第7話

 最近気持ちが落ち着いてきているのか、たつろーはソファに放心して座り、それでもジワリジワリとにじみ出てくる不安を抑えるためにか、クッションを片腕の脇で抑え込んでいる。

 たつろーはクーラーの冷気を、静かな波がくるぶしまで打ち寄せているように感じていた。彼の目の前には見えない熱帯魚が泳いでいる。ゆっくりと眼玉が右から左へ動いている。

 薬が効いているのだ。半分眠っているたつろーは、大好きな水の中にいる。しかし、薬が切れれば不安が増していらつき、些細なことでパニックを起こす。横になって眠らないのはおぼれそうだからということでしない。

 慎吾は安心して隣室で仕事ができない。低いガラス板のテーブルに無地のレポート用紙を広げて、言葉や文字を書きなぐっている。時々差し向かいのたつろーに目を向ける。考え事が指先で螺旋を描き、紙の上には楕円をかたどった鉛筆の線が放物線状に広がっていく。 たつろーは気が向くと、そのときに見える幻のことを語る。薬は効きすぎているのか。彼にはいろんなものが見えている。

 波の音。歌を歌っている人。雨。魚。名前を呼ぶ見えない人。テーブルの上の小人。青い鳥。半覚醒の脳みそが繰り広げる舞台。

 薬を飲ませるのは控えたほうがいいかな、と慎吾は思う。肺炎がやっと治ったかと思ったら、今度は神経症が出て、また病院に連れていく羽目になった。

 夜中じゅう吐き続けるし、食事もしようとしない。気分が悪いはずなのに壁に向かってたったまま、自分と根競べしているのか動こうとしない。カーテンが怖いと泣きわめく。最初ペリズリー柄の落ち着いたグレーのカーテンを、無地の青いカーテンに変えさせられた。そのうちに自傷行為が始まった。腕や手の甲に広がるボールペンでうがった黒い点。包丁もカッターも鍵付きの引出しにしまった。

 慎吾も慎吾の恋人の祥子も、精神の土台がコンクリートでできているのか、思春期にこれほど精神的打撃は受けなかった。

「抑うつ性神経症だと思うんですが……本人が何も話さないと……自傷行為が発展するといけませんから、食後に処方した薬を飲ませてください」

 精神科は困った顔でそう言った。

 祥子の弟ということで彼女の国民保険証をもっていった。たつろーはおびえた不審の目で体をこわばらせて医者を睨みつけていた。慎吾は医者にたつろーがいついてからの病状しか話せなかった。医者の質問でたつろーが答えたのは、「青」という言葉。好きな色。たつろーが最初に会った時に来ていた服は、青のパーカー、ジーンズ、空色のシャツ。

「青は不安の色なのよ」と祥子はいった。青は沈んだ気持ちの色。低迷減退する色。憂鬱の色。

 自分のことになると貝のように口を閉ざすたつろーからは何も聞きだすことはできないけれど。

 梅雨の空は黄色がかった灰色。青いカーテンの隙間から、そんなどんよりとした空が見える。たつローはそんな空のような心を持っていると、慎吾には見える。

 たつろーが足をぶらぶらさせて、気持ち良さそうに歌を歌う。「アメアメフレフレ……」歌を歌い終わると、夢からまだ冷めない定まらない目つきで、「傘買ってくれる? 傘、忘れたんだ……傘持ってきてもらえないから……オレ、困るから……」

「いいよ……」

 慎吾は、この言葉からたつろーのいろんなことを想像する。

「なに色がいい?」

「空色……コバルトブルーがいいかなぁ」「いつ買うの?」「すぐ買ってくれんの?」

 矢継ぎ早にたつろーが言う。慎吾の顔をちらりと見て、すぐに、「いつでもいいよ……傘なんていつでもあるし」とつぶやく。

 ああそうなんだ……慎吾は察する。

 不安。たつろーは幻のような不確定な現実におびえている。すぐにつかめず、不意に消えてしまう。掴んでも消えてしまうような。なぜそれほど、人の気持ちや現実に不安感を抱くようになったのだろう。

 慎吾は立ち上がる。

「さて、ほしい時に買わないと、なくなるかもしれんし、雨も降ってないから、出かけようか」

 飛び上がるようにたつろーもはね起きる。

「ほんとに!?」

 そう繰り返しながら、パーカーを取りに玄関に走る。

 友達づきあいが悪くなるかもな、と慎吾は小さくぼやく。扶養者が増えたことだし。祥子にも手伝ってもらおう。

「早く早く」とたつろーは子供のようにはしゃいでいる。

 期待が決してむなしいものじゃなく、希望も決して捨てたもんじゃないことを少しずつでいいから知ってほしい。慎吾は玄関に立ち、レインコートをハンガーから取ってはおった。

 

 

 

 水たまりの灰色の水のはねるのも気にせず、わざとスニーカーで踏み込んでいく。たつろーは、飛び石ならぬ飛び水たまりを、無邪気に楽しそうに続けている。

 慎吾から見てたつろーはまだ小学生以下だ。高校生に間違いないが幼い。ためしに簡単な学力テストをしてみたが、頭は悪くなさそう。

 たつろーが振り返り、行き先を大声で訊ねてくるが、慎吾の顔つきを敏感に感じ取ったように、「ごめんなさい……どこでもいいよ……」と小さく謝る。

「仏頂面は生まれつきだよ、きにすんな」

 慎吾はわざと渋い顔をして見せる。

「今日はお前の買い物だからお前の行きたいところに行こう。地下鉄にも乗るか……デパートめぐりもいいじゃないか」

 たつろーの顔から不安の色は消えないが、それでも人の顔色をうかがうような緊張した姿勢は和らぐ。

「高くってもな、好きなの選べよ。あとで嫌だなんて言うなよ」

「うんっ」

 こう言うのがたつろーの安定剤なのかもな、こう言うのをもっといっぱい服用しないといけないようなトラウマがこいつにはたくさんあるのかもな。慎吾はポケットに手を突っ込んで、先を行くたつろーの背を見つめる。ときおり、たつろーが不安げに振り返る。そのたびに慎吾は手を振る。そのたびにたつろーは笑い返す。

 なんて大きな子供なんだろうね……

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