう一度恐る恐る目を開けて、先ほどの女性がいないことを確認しながら部屋を見渡す。

壁はすべて丸太でできており、唯一平らなのは床だけだ。大きな窓からは太陽の光が十分に入り、その窓の外にある家は妙に煙突が長い。そんな特徴的な家は今まで見たことがない。

十畳ほどの部屋だが、物は少なく、俺が今寝ているベッドと洋服箪笥と、背表紙に文字の書かれていない本が並んだ本棚があるくらいだ。その横には見たこともない奇妙な花の絵が飾ってある。雰囲気を出すためなのか照明は天井から吊り下げられているランプだけで、電化製品どころか配線なんかも一切ない。

先ほどの女の子が座っていたのか、ベッドの横にとても既製品とは思えない、ところどころニスの剥げた手作り感満載の丸太の椅子が置いてある。

ここがどこかはわからないが、とにかく逃げた方がよさそうだ。俺は抜き足差し足で扉に近づき、そっと開けて向こうの様子を確認する。

(誰もいないな。よし)

俺は扉を開けて、部屋の外へ踏み出す。

「勇者様、どこに行かれるのですか?」」

「うわぁ!!」

後ろから声をかけられた俺は驚いて、少し開けたドアに体を預けてしまい、そのまま廊下に倒れてしまう。

「いたたたたっ……」

「だ、大丈夫ですか勇者様?」

声をかけてきた女の子が心配そうに俺を覗き込んでくる。長い睫と大きくて垂れた目じりが特徴的で、小さな顔に似合う小さくて低い鼻と、薄い唇が清楚な可愛らしさを引き立てている。頬が少し膨れていてどちらかというと幼い顔つきだ。俺が初めに予想した通り、十代半ばだろう。

さらさらと揺れ動く黄金色の髪は腰辺りまであり、その綺麗さから染めたのではなく、地毛なのだとすぐに分かった。

しかしそんな浮世離れした美しい顔よりも目につくのが、大きなスイカをそのまま付けたかのような胸だ。息をするたびに上下にゆさりゆさりと揺れる。

「どこか痛いところはありますか?」

「あ、ああ。大丈夫だ……」

俺はゆっくりと立ち上がる。

彼女が息をするたびに、本当に人間なのかと聞きたくなるほど大きな胸が揺れ動く。俺の目は釘づけだが、慣れているのか、女の子は気にもしていないようだ。

「おばあちゃんに報告してくるので、少し待っていてください」

状況の呑み込めない俺を放置して女の子は廊下の奥にある部屋の扉を開ける。

何かを話した後、女の子が手招きしてくる。ここで逃げたら何をされるか分かったもんじゃない。俺は素直に指示に従い部屋に入る。

そこにはいかにも怪しそうな黒色のローブを身にまとった、顔面蒼白で皺の深いおばあさんが立っていた。鷹のような鋭い目がこちらを睨んでいる。殺られる。咄嗟にそう思った。

蛇ににらまれた蛙のように動けなくなった俺を値踏みするように見るおばあさん。一旦引いた冷や汗がまた吹き出してきた。

「ほぉ……これが今回の勇者殿か」

「あ、ども……」

隣の家にヤクザが乗り込んで来たり、酔って呂律のまわっていない外人に掘られそうになったり、車で事故って崖の下に落ちたりと、俺の人生も色々とあったけど、ここまで恐怖したことはない。このおばあさん、本当に人を殺したことのある目をしている。直感でそう思った。

「とりあえずそこに座るがよい」

女の子が椅子を引いてくれたので、俺は素直に座り、おばあさんと対峙する。

一応昨日のことを思い出すが、そういった類の女性を呼んだ記憶はないし、まして俺がそんな童貞の捨て方をしたとも考えられない。何をしたのかは全く覚えていないけれども、とりあえず今が悪い状況なのはわかる。先ほどの女の子がお茶を出してくれる。少し赤いお茶は、人の血を薄めたように見えた。

俺の対面に座ったおばあさんの目つきは相変わらず怖い。職責者面接の時だってここまで緊張しなかった。

「まずおぬし、名前は何と云うんじゃ?」

「と、戸隠大典です」

「トガクシダイスケか……。おぬし、三十路童貞なんじゃろ?」

「うぐっ!」

人が気にしていることをズバリと言いやがった。というかやっぱり童貞ってそういうオーラが出てるのか?

