第77話 おしゃれより大事なこと

 2011年1月29日

 母が家にいることが安心感となり、この日は外出をした。原宿の美容室で髪を切り、そのまま渋谷へ移動して、「Bunkamura ザ・ミュージアム」で開催中の「クロード・モネ展」を見に行こうとしていた。


 実はこの日、母は久々に美容室で髪を切り、入院中には出来なかった髪の毛を染めるはずだった。母が美容室へ行く時は付き添いで一緒に行こうと決めていたが、母は数日ためらって、なかなか美容室の予約を取らなかった。

 母がいつも行っていた美容室にようやく電話で予約をして、一緒に行こうとしていた当日。

「美容室はまた今度にするよ。もう少し(体調が)安定してから」

 母は美容室へ行くのをやめた。迷った末に決めたことなのだろう。断りの電話を入れる母。

「すみません、ちょっと体調がすぐれなくて・・・。また今度お願いできますか?」


 とても残念だった。カットして髪の毛を染めれば、気分もリフレッシュできて良いと思っていた。身だしなみは気分を上げてくれる。元気になってくれると信じていたから。


 おしゃれな母にとって、美容室を断ったのはとても寂しい思いをしたはず。理由は分かる。母は病になってから家族以外の人とは会いたくないという気持ちになっていた。自分の弱った姿を見られたくないと考えていた。でも、母は痩せたように見えないし、見た目の印象も以前と変わらない。大病を患っているようにも見えない。


 でも本人にとっては体が弱くなることで気持ちも弱くなり、病院とは違う健全な人たちが集まる美容室へ行くことに抵抗を感じたのかもしれない。

 美容師さんから「お久しぶりですね。どうされていたのですか?」と、答えなくてもいいことを聞かれるかも?と考えただけで不安になり、嫌になってしまったのかもしれない。


 入院中は毛染めによる体への影響を不安に感じた母。体のために染めるのをやめていた。この日も体への影響を考えて美容室をやめたように思う。それなのに僕は自分の髪を切りに行こうとしていた。母に申し訳ない気持ちになった。

「お母さん、本当に美容室へ行かなくていいの?」

「まだ体調が落ち着かないし、また今度にするよ。気にしないで大丈夫だよ。秀郎ひでおは行っておいで」


 その後は最後まで美容室に行くことが出来なかった母。今思い出しても、せめて髪を染めさせてあげたかった。でも母は自分のおしゃれよりも大事なことを選んだ。それは少しでも体調を安定させて、できるだけ長く家族で一緒に暮らすこと。その思いに嬉しくもあり、髪を染めてあげられず切なくもあり。


 それでも母の選択は正しかった。自分のためだけでなく、僕たち家族のためを想ってくれたのだから。やはり一番大事なのは生きること。

 僕たち家族の思いはひとつ。少しでも長く生きてほしい、ただそれだけだった。母も分かっていたからこそ、少しでも体に害があるかもしれない毛染めを断念したのだ。

 家の中で母の白髪を気にする人はいない。外に出る時は帽子を深く被ればいい。


 母が少しでも長く生きてくれる。それだけで嬉しいのだから。

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