第10話
蒸発性過酸化水のシャワーが張り詰めた素肌に当たっては弾けて消えて行く。細かい泡が生じ、泡と共に体に付着した汚物が分解されて行くのだ。温度を感じる間もなく蒸発していくので、さほど寒いとは思わない。
淡い栗毛の髪が、気持ち良くふわふわと浮き立っている。ドナは丁寧に髪を耳の後ろになでつけ、毛先が立たないように細心の注意を払った。
ガタン
びくりとして、ドナは戸口を振り返る。シャワールームのガラスは不透明で、向こう側は淡い陰としてしか見えない。
「だれ?」
返事はない。しかし、だれかがいる。
ドナは戸口から顔を出した。そして、自分の部屋の中を物色している薄汚い男を二人認めた。
ドナは飛び出そうとしたが、素っ裸なのに気付き、つま先まで赤くなった。出るに出られず、
「あ、あなたたち、ここは尼僧のプライベートルームなのですよ、教会の正面から入っておいでなさい」
男たちと目が合う。ドナは赤い顔から真っ青になった。そして、シャワールームの扉を急いで締めて、中から鍵をかけた。
男たちは素早くよってきて、ガラス戸をたたきながら罵っている。つけっぱなしのシャワーが、ドナの冷や汗を次々と蒸発させていく。
ドナは混乱していた。まさに素っ裸では逃げようがない。
「一体何が目的なんですか!? そこにあるものだったらなんだって持っていきなさい。早く行って!!」
最後の言葉は悲鳴に近かった。
しかし、男たちは去ろうとせず、何か堅いものを引きずって、こちらにやって来る。ドナはようやく察知した。もしこの扉が破られたら、自分はどうなるのだろうと、ゾッとした。こんなことは予定外のことだった。
「助けて! た・す・け・て!!」
声は外に届く代わりにシャワールームの中でびりびりと反響して、ドナの鼓膜を痛くしただけだった。
ガラスの向こう側で、大きな影が何かを振りかざし、思い切り良く振り落とした。
布を裂くような悲鳴が響いた。ガラスの破片がドナの素肌に飛び散り、かすりきずを作っている。小さくにじんだ血が、あっと言う間に泡になって消えていった。
ドナは動転して、叫ぶ以外どうしたらいいのかわからなくなってしまった。
しかし、重たく鈍い痛みが腹部に広がり、彼女は失神した。男たちは人形をかつぐようにドナを背負うと、ほかには目もくれず、勝手口からは出ていかず、教会の祈祷室に出た。
長いすに彼女の体を横たわらせると、薄汚い上衣のポケットからプッシュ式の簡易注射器を取り出し、ドナの腹部に当てた。
「彼女をどうするつもりだ?」
男たちは顔を上げ、周囲を見回す。
しかし、「あっ」と叫びが漏れ、二人は聖母像を見上げた。簡易注射器を持った男がよろめいてドナにぶつかった。
ドナははっとして、目を開けた。目の前には聖母像の上に立つ黒い男がいた。黒いコートが裾から広がり、位置的にそれが翼に見えた。
「黒天使……」
黒い男は2m近い聖母像から軽々と飛び降り、そのまま二人の男の頭部と胸部を蹴りあげた。鈍く砕ける音がし、頭部を蹴られた男は転倒した。胸部を押さえ、激しく咳き込みながら、床を這って逃げようとしているところを、黒い男は、逃げる男の背中を踏み締めた。きしむ音がして、男が悲痛の叫びを上げる。そして、そのまま動かなくなった。
ドナは呆然と黒い男を見つめていた。
「何か着るんだ」
とたんにドナは赤面した。しかし、彼はじっとドナを見つめている。動くに動けず、彼女はうつむいた。
「こ、黒天使、あなたが見ていると、あたし、動けないわ」
男は納得がいったようだ。ためらいもなくよそを向いてしまった。ドナは軽く失望した。しかし、すぐに頬が熱くなって、考えようとしていた思考を止めた。
足元に気をつけつつ、ドナはプライベートルームへ駆け込んだ。
ドナは自分の体を見た。醜い真っ赤なまだら模様が体中に広がっている。興奮で皮膚がうっ血している。
(あたし、見られたんだわ……)
そう思っただけで、背骨が縮んでしまいそうだった。
ドナは急いで着替え、祈祷室に戻った。
「黒天使」
まるで自分の名前を呼ばれたかのように、黒い男は自然に顔をドナに向けた。
「なぜ、俺をそう呼ぶ」
ドナは戸惑い、彼がこの呼び方を気に入らないのではないかと思った。
「気に障ったのなら謝るわ。その代わり、あなたの本当の名前を教えて」
