第11話

 受話器をもってる手が、しびれるくらいに冷たくなつて、慎吾は何度ももち変えた。

 電話の回線と回線の間に、何か得体の知れないものが横たわっている。沈黙するたびにそいつの息遣いを感じた。

 しかし、回線の向こうの朱鷺子の声が、その怪物を刺し殺すように響いて聞こえた。

「そんなことで、いちいち、わたしに電話しないでください」

 慎吾は神妙に口を歪める。口元でものを考えているみたいに、口をいろいろ動かしてから、静かに訊ねる。

「そうか……なんかあったの?」


 沈黙


 コードレスフォンの見えないコードを探るように、慎吾の手が空中を揺らめいて、自分の服をいじった。「いわなくてもいいですから」

 慎吾は少し突き放すようにつぶやいた。視線は受話器の向こうの朱鷺子を見つめていたけど、迷子になったカンジでフラフラしてから、やっとたつろーを盗み見た。たつろーと視線が衡突する。

 慎吾はさっと目をそらして、「でも、ねえ……帰ってほしかったんじゃなかったっけ」と、急いで付け足した。

 

 沈黙。沈黙。沈黙。


 圧しつぶれるような間合い。

「あのね、この際だからって、君に押し付けるつもりはないんだけども」

 焦ってくる。慎吾は何度もグーで腰をたたいた。

 たつろーはぼんやりと眺めて、慎吾が風景の一部になるように、ひそかに努力した。テレビのつもりで目をこらす。憤吾の姿がどんどん遠く離れて、小人になってしまうまで、たつろーは凝視し続けていた。

 受話器の中は暗闇だ。ブラックホールが朱鷺子を通して広がっている。彼女の震える吐息が、北極から電話していると勘違いしそうなくらいに、はっきりと伝わってくる。

「寒いの?」

「寒くありません一…どうしてですか?」

「声、震えてたから……」


 沈黙。

 

 朱鷺子の沈黙は一種の脅迫なのかもしれない。不意の沈黙には、ムードもへったくれもなくて、ただ慎吾に感じたくないものを感じさせる。音声のない非難が受話器の向こう側に込められている。

「わたし、知りませんから。関係ないですから。たつろーのこと、もう、気にしないことにしたんです。好きなようにさせとけばいいんです。そうじゃないですか?」

 やっぱり寒いのかもしれない。朱鷺子の部屋はクーラーが利き過ぎているのかもしれない。

「そういうこと、わたしじゃなくて、たつろーのお父さんにしてください」

 慎吾は手がしびれた。指先が冷たくて、もう一度持ち直した。どうしても受話器をもつ手に力が入ってしまう。

「そうですか……わかりました……いちいち電話かけたりして、迷惑でしたね」


 沈黙。


 そうですね、と朱鷺子が黙ってるみたいに。

「それだけですか? あたし……忙しいんで……もう」

「はい、失礼しました。すいませんでした。では……」

 先に切れた。

 慎吾の鼓膜が電子音に震える。

 ため息を大きくついて、たつろーをおおげさに振り向いて、「だめだったよ」と笑ってみせた。

 たつろーの目に、憤吾は小さな操り人形に見えた。

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