タブレットは恋の味

亨珈

第1話

 新しい年も明けて、つつがなく始業式を終えてからいつも通りに屋上の手摺に凭れて一服する。時折吹き抜ける木枯らしがなかったとしても十分に寒い。体育館からそのまま来ているからコートもなくて、それでもたとえ肩を竦めて震えながらでもニコチン中毒者には至福の時間なのだ。

 新菜は紫煙があっという間に大気中に散っていくのを眺めながら、深々と味わっていた。

「わたしゃーもう入るよ」

 親友の円華は両手で自分の肩を抱くようにして、一本吸い終わるなりさっさと昇降口の向こうに消えていく。新菜だって寒いのは同じだから、これを吸い終えたら教室に戻ろうとは思っていた。ロングホームルームくらいは出ておこう。

 そう思って、ぎりぎりまでじっくり堪能してフィルター部分を摘んで口から離したとき、扉が開いて招かれざる客が現れた。

「あ、またこんなところで」

 キリリと目つきを険しくしてツカツカ足早にやってくるのは、何処ぞのクラスの産休代理教師である。この辺りで悪い方に名を馳せている新菜に正面切って説教してくるのは最近ではこの教師だけだ。

 携帯灰皿をぱくんと開けて吸い殻を押し込む新菜に、腕を組みながら男性教師は吐息した。

「七元(ななもと)はせっかく美人なのに、煙草吸ったら綺麗な髪にも臭いが付いたりして台無しだろう」

 しみじみ残念そうに見つめられて、ぶはっと新菜は吹き出した。

「はあ? 何言ってんすか」

 これでも敬語のつもりである。

 腰を覆うさらさらのロングヘアは、真っ赤にマニキュアされている。

「それにさあ」

 新菜のすぐとなりまで来て、教師はグラウンドを見下ろした。

「ヤニで歯が汚れちまったら、キスの時に彼氏に嫌われるよ」

「はあ?」

 紅潮して、自然と後ずさる体。友達感覚でかフレンドリーに接してくるのも初めてのことだが、まさか教師の口からキスとか言われるとは思ってもみなかった。

 誰が見ても校則違反の服装、すなわちアクセサリー類に踝までのスカートにお腹の見えそうな上衣丈などなど。そんな新菜がまさかキスの一言で真っ赤になるだなんて、教師の方こそ驚いて口を半開きにして一瞬だが動きを止めた。

「あー、まさかまさか、七元ってばキス実はまだだったりとか」

「ち、ちがっ、キスくらいっ」

 動転してうっかり本音を漏らしてしまい、ああーと両手で顔を覆う新菜。

 それを眺めている教師は、いやあ青春っていいね、やっぱり見た目は派手でも子供だねえなんて締まりのない顔になっていたりする。

「でも彼氏はいるんだよね。それは噂通り」

 緩く握った手の甲で口元を隠しながら、教師は校内での評判を思い出していた。曰く、あの七元新菜が付き合っているのは、有名な進学校のその中でも人気のある生徒なのだと。月とすっぽん、そのように揶揄されている。

 噂の真偽はともかく、新菜の様子からしてもなかなか幸せな恋愛をしているようだと教師はひとり頷いた。ならば、と顔を引き締める。

「あのな、耳にたこだろうけどさ、その恋人のためにも止めとけよ。まあすぐには禁煙出来なくてもな、気遣いは大事だ。あと、知っていると思うけど、将来の赤ちゃんのためにもな」

 確かに決まり文句のように殆どの教師や大人からは注意されてきた。それでも、この教師の言い方でようやく新菜の中で何かが変わろうとしているようだ。

 たじろいで後退していた姿勢を正すと、おずおずと新菜は教師を上目に見上げる。

「あの、さ。具体的には、どうすればいいの……いいんですか」

 慣れない丁寧語を使おうとして四苦八苦だ。そんな姿に吹き出しそうになり、慌てて表情を取り繕ってから教師は上着のポケットを探った。

「そうだなあ、さし当たっては、こんなのでも誤魔化せるだろ」

 そこから出てきたのは、テレビでもコマーシャルをやっているミントタブレットの容器だった。恋の味、が謳い文句である。

 はい、と差し出されて、新菜はおずおずと受け取った。商品自体は何度か口にしたことがある。何種類か出ていて、果物のフレーバーもある。けれどもそれを煙草と関連させて考えたことはなかった。