黒天使はじっとドナを見つめていたが、
「俺に名前はない。好きなように呼んでくれ」
彼はドナのよく知る人間の種類に属していないようだった。愛想が悪く、ぶっきらぼうで、失礼だった。彼女はどう反応していいのかわからずに立ち尽くしていた。
黒天使は気にも止めず、コートの内側から先に長い針の突いたコードを引きずり出した。そしてかがみこむと、うつ伏せに倒れている男の顔を持ち上げ、耳の中に針を差し込んだ。
「なにをするの!?」
ドナは驚いた。彼が何をしようとしているのか、さっぱりわからない。
黒天使はコードのもう片方の端の針を自分の耳のなかに差し込んだ。
「痛くはないの!?」
ドナは心配そうに彼を見守った。
「なぜそんなことをするの!?」
彼はドナを無視するように目を閉じ、うつむいている。
彼女は落ち着かず、ひざまずき、胸のクロスを両手に握り締めた。ちょうどそんなふうに並んでひざまずいていると、黒天使さえも神に祈っているように見えた。
ふいに黒天使は目を開け、ドナを見つめた。
「君に言わなければ……」
彼の言葉はそこで途切れた。部屋の奥から激しい呼び出し音が鳴り響き始めた。
ドナは反射的に立ち上がり、ためらいつつも電話を受けに行った。
壁にはめ込まれたテレビ電話の通話のボタンを押す。見たことのある顔が画面に大きく映った。
「やぁ、マザー・ドナ。変わりはないかい? 今からガードロボットを持って行きたいんだが、都合はいいか?」
コルベートの人当たりのいい笑顔が、ドナを安心させた。
「わざわざ来て下るんですの? ありがとうございます。助かりますわ」
「じゃ、きっといてくれよ」
電話は切れた。ドナは祈祷室のほうを振り返る。彼がまだいてくれればいいが。彼はいつもいなくなってしまう。まるで幻のように不意に消えてしまう。彼女は不安になって、急いで戻った。
「だれからだった」
黒天使はまだいた。ドナは安心して、微笑みながら、
「コルベートさんから。ガードロボットを持って来てくださるって」
「コルベート?」
黒天使は薄く眉を寄せた。ドナにはそう思えた。彼は表情に乏しい。乏しいどころか、ないに等しい。彼の耳からはまだコードが垂れ下がっている。彼女は自分の耳を指しながら、彼の耳に注意を向けた。
「それは何?」
明らかに黒天使は考えあぐねている。
「言いたくないならいいわ」
「いや、君に理解できるかどうか判断していた」
そして、ずるりとコードを引っ張って、耳から引き出した。ドナは顔をしかめる。彼は少しも意に介さず、
「死体の脳から直接情報を引き出したのだ」
「え……? でも……」
ドナは不意に口ごもった。
「この針は脳の流す微妙な電流をキャッチして、脳神経の代わりに情報を伝達する。電流は俺の頭脳に直接伝導し、言葉に組み替えることができる」
黒天使はドナの困惑の表情を読み取っていた。
「もちろん……人間のできることではない」
彼の瞳は鈍く光をたたえて、ドナの上にひたととどまっている。彼女にはとても信じられなかった。
「怖がることはない。体は人間より強靭というだけで、変わりはない。ただ、俺には脳みそがないだけだ」
「じゃあ……そこはからっぽなの?」
ドナは戸惑いつつ、ゆっくりと彼の頭部を指さした。
「ここには有機体の脳みそが詰まっている。人間の自然の脳ではなく、人工的に作られた脳だ」
「でも……脳みそはないって」
「体に原始的な指令を絶えず送り続ける機能が必要なのだ。ここはそれを担っているにすぎない」
ドナは両手を広げた。
「さっぱりわからないわ。じゃあ、なぜあなたはしゃべってるの?」
「これも原始的な指令の一つだ。俺が人形のように何も話さなかったら、不審に思われてしまう」
ドナの目には救いがたい感情が巣くっている。
「でも、でも……あなたには人格があるように思えるわ……」
黒天使は黙りこくってしまった。ドナは答えを待ったが、彼は壊れたおもちゃのようにうんともすんとも言わない。
ようやく彼が軽く息を吐き出し、
「コルベートとは?」
ドナは推し量るように黙っていたが、しぶしぶ答えた。
「今日の午前中にたずねて来られたかたなの。ガードロボットを取り替えてくださったの。もうすぐいらっしゃるかも」
黒天使はその言葉を吟味するようにドナを見つめた。彼女は落ち着かず、もじもじとし、思いついたように、
