第9話

 朱鷺子は諦めない。何度目かの訪問のときに、ムッツリと黙りこくる僕を慎吾のマンションから連れ出した。

 二人とも黙ったまま、重苦しい沈黙の中で、二人の緊張した心を感じていた。

 住宅地のちょっと古ぼけた家屋を仕切る塀。僕はそれらを牢屋の張り巡る壁のようだと、神経質な幻視をする。こんなところにいたくない、と心が叫んでいるが、僕はそんな心を押さえることを覚えようと思い始めていたころだった。


 朱鷺子はチラチラとたつろーを見る。思い詰めたようにうつむいて、口元がピクビク引きつっている彼を見て、何ともいえない気分になる。少しイラついて、少し悲しかった。「なによ」というふうに盾をしかめて、そんな気持ちをごまかすように四方を眺める。

「今日はムシ暑いわね」

 静けさが緊張が、朱鷺子にはたまらなく感じられる。あのころのたつろーとの沈黙は、まるで「大人」のようにカッコイイと感じていたのに。それが違っていたと気付いたときには、たつろーの存在は朱驚子の中では、なんだか捨てがたくこびりついていた。イラつくけど、気になる人になってしまっていた。腹立つほどどーしようもない人だと思っているのに、心はたつろーの引力に確実に引かれているのだ。

 「なによ」それがくやしい。なんだかくやしかった。たつろーの甘さや弱さが自分の強さをくすぐった。彼を見ていて、彼の話を聞いているときは、「しっかりしている自分」を強烈に感じていた。別れて時問が経つと、彼の弱さが自分の強さを引っ掻くことに腹が立った。なのに、どうしてこうもズルズルとたつろーと連絡を取らずにいられないのか、理解できなかった。朱驚子は自分がそういう気持ちになるのは、たつろーのことが「スキ」だからなのだと思っている。


 二人の足は意味もなく、道をテクテクと突き進む。二人ともここら辺りの地理に詳しくない。住宅地は依然としてその顔を変えない。

「たつろーは、あたしのこと、スキなんでしよう?」

 朱鷺子はそっと口にする。そして、たつろーの引きつった笑顔を見たとき、朱鷺子は心臓が一瞬大きく鳴った。

「どうして?」

 たつろーはポソリとつぶやく。

「どうしてって……だって……」

 朱鷺子の口ごもるのを見て、たつろーはため息をついて無表情になる。

「理解んない……」

「だったら……さっきの笑い方は何なの? はっきり言葉してよ……」

 たつろーは自分と少ししか背の違わない朱鷺子を上目使いで見つめる。口の中で舌を動かす。言葉を探っているのか、時間をかけて、「キライかも……」と答える。

 朱鷺子は茫然と、なんだかそれでも無理に笑うような顔をして、「そうなの。どうして」と、問い詰める。

 たつろーは言葉を失ってしまったかのように、口ごもった。彼の冷笑に対して強気でいる、しかもまだきつい言葉を吐きかけるつもりでいる少女を見た。

「みんな、ウソの僕を見てるんだ。そんなのは外側だけなんだ。僕の内側を見てほしいんた。僕ね、ウソの僕のことについてみんなにとやかくいわれるたびに、すごくつらくなるんだ。胸が苦しくなってきて泣けてくるんだ」

 朱鷺子の目が一瞬冷ややかになって、ゆっくりと僕にいった。

「みんな……そうなのよ。あんただけじゃないのよ。あんただけがつらいんじゃないのよ。甘えないでよ!」

 音が閭こえた。僕には聞こえた。薄いガラスにひびが入るみたいな、神経に障るような「ピシッ」つていう音が。

 そのとき僕と朱鷺子は三十センチしか離れてなかったけど、まるで望遠鏡を逆さから覗いたときのように、朱鷺子が遠く小さく見えた。僕はだれかにグイグイと後ろに引っ張られてるような、そこからドンドン離れていってしまうような、魂の剥離感を覚えたよ。

 僕は朱鷺子の瞳を見つめて、意昧なくへラリと笑ったんだ。

 こうして僕は朱鷺子に対しても口を閉ざした。

 朱鷺子は宇宙人。僕も宇宙人。朱鷺子の目の中の冷たい惑星。僕は振り回されて、遠心力で朱鷺子から急激に遠のいていった。何もかもがムダだと感じて、雨の降る日に家出をしたんだ。ホントにそれだけのことだ。

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