「口寂しくなったら、それでも食っとけ」

 でもこれやったのは他の奴には内緒な。そう人差し指を立てて笑うのを見て、素直に頷く。教師の言葉でこれほどにすんなり自分に届いたものなどなかったように思う。


 いつもなら、屋上がダメならばその手前の踊り場や階段が新菜たちの溜まり場だ。放課後はそこであれこれ喋って時間をつぶし、懐具合が良ければカラオケに行ったりもする。

 新菜の恋人は部活動があるため、基本的に平日にはデートをしない。冬休み中はなにかと理由をつけては会っていたけれど、本当は部活をさぼっていたらしい。

 もうそろそろ二年生が主体のチームをきちんとまとめなければいけないのにそんな様子だから、最近は寝る前に少し電話で話すくらいで彼の方こそ泣きそうになっていた。休日の練習をさぼるなら家まで迎えに行くと脅されているらしい。

 大好きだけど、自分のために好きなことを諦めて欲しくないから、新菜は我慢することにした。グラウンドの関係で大抵は午前しか部活はないから、午後から会えば良いだけのことだ。

 それでも、平日が長く感じるのは仕方ない。

「にーいなぁ。どった?」

 昇降口から校舎内に戻ると、踊り場のすぐ下の段に腰かけて、円華が待っていた。

「さっき円華が降りた後にセンコーにまた注意されてさあ」

 けだるげに髪をかき上げながら円華の隣に腰を下ろすと、ふんと鼻を鳴らしつつも円華は怪訝そうな顔で新菜を見遣る。そんなことでいちいち落ち込むようなタマではないと解っているのだ。

 しかたなく新菜は言葉を続ける。

「ヤニ臭い女はキスしてもらえないぞって」

「はあ」

「んだから、もしかしてさ、あたしそれで」

 呆れ顔の円華が、ああと納得の吐息をこぼした。

「まあ、確かにあの健康優良児は吸わないけどね。でもそういうんじゃないと思うんだけど」

「じゃ、じゃあなんだろ。い、色気かなっ」

「確かに色気もだけどさあ、なんてーの、私もだけど、隙がない女は難しいらしいよ」

「あん? 隙?」

 うるりと上目に見つめられても、こればかりは親友の円華にもどうにも出来ないことだった。

 ふたりとも男に媚びを売らない、喧嘩上等でここまできたのだ。例えその道に関わりない人生初の本物の恋人が出来たとしても、生きざまはそうそう変えられない。

 ふたりの溜息が、重く静かに階段を流れ落ちていった。


 時間ならたっぷりあった。それで考えに考え抜いた結果、甘えてみればと思った。

 けれどこれがまた難しい。

 鏡の前でそれらしい表情をと頑張っているところを母親に見られて「熱でもあんの」とどん引きされるし、自分でも気持ち悪いと思うし、当日の日曜になってもまだ迷っていた。

 その間、あの教師に言われたように口寂しくなったらタブレットを噛んだり家なら歯磨きや飴で誤魔化したりして、数日間の禁煙期間更新中だ。歯の色も抜かりなくチェックしてきたから大丈夫、と駅のホームに降り立ちもう一度確認しながら改札を抜けた。

「新菜ちゃーん」

 栗色の少し癖のある髪を風になぶられながら、満がぶんぶんと腕を上げて振っている。何事かと視線の先の新菜までもが注目を浴びてしまう。うわあと内心焦りながらも、目立つことに掛けてはひけをとらない新菜は視線には慣れている。だからなんでもない素振りで微笑みながら、傍に行ってから今度は安心して笑顔が大きくなった。