「よいよい。それでこそ勇者じゃ」

なぜこのおばあさんがナチュラルに喧嘩を売ってくるのかはわからないけど、とりあえず年上の方だし、今の状況が俺にとって良くないことだけはわかるので、グッとこらえて大人しく話を聞く。

「順を追って説明しよう」

「よろしくお願いします」

説明する。という単語に反射的に頭を下げる。こんな状況でも社会人の癖は抜けないようだ。

「まずこの世界は、勇者殿の住んでいた世界とは違うのじゃ」

その非日常的な言葉を聞いて、俺は少し落ち着くことができた。それに何となく予想はついていた。俺の親友であり師匠でもあるヒモ野郎は、隠れオタクだからそういうゲームだったり漫画だったりの話をよく話す。

その趣味がバレてはヒモ生活を続けられないため、奴は趣味を満喫するための別宅を持っている。当然、他人の金で買ったものだ。というかあいつの総資産、今いくらあるんだろう。援助してもらったお金を投資に回して大金を得ているのは知っている。その状況で生活費は一円も払っていないわけだから、サラリーマンをやっている俺には想像もつかない額を持っているのだろう。たまにお高いバーに飲みに行っても全て奢ってくれる。しかも他人のカードで。

「うむ、あまり驚かんな。そこは、ナ、ナンダッテー! と驚くところではないのか?」

「いや、俺に聞かれましても……」

このおばあさん見た目は怖いけど、思っていたよりも冗談が通じそうだ。

「まぁよい。この国は今、百年に一回の危機にさらされておる」

そこでお茶を飲むおばあさん。俺もそれにならって一口いただく。ミントの香りが頭の中のもやもやをすっきりとしてくれる。

「かつてこの世界を征服した魔王が蘇ろうとしておる」

ありきたりだな。と思いながらも、俺は先ほどまでの緊張が弛緩していくのを感じた。

逆にコップを持つ手が震えているおばあさん。どうやらその魔王とやらは、相当恐ろしいようだ。

「しかしこの世界に魔王が現れるとき、必ず三十路童貞勇者が現れるのじゃ。それがおぬしじゃ」

三十路童貞を妙に強調したような気がするが、とりあえず突っ込むのはやめておこう。話が先に進まなくなる。それよりもどうやら俺が勇者ということらしい。

「三十路童貞勇者ダイスケよ! 魔王の復活を阻止し、再封印を施すのじゃ!」

いちいち三十路童貞を強調するおばあさん。喧嘩を売っているのか、それともこの世界では三十路童貞が良いことなのかはわからないが、問題はそういうところじゃない。

「おばあさん、初歩的な質問なんだけど、どうやって魔王を倒すんだ? 俺、戦ったことなんてないし、交渉もそんなに上手くないぞ」

女性と仲良くなるテクニックはそれなりにあるとは思うけど、交渉はあまり得意ではない。

「大丈夫じゃ。初代三十路童貞勇者は戦うどころか、走ることもままならなかったと言われておる。それでも魔王の封印をやってのけたのじゃ。それにおぬしが戦えなくても、この子がおる」

「挨拶が遅れました、勇者様。私、クラン・ディーユと申します。クランとお呼びください」

先ほどの女の子が一歩前に出てきて、頭を下げる。重力に逆らって存在を誇示していた胸も、さすがに真下を向くと逆らえないようで、少し伸びてぶらぶらと揺れる。

「こちらこそ初めまして、戸隠大典です」

俺は条件反射的に立ち上がり、頭を下げる。普段なら胸を凝視しているのだろうが、こんな状況でもやはり社会人としての適切な対応ができるようだ。自分でもちょっと怖い。そして胸ポケットに名刺がないことに少し不安を覚える。

「私、まだ魔法使いとしては半人前ですけど、ダイスケさんの剣となり盾となります。よろしくお願いします」

俺はゲームも漫画もそれほど好きではないけれども、流行に乗り遅れない程度には嗜んでいる。魔法使いと言えば、魔法が使える代わりにHPと攻撃力と防御力が低い職業のことだ。そのくらいはわかる。だから剣にも盾にもなれないと思うのだが。というのは野暮だろう。

