第8話
朝、目が覚めたとき、自分が寝てる間にゲロを吐いていたのが判った。普通はあわてたり、原因を考えたりするんだろうけど、「鼻血よりマンかも……」と思っただけだった。
朝起き上がったときに鼻血がボドボドって落ちたりはよくしてたし、別にゲロごときで驚くこともないようにそのときは思えた。黄色いシミから臭う酸っぱい匂いを確かめるように嗅いでしまう。
枕は濁った黄色い胃液の色に染まっていたし、その下のシーツは湿っていた。ゲロ吐いて死ぬ人がいるって聞いたことがあるけど、僕が昨日の夜、そんなふうに知らないうちに死んだとしたら、なんだか気味がいいように思えた。
僕は親が気付かないうちに洗濯してしまおうと、べッドからシーツをはぎ取った。
なんだか頭の中が茫洋としてた、そのときは。
風呂場へいって、洗面台にシーツと枕をおいて、ふと顔を上げて鏡を見たんだ。
乾いたゲロが右側の頬にべットリついていて、髮の毛なんてゲ口で黄色く絡んで固まってた。そのときほど自分の精神状態のことを、悲惨に思ったことってなかった。ブワッて「つらい」っていう気持ちが沸き起こって、たまらなくなった。
ゲロ吐いてるときの「つらさ」と、そのことを後から知ったときの「つらさ」はホントに違うって思った。ゲロ吐いてるときはもうそれだけで手一杯なんだけど、ゲロ吐いたんだっていうのを自覚なしに間接的に知っちゃうってのは、なんだか言葉では説明できないような「ガマンできない」気分を味わうんだなって、そのときはじめて感じた。
それは、今までの「こういうもんなのかな」じゃなくって、「こんなんなってしまったんだ」っていう自覚だったんだ。
そのときになって生まれてはじめて家出を考えたんだ。犬やら猫みたいに、「家出したい」っていうホンノーみたにかられたんだ。 ゲロにまみれた枕やシーツや自分を、風呂場で洗いながら泣いちゃったのも生まれてはじめてだった。「つらさ」をホン卜に「つ らい」って思ったのも。
ここにこのままいたら死んじゃうかもって思った。このまま、父さんたちに間接的に殺されちゃうのはヤだって思ったんだ。漠然とだけど、「死」っていうのをリアルに感じたんだ。すぐに煙のように消滅しちゃった感覚だったけど、それが家出の動機の最初のワケ。
僕は父さんの望むようにならなくちゃいけないっていうふうに、言葉でも感覚でも深く考えてなかった。たた漠然と「そうしないといけないのかなぁ」っていうような、目が覚める前の一瞬のあのときみたいな感覚で、父さんのこと、とらえてた。「当たり前」とかでもないんだけど……「そういうこと」なんだって、無意識に感じてたんだと思うよ。母さん見て悲しくなったり、寂しくなったりするのも「そういうこと」。それがね、ゲロのカスにまみれた自分を見たとき、今までの「そういうこと」が単なる「そういうこと」じゃなくなっちゃったんだ。3Dの世界みたいに、リアルに、立体的にその世界にいる自分を感じちゃって、「自分」っていうのが少なくとも「そういうこと」について理不尽に思ってることに気づいちゃったんだ。
僕にとってそれは革命みたいなものだった。ジャジャジャジャーンって「運命」の音が、耳の後ろからこえてくるように感じたんだ。グラリと来たよ。精神的につていうのカナ? 僕独りじゃ「僕」を支えきれないような恐怖感が襲ってきたんだ。僕はとっさに朱鷺子のことを考えたんだ。
朱鷺子……僕にとってすごく絶対的で、自分が彼女のおかげで救われてるように思える女の子だった。多分すがりつきたかったんだ。
今までは「つらい」って茫洋と感じたら、僕は独りになりたくなって学校から抜け出したり、遠い町にいってその気分の薄れるのを待ったりしてた。それでも家には帰ってたけど。
「なんでそんなことするの」って、朱驚子はよく怒ってたな。
だけど、茫洋とした僕の脳みそは、その理由とやらをはっきり言葉にできるほどのものじゃなかったんだ。「つらい」っていうのを「そういうもの」としてとらえてた僕にとって、そーゆー感情を言葉で説明するのは至難の業だったんだ。ぎこちなくって固まってしまって、動かしなれてない僕の脳みそと舌は、なかなか僕の思うとおりにはならなかったんだ。
はじめて「会話」を試みたのはこの時。そして、はじめて「他人」というものを感じたのもこの時。通じないんだ。同じ日本語なのに。しゃべってるのに、まるで外国人のようで。ショックだったよ。「しゃべる」ことが「つらさ」に変わったよ。言葉で表現することの限界とイヤらしさを芯から感じちゃったんだ。そうなると、みんなの要求がそのまま「つらさ」に変わっていったんだ。
わかんなかったらよかったって思う。「自分」に気付かなかったらよかったって、今になって思うよ。
思うとおりに動かない舌にイヤ気がさして、しゃべらないことが「救い」に直接つながっちゃったんだ。だから、僕は家出をする何カ月も前から意識的に口を閉ざすことを覚えた。
でもね、同じ「つらさ」でも朱鷺子だったら、味わってもいいって本気で思ったんだ。舌が動く限り、脳みそが働く限り、努力したつもりだった。僕ね、朱鷺子にはわかってもらいたかったんだ。知ってもらいたかったんだよ、「僕」のことを。そして期待してたんだ。疑いもしなかったんだ。自分を「自分」として、そこにいることを「許可」してくれる人として、朱鷺子のことを考えてたんだ。
何度も一生懸命に僕なりに説明してみたんだ。
「僕ね、ここにいるんだ。ウソの僕を見ないで……ホン卜の僕を見てよ」
「僕はガラスじゃないんだ。ちゃんと中になにか詰まったものなんだ」
「朱鷺子の視線は僕を通り越して、僕じゃないものを見てる」
朱鷺子はいった。
「くだらない」
「よく理解らない」
「そうじゃないんじゃない」
そして僕はこういったんだ。
「みんな、ウソの僕を見てるんだ。そんなのは外側だけなんだ。僕の内側を見てほしいんた。僕ね、ウソの僕のことについてみんなにとやかくいわれるたびに、すごくつらくなるんだ。胸が苦しくなってきて泣けてくるんだ」
朱鷺子の目が一瞬冷ややかになって、ゆっくりと僕にいった。
「みんな……そうなのよ。あんただけじゃないのよ。あんただけがつらいんじゃないのよ。甘えないでよ!」
音が閭こえた。僕には聞こえた。薄いガラスにひびが入るみたいな、神経に障るような「ピシッ」つていう音が。
そのとき僕と朱鷺子は三十センチしか離れてなかったけど、まるで望遠鏡を逆さから覗いたときのように、朱鷺子が遠く小さく見えた。僕はだれかにグイグイと後ろに引っ張られてるような、そこからドンドン離れていってしまうような、魂の剥離感を覚えたよ。
僕は朱鷺子の瞳を見つめて、意昧なくへラリと笑ったんだ。
こうして僕は朱鷺子に対しても口を閉ざした。
朱鷺子は宇宙人。僕も宇宙人。朱鷺子の目の中の冷たい惑星。僕は振り回されて、遠心力で朱鷺子から急激に遠のいていった。何もかもがムダだと感じて、雨の降る日に家出をしたんだ。ホントにそれだけのことだ。
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