「会いたかった~新菜ちゃん今日もめっちゃ綺麗」

 とろけるように見つめられて、そういうのには耐性が低いから頬が熱くなってしまう。

 深いスリットのロングタイトスカートとウールのコート姿の新菜は、知らなければ大学生か社会人に見える。対する満はジーンズにフード付きのハーフコートで、どう見ても年下の彼氏になってしまう。それを本人が若干気にしているのも知っていたけれど、だからといって若く見えそうな服の持ち合わせもない上に似合うとも思えなかったから、新菜は己を貫いている。

「あ、あたしも、会いたかった。長いね、一週間って」

 たどたどしく、でも精一杯に気持ちを伝えると、満が照れながら手を握ってきた。ふたりとも手袋はしているけれど、そのまま満はコートのポケットに突っ込んで中で指を絡ませる。

 心の中ではいっぱい叫びながら、ふたりはそのまま映画館に向かった。

 できれば一番後ろの真ん中、と思いつつもそううまくは行かない。それでも端っこの最後尾が取れたから、新菜を壁際にして隣に満が陣取った。隣が少し年上らしき男性だから、余計に気を使ったのかもしれない。

 映画の種類は、サスペンス要素のある恋愛物の洋画だった。個人的には実はアクション物にしたかったのだけれど、満に尋ねられたときにとっさに指さしてしまっていた。

 別に嫌いなわけじゃない。寧ろ一人で見る分にはどんとこいな感じで、ただこういう映画に付き物のラブシーンを友達や彼氏と観るのはこそばゆい。

 しかし、だ。今日はどうにかして少しでも親密度を上げたい。はっきりいうならキスして欲しい。どうやったら煙草臭くないと自然に伝えることが出来るのかと、頭の中はそれでいっぱいだった。

 肘置きよりも下で、満と新菜の指が絡まっている。最初はこういう恋人つなぎをするだけでも目が回りそうに恥ずかしくて、でも照れながらも満が凄く嬉しそうにしているからふりほどけなかった。

 今では、一緒にいるときに何処も触れていない方が落ち着かない。自分がおかしくなったんじゃないのかと思うくらい、いろんなことが満に変えられていく気がする。

 映画は順調に進み、予想通り主人公たちのいちゃいちゃなベッドシーンが流れる。顔を前に向けたまま気恥ずかしさにちらりと隣を窺うと、同じようにしている満と視線がぶつかった。

 逸らすのは嫌だと思ってそのまま見ていると、絡まったままの指で手の甲をさすられる。くすぐったいと言おうとして、それがすぐに何だかおかしな感覚に取って代わり狼狽えた。

 ふ、と熱い吐息を漏らすのを見て、満が体を寄せてくる。

 なにか言わなきゃと口を開きかけたところに、半分瞼を落とした満の唇が重なった。柔らかな感触。ようやくと覚悟をしていたのに、ぬくもりはあっさりと離れていく。

 瞬きして、新菜は物問いたげにじっと満を見つめた。満も瞬きして、それから苦笑して顔を戻してしまった。

 手は繋がれたまま、その後も新菜は映画どころではなくちらちらと隣を窺ったけれど、もう視線は合うことなく館内に薄い灯りが戻ってしまった。


 不安に押しつぶされそうだった。

 禁煙とかミントとか歯磨きとか、そんな儚い努力は露と消えて、やっぱり口が臭くてキスしたくないんだろうか。そう考え出すともう頭の中はそれでいっぱいで足下もおぼつかない。

