第76話 素直に謝れたこと

 母に謝りたいことがたくさんあった。反抗期の頃、僕はとても生意気だった。母に対して生意気な口をきいて怒らせてしまったこと、嫌な気分にさせてしまったことを思い出して、母に申し訳ない気持ちになっていた。


 言い合いになると、僕は自分を正当化させようと屁理屈をこね、威張って話を終わらせていた。我慢して黙る母に悪い気がしていた。

 言い合いすると、しばらくはお互いに口をきかない。僕が悪いのに、謝ってしまえば済むことなのに、素直になれなくて「ごめんなさい」と言い出せない。でも内心は母に謝りたかった。母と話がしたかった。

 当時は母と口をきかずに二日間ぐらいすると、決まって母から話しかけてくれた。そうして話し始めていつものように戻る。


 今にして思うと、当時の自分の器の小ささと無駄なプライドの高さに無性に腹が立つ。もし当時の自分に会えたなら、

「ふざけたこと言ってんじゃねーよ!おまえが悪いんだから、おまえが謝れ!今まで大事に育ててくれたのに!これから先、お母さんが限られた時間を過ごすことを想像できるか?数十年後にそういう時が来るんだぞ?一生後悔するぞ?謝れ!!」

 大激怒しているであろう。


 母を泣かせてしまったこともあった。中学生の頃、人気漫画「北斗の拳」が連載中の週刊少年ジャンプが発売日よりも早く買えるお店があった。家から歩いて二十分ほどの距離だ。

 ある雪の日。ジャンプを買いに行こうとした時、母は「危ないから行くのやめれば?」と止めた。週明けに学校で北斗の拳の内容を言われてしまうのが嫌で、雨が降ろうが雪が降ろうが買いに行っていた。当然この日も雪が降っても買いに行くつもりでいた。しかし、この日は雪が積もり、歩いて行くといつもの倍以上の時間がかかり、さらに夜は路面が凍結して滑るので危ない。母はそれを心配してくれた。


 母の忠告を聞かずに、出かける準備をしていると、母が強く止めた。それに対して強く怒った。

「何がいけないんだよ!」

「夜だし、道が滑って危ないでしょ。明日でもいいでしょ?」

「今日読みたいんだよ!何が悪いんだよ!」

「口の利き方に気をつけなさい」

「うるせーな!」

「親に向かってその口の利き方はないでしょ!」

 頬を平手打ちして来た母の手を掴んでしまった。泣きだす母。

「何で言うことを聞いてくれないの!危ないから心配しているんでしょ!」

 滅多に泣かない母を泣かせてしまった。悪いことをしてしまった。でもどうしても買いに行きたかった。

「注意して行くから・・・」


「ごめん」と言えなかった。ただ雑誌を買いに行くのに、雪が降っているだけで、そんなに怒るなんて思いもしなかった。心配してくれたのだ。

――泣かせてしまった・・・。

 雪の中、歩きながら、母を泣かせてしまったことを反省した。

――こんなに心配してくれたのに・・・。

 道中は事故に遭わずに済んで良かったが、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

――お母さんに心配かけてまで、無理して行くことないな・・・。


 この日以降、天候が悪い時はジャンプを買いに行かなくなった。不良でもなんでもない僕が唯一、母を泣かせてしまった出来事。それは自分の中で小さなことではなく、大きな事件であった。記憶の中でいつも心に引っかかっていた。


 今思えば、何をそんなムキになって母に怒ったのか、泣かせてしまったのか。自分でも情けないほどの小さな器。当時の自分にもう一言。

「母親に心配かけて何を偉そうに!」

――バカなガキだった。


 その後は二十代まで反抗期?というのも長すぎた反抗期ではあるが、俳優の道も上手くいかずアルバイトもつまらない日々。イライラして腐っていた感情を母に八つ当たりしたこともあった。結局、甘えていたのだ。そんな自分が情けない。その頃に、母が余命宣告を受ける日が来るなんて想像もしていなかった。

 だから今は、これまで母を傷つけてしまったことを、そのままにしておきたくなかった。残された時間の中で、後悔のないように母に謝りたかった。


 反抗期に謝らなかったわけではなく、「お母さん、ごめんなさい」と言ったことはもちろんある。でも言い出せなかった時がいくつもあった。言葉に出して謝りたかった。今なら素直に言える。申し訳ない気持ちを伝えたかった。今さらながら、昔のことを素直に謝った。

「お母さん、今までいろいろ生意気なこと言ったりやったりしてごめんね」

「え?何で急に?そんなこと(謝らなくて)いいのに」

 明るく笑う母。

「だって昔、お母さんに生意気な口を利いたりしたから・・・謝っておきたくて」

「いいんだよ。一生気づかない人もいるんだから」

 母は笑顔であっさりと許してくれた。心に引っかかっていたものが取れた。

――言えて良かった。素直に謝れて良かった。許してもらえて良かった。


 親しき仲にも礼儀あり。うやむやにしないで、きちんと母に謝ることができて本当に良かった。素直になること、きちんと謝ることの大切さを母から学んだ。こういう状況で、また一つ気づく。限られた時間だからこそ、気づくことがいくつもある。

 大切なのは、正しく生きること。


 母が正しい人で本当に良かった。母に心から感謝。

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