第6話

 クーラーのよくきいたリビングでタオルケットにくるまって、たつろーは青いカーテンから太陽を透かし見る。やっぱりまぶしくて目をそらすが、目玉に残る赤い円が妙に心地よくてまた見つめる。あのニュートンも見つめすぎて目が悪くなったという。あのゴッホもそうだ。天才と何とかは紙一重と言うが本当なんだろうか。

 ミノムシになってしまいたい。たつろーは両腕を体の脇にピタリと付けてゴロゴロと床の上で寝返りをうつ。なにもすることがない。午前中も午後も。

「朝っぱらからだらしないのは精神がたるんでいるからだ」とか「ちょっとでも目を離すと、すぐに統制がきかなくなる。お前は本当にダメな人間だ」「自分の行いの一つ一つに責任が持てないのか。与えられた時間や体を有効に使うこともできないのか」

 静かな時間。ゆるやかな空間。

 慎吾は仕事中。窓の外は炎天下だけど、部屋の中は極楽。時々車のクラクションが響く。夜の薄暗いしじまをくぐってトンネルを抜けきるような、車の騒音など聞こえない。あの金切声は嫌い。ささくれた爪で皮膚の柔らかな部分を引っ掻かれているような気がするから。

 カタン、と玄関から音がする。郵便物だね、たつろーは立ち上がりけっとを引きずりながら、郵便物を取りに行く。輪ゴムでまとめられた大きさの異なる数多くの封筒やはがき。それらを隣室にこもって仕事をしている慎吾に手渡す。

 慎吾は一つ一つ目を通し、一通の茶封筒をたつろーにおもむろに差し出す。

「オレに?」

 たつローは道の人物からの頼りにわくわくしながら、封筒を受け取って、どきりとする。達筆な墨の文字で「小田達郎様」と書いてあった。裏を返すと、「小田秀郎」とだけあった。

 かくれんぼの鬼に見つかってしまった。たつろーは短パンの尻ポケットに茶封筒をねじ込んだ。

 なにも言わずに戻ろうとするたつろーの尻ポケットを見て、慎吾はすかさずそれを抜き取った。

 振り返ったたつろーの顔は今にも殴られると恐れる子供の顔だった。

「後で見ようと思ったんだ……」

 しかし、たつろーのおびえた瞳は口にした言葉を見るまいと、慎吾から目を反らす。

 慎吾は黙ってたつローの頭を眺めた後、「これ、お前のお父さんからだろ?」と静かに訊ねた。

 慎吾はなにも言わずに茶封筒の封を破る。

「俺が教えたんだよ」

 たつろーの顔が複雑にゆがんだ。眉も目も口もくちゃくちゃに歪め裏返った声で、押し殺すように、「大人って、いっつもこうなんだ……!」うめいた。

「まぁまぁ……あのな、先入観だけで物事決めつけるの、ヤメな。親に居場所教えるのは結局しないといけないことだろ? 大人ってこうなんだ、じゃなくて、いやなことから逃げるだけじゃなくて、お前も大人になんなくっちゃなんないの」

 綺麗に四つ折りにされた便せんを広げ、「お父さん、帰って来て謝ったら許すってさ」と文面を読んで説明する。

 慎吾は真剣な顔で辛抱強くたつろーの返事を待つ。たつろーは何も言えず立ちすくんでいる。うつむいた頭がふるふると震える。たつろーのだらりと下がった両腕の拳が力いっぱい握られ、関節が白くなっている。

「なんで……謝んなくっちゃいけないんだよぉ……」

 口の端をへの字にしてしゃくりあげながら、しわがれた声をたつろーは上げる。

「たつろー、座んなさい」

 慎吾は父親のようにたつろーに言う。だけどそれは具合は動かと心配するような声。

 タオルケットにしがみついて子供みたいに顔を押し当てているたつろーを見る。

「どうして?」

 たつろーの答えを限定させたくないのかそれだけを口にする。

 たつろーは口をあけたり閉じたりを繰り返す。長い時間かけてやっと、小さな声が漏れ出す。

「オレ……夜眠れなかったんだ」「うん」「それで……眠っても吐いたり苦しくて、だけど誰にも言えなくて……」「うん」「父さんにいっても、気合いが足りないからって言われると思って……」「うん」「顎も痛くて開かなくなって……食事ができない時もあって……起きたりできないくらいだるい時もあって……」

 慎吾は静かに聞いている。たつろーはうつむいたままぼそぼそつぶやく。

「父さんね、オレを男らしくしたいんだ。スポーツが出来て、喧嘩も強くて……母さんはそういうの野蛮だから嫌いって……父さんは兄さんを母さんにとられたから、オレしかいないんだ。父さんも母さんもそれで仲が悪いんだ……だけど、離婚しないのは子供のためだっていうんだ。母さんは頭が良くて勉強ができる兄さんが好きなんだ……オレも本とか好きなんだけど、母さんは頭が悪いのに理解できてるのっていうんだ。こんな子じゃなかったら良かったっていうんだ。父さんはオレが本読んだり絵本見たりするのが嫌いなんだ……女の子みたいだっていうんだ。本読むより外で遊べ、運動をしろって言って、オレの本を捨てちゃうんだ。オレにはそういうけど、父さんは兄さんにはなにも言わない……オレにだけ言って、オレが文句いうと、殴るんだ。母さんと兄さんはそれを見てるだけなんだ。言うとおりにしないからだっていうんだ。父さんは強い子に育てるためだって嫌いで叱るんじゃないって……」

 慎吾は椅子から立ち、たつろーと目線が同じになるように床に座る。たばこを胸ポケットから取り出して火をつける。

「そうするとね、オレ、何が悪くて殴られてんのかわかんなくなるんだ……オレがいるから悪いのかなって……みんなの声にエコーが掛かったみたいになって、声も出なくなっちゃって……だけど、父さんは公正にしたいって言い訳させるんだ。何を言っても結局殴る癖にオレの言い分を聞くんだって言うんだ。くだらないこというな、女々しいこというな、屁理屈をたれるなって……声が出なくなってなにも言えないでいると、生意気だって殴るんだ。父さんは兄さんが自分のものにならないから、オレが憎いんだと思う。オレがダメなヤツだから腹が立つんだ。オレ、だから、いなくなっても父さんも母さんも、だれも困らないって思えて……もしかしたらオレがいなくなっても、誰か代わりになるヤツを見つけてくるだろうって思って……」

「たつろー」

 たつろーの体がびくりと動く。おどおどと恐れるように慎吾を見上げる。

「要するに、お前、お父さんのこと苦手なんだよ」

「そうなのかな……」

「まぁ……簡単に納得されると困るけど、親について何にも話さなかったお前が、こんだけいっぱい話せたんだからいいことなんだと思う。自覚してる?」

 たつろーは首を振る。

「もっと沢山声に出していいんだ。相手に言えなくても俺が聞くよ」

 たつろーの喉がシャットアウトした。

 表通りをマフラーを外したバイクが行き過ぎる、無神経な金切り声が聞こえる。

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