 ふらふらとついてくる新菜を心配して、満は商店街のアーケードの下で、比較的人気のないベンチに座らせてから温かい紅茶を買ってきてくれた。

「大丈夫? 新菜ちゃん」

 うう、とどっちともつかない唸り声を漏らし、新菜はありがとうとカップを受け取る。

これ飲んだらミントの香り消えちゃうなあと見当違いのことを考えながら両手で包むように持ちうなだれていた。

「体調じゃないなら、やっぱり怒ってるの? あんなとこでキスしたから」

 隣に腰掛けた満の言葉に、新菜はとびあがらんばかりに驚いて満を凝視する。すごく申し訳なさそうな、叱られるのを待っている犬のような、そんな雰囲気だ。

「ち、違うよ。全然怒ってないし、イヤじゃないし」

 手が塞がっているからぶんぶんと首を振り否定する。満は「ほんと?」と確認してそれからゆっくりと笑顔になった。

「そっか、安心した」

 安心したのは新菜も同様だったけれど、でもまだ油断は禁物だ。

「じゃあ、どうして」

 首を傾げてじいっと大きな瞳で見つめられると、もう観念するしかない。

 うう、とまた喉の奥で唸ってから、新菜は恐る恐る口を開いた。

「あのね、付き合ってもう結構経つじゃん」

 うん、と満が頷く。

「んだけど、ぶっちゃけ何もないのは、もしかしてあたしがヤニ臭いからかな、とかさ、思ってて」

 はあ? とあんぐり満が口を開ける。

「んで、それ指摘されてからさ、今現在禁煙してんの」

「えっ、禁煙。オレのために」

 満の瞳が潤む。ベンチに突いた手とカップを持った手が震えて、何もなければ衝動的に抱きしめているところだった。

「けど、さっきはちょっとくっついただけですぐ離れていくしさ、やっぱりまだ臭いんじゃないのかって。だってほらキスって舌入れたりすんでしょ?」

「ちょっ、新菜ちゃん」

 あー、とこぼして、満はぐいっとカップを干した。くしゃりと握りしめて少し離れた場所にある紙屑入れに投げ込んでから、もう我慢の限界だと新菜の両手の上から手を重ねた。

「早く飲んじゃって」

 急かされて、戸惑いながらも新菜は満同様一息に飲み干す。外気温が低いからとっくに飲み頃になっていた。

 空になるのを待っていたかのように、ぐっと乗り出した満が、唇を重ねる。今度は少し開いたままの新菜の中に入り、丹念に内部を確かめて舌も絡めて吸われた。

 通行人は皆無じゃない。でももう恥ずかしさなんてものは遠くに蹴飛ばして、新菜のカップは満がまた投げ入れていて、存分に腕の中に囲い込んで貪るように恋人を堪能していた。

 やがて唇を繋ぐ糸を舐めとりながら顔が離れて、至近距離で見つめ合う格好になる。

 二人とも息を乱して、目と目で会話が出来そうなくらいに鼓動も重なっているのを感じていた。

「ごめん、不安にさせて。なんていうか、オレもその達人じゃないからさ、タイミング測ってたら何も出来なかったというか。それこそ下手なことして嫌われたらイヤだしさ。ヤニなんて全然気にしてなかったよ。だけど今までほかの奴と付き合ってても一回も禁煙とか思わなかったんだよね。なのにオレのためにだけしてくれるのかと思ったらさ、なんかもう叫びながら駆け出したいくらいに嬉しいんだけど」

「そ、そうなんだ」

「うん。さっきはね、流石に映画館の中でさ、隣に人がいるから新菜ちゃんが恥ずかしいかなと思って」

「ここも人がいるんだけど」

「けど、なんかもう限界だったからさ」

 怒った? と訊かれて、素直に新菜は首を振る。全くそんな感覚はない。外野の他人のことなんてどうでもよかった。

 散々に変な噂を流されてきたので、今更そこにもう一つの要素が加わったところで蚊に刺されたほどにも感じない。

 あのー、とそのままの距離で、満がおずおずと問うた。

「気にしないけどさ、やっぱり禁煙は続けといてくれるんだろ、オレのために」

「さあ、どうかなあ」

 ようやくいつもの調子に戻った新菜は、にやりと口角を上げた。上がり目が細まって、少し不安そうな茶色の瞳を映し取る。

「いい気になるなよ~」

 ちょん、と鼻の頭をつつくと、ええっと満は眦を下げた。別の意味で潤む瞳に、ぺろりと舌を出してみせる。

 そんな予定はないけどね。

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