第74話 母と歩けること 母と食事ができること
2011年1月25日
長兄の車に乗って通院。この日は午前11時までに病院に着いて、血小板の輸血をすることになっていた。血小板は新鮮なうちに輸血するので、事前に日時を予約して行く。しかし、この日は血小板が時間通りに届かず、お昼をまたいで午後に輸血することになった。一旦、家に帰る訳にもいかず、病院から近いどこかでお昼を食べようと探すが、病院周辺は飲食店がない。
ふと思い出す。
――そうだ、喫茶店があった!
病院から歩いて数十メートル先を右に曲がった所にある小さな喫茶店。
母が入院していた頃、次兄とお昼を食べたことがあった。メニューは少ないが、静かで落ち着いた雰囲気のお店。ごちゃごちゃしたお店へ行くより、ゆっくりできて良い。ただ小さなお店で席数が少なく、混んで入れない時もあった。他は病院から離れているので、歩いて母を疲れさせたくない。病院の近くで食べられる所はその喫茶店しかない。
「お母さん、少し歩いた所に喫茶店があるんだけど。軽食あるから、そこでも良い?」
「うん、良いよ」
「少し歩くけど、大丈夫? 」
「大丈夫だよ」
普通なら何てことのない距離だが、ずっと家にいた母にとって、久々に歩く数メートル先は数十メートル先に感じるだろう。数十メートル先なら数百メートル先に感じるかもしれない。
――とにかく無理せず、ゆっくり歩こう。
母が転ばないように、手をつないで歩く。ゆっくり、ゆっくりと。父と長兄も一緒にゆっくりと歩く。
「お母さん、大丈夫?」
「全然大丈夫だよ」
ゆっくりと、でもしっかりと歩く母。
ここ最近で母が外を歩くのは、通院時に家を出て長兄が待つ車に乗るまでの数メートルのみ。喫茶店まで数十メートルという距離さえも、母にとっては久々に歩く長い距離だった。少し心配になったが、母の歩きを見ているとしっかりと歩けているのでホッとした。
母はもともと健脚で山登りが大好きだった。ここ数か月はずっと入院していたから、外を自由に歩けることは気分転換になって良かった。本人にとってもこの数十メートルという距離を歩けることは自信になる。
母と外を一緒に歩けて嬉しかった。「もう一度、母と散歩したい」とずっと願っていたから。母と歩ける幸せ。
ゆっくりと歩いて喫茶店に到着する。
喫茶店に入ると、ちょうどテーブル4人席が空いていた。思いがけない母との外食が嬉しい。ちょっとウキウキした。母と外食するのはいつ以来だろう?8月の静岡旅行以来か。
母が病になってからは、一緒に外食できる機会なんてもうないと思っていた。どんなお店であろうと、母と一緒に食事ができるだけで嬉しい。父も兄も同じ気持ちだった。
さて何を食べよう。メニューは少ない。トーストかピラフかナポリタン。僕と母はナポリタンを注文。料理が出て来るまで何気ない会話が続く。こういう待ち時間も母がいることで嬉しい。
ナポリタンが出て来ると、母が僕に差し出す。
「食べきれないから、先に少し取っていいよ」
小食の母が言ういつもの言葉に嬉しくなる。食べたいから嬉しいのではなく、母がよく言う言葉が出てくることが、普通に暮らしていた頃に戻ったような気持ちになり嬉しかった。だから母と外食に行くと何の料理でも大盛の注文はしない。母の分をもらってちょうど大盛になるから。母が残してもそれを食べる。僕と母は二人で一つというか二人で一人。
「もっと取っていいよ」
「お母さんの食べる分がなくなっちゃうよ」
「私は少しあればそれで良いから。取って」
「じゃあ・・・遠慮なく」
母とのやり取りは昔から変わらない。このやり取りができたことが嬉しい。
落ち着いた雰囲気の中でゆっくりと食事が出来て何より。食後はまた病院まで歩いた。血小板も届いて無事に輸血できて安心した。
母を乗せて長兄の車で帰宅。次兄が仕事で来られなくて残念だったが、母を囲んで外食が出来てとても嬉しかった。
これが母と食べる最後の外食となった。それでも、もう機会がないと思っていた母との外食を実現することができた。とても嬉しく幸せな思い出。
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