「うむ。この子はワシがきっちりと魔法を教えた。きっと勇者殿の旅の役に立つじゃろう」

「……で、具体的にどうしたらいいんですか?」

あんまり体に負担がかかることだと、仕事にも支障が出るので勘弁してほしい。

「まずは城に行き、王女様に挨拶をし、王宮魔術師を貸してもらうのじゃ」

「王宮魔術師?」

早速聞きなれない単語が出てきた。

「はい。この世界でもとりわけ優秀な魔法使いのことです」

「へぇ。その城っていうのはどこに?」

「この村から西に行ったところにある。クランは何回も行っておるから、迷うことはないはずじゃ」

クランの方を見るとニコリと笑う。その笑顔を見ると、ドキリと音が聞こえるほど胸が高鳴る。

「……わかった、じゃあ案内してくれ」

「はい」

「クラン、くれぐれも勇者殿に失礼のないようにな」

「はいっ!」

歯並びの良い真っ白な歯を見せて、大きな声で返事をするクラン。少しオーバーリアクションじゃないかな。と思った。



△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



「で、いつ種明かしをするんだ?」

「え?」

先ほどの部屋(クランの自室)に戻り、旅の準備をするクランに声をかける。いくら俺の誕生日だからと言って、ちょっと手の込んだ芝居をし過ぎだ。

「まいったよ正直。ここまで大掛かりなセットを作って、俺を驚かせようとするなんて。ヒモ野郎も頑張ったな……」

こんな大それた準備ができる資産があるのはヒモ野郎だけだ。ファンタジーな設定といい、三十路童貞が勇者な設定といい、俺がファンタジー物に疎く、童貞なことを唯一知っているやつならやりかねない。

「え、えっと……」

「さて、カメラはどこにあるんだ? もうネタは上がってるぞ」

洋服棚を開けてカメラを探す。たぶん高いところにあるだろうと思い本棚の上を探すが、それらしいものは見つからない。

(もしかしてすごく小さいのを使ってるのか?)

そういえばそれで、当時居候していた女性の風呂を盗撮し、裁判沙汰になったはずだ。俺は絵の額縁や裏、机の下や引き出しの中、ぬいぐるみの背中まで隈なく探すが見つからない。

「いったいどこに隠してるんだぁ~」

「あ、そこは!!」

俺はベッドの下を覗き込む。そこにはクランの秘密がたくさん隠されていた。

古臭いが結構マニアックなそれらを凝視してから、何も言わずにそっと立ち上がり、クランの方を見る。

「……言わないでください」

真っ赤な顔をしたクランは俯いて呟く。

「すいません」

セットじゃなくてクランの部屋を借りているだけ。ということを考えてなかった。いやでもこんなベタな所に隠す方もどうかと思うけど。

「勇者様はここが異世界だということを信じていないんですね」

「いや、まぁ……」

「わかりました。勇者様、私が今から魔法をお見せいたします」

そう言って腰に付けている木の杖を取り、目を閉じて何かを唱え始めるクラン。杖の先端が青く光り、さざ波の音が聞こえてくる。

その音が徐々に大きくなっていくと、杖の先端が内側から濡れてくる。

「ウォーターガン!!」

カッと目を開けて杖を振るうと、木の杖から飛び出た青い弾丸が俺をかすめて飛んでいき、大きな音を立てて丸太の壁を破壊する。

「どうです? 信じる気になりましたか?」

自信満々に胸をそらすクラン。また大きな胸がたぷたぷと揺れるが、俺の目はそれ以外の所に釘づけだった。

「え、いや、お前……」

魔法が当たった丸太の壁は、俺が通り抜けられるくらいの穴が開いていた。

「え? あ……」

クランがようやく事の重大さに気が付いた。

「クランよ、何をやっておるのじゃ。部屋の中に動物でも入って来たのかの?」

おばあちゃんが殺気を隠そうともせずやってくる。やっぱりこの人、何人か殺している。

「お、おばあちゃん。そ。その、これは勇者様が……」

「言い訳をするでない!!」

壁を盛大に破壊したクランに説教を始めるおばあさん。年寄りの説教って長い。俯いたクランが俺に助けを求めてくる。

俺はどうするか迷って、クランを助ける方を選んだ。

「おばあさん、その、俺も悪かったんだ。あんまりクランを責めないでやってくれ」

「そうは言ってもこやつは……」

「クランも反省してるだろ?」

「はい……」

「それに今日中には隣町まで行きたいから、このくらいにしてやってくれ」

「それもそうじゃな。……無事に帰って来てから怒るとしよう」

おばあさんが遠い目をする。そんなに長くなる旅なのだろうか。それとも何か別の懸念があるのだろうか。

「それより準備はできたのか?」

「いえ、それがまだ……」

「ならさっさと準備をせんか!」

「は、はい」

また怒られたクランは何もないところで躓いて机の角で頭を打つ。俺とおばあさんは顔を見合わせて、深いため息を吐いた。




★次のULは 5/4(木) 19:00 を予定しております。

UL情報などはツイッターにて報告します→@mirai_pretzman

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