第10話
僕はキチキチと爪を噛む。ふやけて噛みやすくなった爪を舌の先で確かめながら、ギザギザの爪の先を噛み続ける。今この指を口から離したら、とたんに体の力がなくなって、まるで「て」の字みたいに体が曲がってしまいそうだった。
何も考えていないのに、何かがグルグルと頭の中を蹴散らしながら走り回っている。皮膚の下に一枚、ゴム手袋がスッボリかぶさっている。
足でダンダンと床を打ち鳴らして、壁をぶち割ってしまいたい。真っ暗で狭い部屋に閉じこもって、壁に頭突きを食らわせたい。壁に背中を押し付けて、ギュウとひざを抱えて、このまま石になってしまいたい。
慎吾に手紙を渡されて、泣いては見せたけど、「帰った方がいい」なんて、いってほしくなかった。
親指の爪から血がにじんで、口の中が金臭い。-
自分の顔じゃなくなったみたいに感じて、何回も手で顔をこすってしまう。
洋式のトイレが目の前にドッカとあるのは、何とはなしに陳腐だった。鍵をかけられる場所がここしかなかったから、飛び込んだんだ。戸の下についている明かり取りから光が漏れて、うすぼんやりとトイレの中が目に見える。
トイレの中で深い灰色に沈んだ便器とか卜イレットぺーパーとかが、黒っぽい粒子でいっぱい重なってるみたいに見える。こふきいものツブツブが黒くなったり、白くなったり、赤くなったり、黄色くなったり、青とか緑とかの小さな点々になって、便器とかトイレットペーパーとかになっている。プチプチの明滅する電子の塊が、目を離したすきに全然違うものになろうと、身構えてるみたいだ。僕はそれを見逃すまいと、じっと目をこらす。
ツブツブは、ビリピリ揺れながら、もっと別のものになろうとモジモジしてる。
どんなものになるんだろう。トイレやトイレットペーパーは、すっかり見たこともないものに変わるんだろうか。
昔よくやった「映画」という遊びみたいに、目を閉じてまぶたをギューッと指で押さえ付ける。はじめにジーンと真っ赤な円が真っ黒のスクリーンに広がって、小さくしぼむ。そうすると小さな点から、手品師が口からハンカチの連なったのを出すみたいに、ツラツラといろんな模様のリボンが出て来て、画面一杯に広がるんだ。
万華鏡のように、対称的にパターンが繰り返されて、時々、いろんな色がつく。一瞬だけど、景色とかも出て来たり、見たこともない人の顔が映ったりする。でも、すぐに渦を巻いて、みんなごちゃまぜになってしまうんだ。
回転木馬に乗ってるみたいに、目が回って来て、ちょっと気分が悪くなって、目をあけると、ボワーンと赤い色が目の前を覆っている。チカチカの光点が、妖精みたいにブイーンと飛んで、消滅してしまう。
もう一度、操り返す。
それだけに没頭する。
グルグルと駆け巡る光彩が、その風景と一緒に何もかも連れていってくれるような気がした。スクリーンを見ているうちに、イヤなことがひとりでにどこかへいってくれるような気持ちになって。
首を斜めにかしげて、ひざの上にこめかみを当てる。そこだけを意識して、自分自身がひざとこめかみになってしまうつもりで集中する。
頭の中に鉛をたくさん詰め込まれて、脳みそが溶けてしまってるみたいなカンジがして、ゴシゴシとかゆくもないのに爪でかきむしった。
明かり取りの向こうに、慎吾が座り込んでいる。時々深いため息が聞こえる。
慎吾はあきれてるのかも知れない。
僕はひざに頭を押さえ付けたまま、話しかけた。
「ねえ、起きたまま夢が見れたらいいって、思わない?」
戸の向こうの慎吾はタバコを吸っている。タバコのけむ臭い苦い匂いが明かり取りから入ってくる。
「そしたらさあ、飛べてさ、すごくいいところへいけるんだ」
慎吾はタンを切るような軽い咳をすると、「それで?」と沈んだ声で答えた。
僕は黙った。視線をそらして、トイレの便器のなめらかな稜線を見つめる。
「それで? いいところってどこ?」
フタのところから、タイルまでの曲線を僕は目で追ってから、こたえる。
「わかんない……」
「そうか……」
「うん……」
もしも、この一瞬が一生続くならいいのにと、僕は思う。今過ぎ去っていく一秒を、一生分にひきのばして、脳みそを働かせて、心をひきとめて、思い込もうとした。それは本当に一瞬で過ぎ去って、僕はもう次の一瞬を味わっていた。
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