「さっき、ねぇ、あなたが言いかけたこと……」
トラックのエンジン音が響き、教会の前で止まった音がした。
「いらっしゃったわ」
ドナは急いでコルベートを迎えるために教会の扉を開きに行った。彼女はずきんも被らず、簡易なシスターの服を着ているだけだった。そうすると、彼女は普通の娘のように見える。
ドナは一瞬黒天使を振り向いた。
感情のない陰気な顔が彼女を見つめている。彼女は胸のうちのすっきりとしないものを振り払うように、勢いよく扉を開いた。
上げ蓋式のトラックの後部座席の扉を開き、型としては割りとスマートなロボットを、コルベートはドナの見ている前に降ろした。
「登録ナンバーはRN−17だから、警察に聞かれたらそう言っときな」
コルベートはガードロボットの首の部分に当たるくびれた溝のスイッチをONにした。
親近感を持たせるために取り付けられた簡易なまぶたが、カシャカシャと音を立てて瞬かれた。チューナーを合わせるようなスピーカー音が響き、
「ピ・ハロー・オナマエヲドーゾ・マスター」
音声には感情的な鷹揚も抑制もなく、最初のうちは聞き取りにくかった。
「まぁ、前のよりかはマシだろ?」
コルベートはガードロボットの頭を軽くたたく。
ドナは戸惑いながら、コルベートの顔を見た。そしてガードロボットのどこを見ているのか分からない視線を捕らえる。
「わたしはマザー・ドナ、よろしくね」
「ピ・マザー・ドナ・ヨロシク」
ドナは満面に笑顔を浮かべ、パタパタとふせられるロボットの瞳を、物珍しげに見つめた。
しかし、彼女は現状を思い出し、不安げにコルベートを見上げた。
「どうしたのかね?」
ドナは教会を振り向く。
「あ、あの……男の人が二人、事故で……」
開け放たれた扉の奥に黒天使の姿を探す。
「黒い服の男の方がわたしを助けてくださろうとして……」
コルベートは渋面を作り、教会の奥を覗く。
「それでその男がどうしたのかね?」
ドナはひとしきり迷ったあげく、「殺してしまったんです。わたしを誘拐しようとした男の人を……わたしを助けようとして」
コルベートのなめらかな銅色の顔色が変わり、「なぜ、警察に通報しないんだ!? 早く!」と、ドナの腕を取り、教会へ引っ張っていった。
床に男が二人倒れている。
コルベートは男の喉元に指を当て、脈を確かめた。口元を歪め、「参ったな……イッちまってるよ……ホラ! マザー・ドナ、早く通報するんだ!」
ドナはコルベートに言い付けられるまま、反射的に私室に走り込んだ。
黒天使がテレビ電話の液晶ビジョンの前に座り込み、回路をいじっていた。
「な……何をしているの?」
ドナは驚いて唖然とし、黒天使を見下ろす。
「回路が切られていた。君はどうやってあの男と話したんだ」
「え!?」ドナは黒天使を見つめる。「話はできたわ……ちゃんと……故障してなんかなかったわよ」
「故障じゃない。死んだ男のうちのどちらかが切ったのだ。それとも焼き切れるように細工したか」
黒天使は小さな溶接機を袖口から取り出し、細い回線コードをつなげていった。
「警察に通報しなくちゃいけないの。もう、使える?」
「ああ」
黒天使は身を起こし、ドナをひたと見つめる。
「ドナ」
ドナはしびれたように黒天使を見返す。
「気をつけろ……君は罠にかけられている」
ドナは突然吹き出した。
「何を言ってるの、黒天使。わたしがなぜ罠にかけられると言うのよ?」
彼女は子供に言い聞かすように微笑みながら、「ここはもともと危険地帯なのよ? だから誘拐魔がいて当たり前だし、ガードロボットが必要になるのよ。神経質になることはないわ」
黒天使は沈鬱な表情で彼女を見つめていたが、フッと視線を外し、液晶を切ったまま、フォンコードを警察署のコードに合わせた。
カチッ
「こちら、7区分署の担当警察官です。ビジョンを切っているのは何か不都合のせいですか?」
黒天使があごをしゃくり、ドナに出るように合図する。
「あの、すみません。7区教会のマザー・ドナです。誘拐犯を誤って殺してしまったのです。すぐに来てくださいませんか」
若い男の声が答えた。
「すぐに参ります。そこを動かないでください」
電話は切れた。
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