第78話 一緒に帰れた夜

 2011年1月29日

 原宿の美容室で髪を切った後、「Bunkamura ザ・ミュージアム」で開催中の「クロード・モネ展」を見に渋谷へ移動した。


 15時すぎに美術館へ到着すると、次兄からメールが来た。

「お母さんの熱が37度あり。少し心配」

 美術館へ入る直前に返信をした。

「この病気は熱が高くなるのが仕方ないと先生も言っていたから、大丈夫だと思うけど。少し様子を見てね」

 体温のことが気になったが、たまに熱が高い状態が続いても大丈夫だった。展覧会を見終わってからすぐ帰れば大丈夫だろうと思っていた。


 モネの絵が好きで見に来たかった。母の病のこともあり、行くのを控えていたが、ここ最近は体調が安定していたので、展覧会の終了が迫っていたこともあり、見に行くことを決めた。

 モネの「日傘の女」を見て感動した。他にもいつくかモネの絵を見て楽しんだ。絵を見ている時に携帯のバイブが鳴った。メールが入ったのは分かったが、美術館を出てから見ようとそのままにした。


 17時過ぎに美術館から出てメールを確認すると、次兄からだった。

「お母さんの熱が37.5度に上がって心配なので、今からお父さんと病院へ行ってくるよ」

 さっきバイブが鳴った時のメールだった。メールが入ってから40分ほど経っている。急に不安が込み上げてきた。さっきその場でメールを見ていたらすぐ帰ったはずなのに・・・。母に申し訳ない気持ちになった。

――とにかくお母さんのもとへ早く行こう!

 次兄へメールを打つ。

「了解!今から渋谷から病院へ直行するよ」


 油断したわけではないが、ここ最近は安定していた母を見てどこか安心しきっていた。だから大丈夫と思い、つい展覧会を見に来てしまった。いつどうなるか分からない病と分かっていたはずなのに、母をおいて自分の趣味を優先させてしまったことを悔やんだ。メールが来た時点で読んでいたら・・・。

――すぐに読めばよかった。お母さん熱が出て不安だろうに・・・。絵なんか見に来ないで、お母さんのそばにいてあげれば良かった・・・とにかく急ごう!病院へ!


 渋谷から病院の最寄駅までは地下鉄で行くのが一番早い。渋谷の街の人並みが、なかなか先に進ませてくれない。気持ちばかり焦る。走りたいのに走れない。人をかき分けながら足早に歩こうとするが、足元がついていかず上手く歩けない。ようやく渋谷駅の地下鉄までたどり着く。移動中の電車の中でも、母のことがずっと心配だった。

――37.5度か・・・。それ以上、熱が上がっていないといいけど・・・。

 不安で仕方なかった。


 病院の最寄駅に着く。地下通路から地上へ出ると辺りは暗くなっていた。病院へ急いで向かう。次兄からのメールを読み返す。

「一般外来が終了しているので、救急の方に来ているよ」

 救急と聞いて余計に不安になる。


 病院へ着くとすぐに救急の処置室へ。廊下のソファに座る母を見つけてホッとした。隣に父と次兄が座っていた。

「お母さん、大丈夫?」

「大丈夫だよ。ちょっと熱が出ただけだから。来てくれてありがとう」

 母が喜んでくれて嬉しかった。

 次兄が、

「俺の言った通りでしょ?秀は絶対来ると思ったよ!」

 と、嬉しそうに言った。


 後で次兄に聞いたら、母が「秀郎ひでおは来てくれるかな?」と不安げに聞いてきたという。

「秀は来るよ。お母さんのことなら絶対来るよ!」

 次兄が母に自信を持って答えたという。

 母が「来てほしい」と願ってくれたと思うと、とても嬉しかった。

――間に合って良かった。

「今は何待ち?」

 状況を知りたかった。既に採血を済ませて診察を待っていた。この日は偶然にも主治医のI先生が病院にいたので診てもらえることになった。


 マスクをして毛糸の帽子を深く被った小柄な母。診察を待っている姿が何かとても可愛い。母と会って話せて少し安心したが、やはり熱が出たことが心配だった。

 しばらくするとI先生に救急の処置室まで来てもらえた。みんなで処置室へ入る。


 採血の結果、体温については高いが問題ないとのことでホッとした。ただ体調の調整の為、また一つ新しい薬を増やされた。薬を飲む母からしたら「また増えた」と思っただろう。でも、それで命が助かるのなら頑張って飲んでほしい。


 診察の度に、いつ「入院です」と言われるか怖い思いをしていた。

――良かった~!このまま帰宅できる!

 ホッとして嬉しかった。

「先生がいてくださって良かったです!本当にありがとうございます!感謝いたします!」

 I先生に心から感謝の気持ちを伝えた。

 

 四人でタクシーに乗って帰る。真っ暗な夜の道をライトを照らし走るタクシー。谷中のヘビ道をくねくね走る帰り道。車内で母と話す。

「お母さん、I先生がいてくれて良かったね。ほんと凄い偶然だよね!」

――入院しないで本当に良かった。

 今回ばかりは入院を覚悟して不安になったが、母を連れて帰れる。そんな普通なことがこんなに嬉しいことはない。


 今でも覚えている。母と一緒に帰れて嬉しかったこの夜を。

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