第5話
「朱鷺子は……僕を通り越している……と思う」
雨が降っている。
「朱鷺子は僕だと思って、僕のようなヒトガタに話しかけてるだ」
少女は長い髪を右手で払いのけながら、雨の跳ね返る足元を見つめている。
「わからないわ」
「うん……そうだね……朱鷺子はね、僕という人間を見てない。僕みたいな何かを見てるんだと思う」
二人は降りしきる雨の中、土手の上を歩いている。濁流であふれる川を朱鷺子は眺めている。その横顔を、僕はすがるように見つめている。朱鷺子は白いナイロンのコートのポケットに両手を突っ込み、僕と肩を並べてゆっくりと歩いている。自分の言葉も何もかも拒絶するように向けられる少女の小さな肩を見て、何をできずにいる左手を自分のパーカーのポケットの中につっこんだ。猫背気味の肩は力なく落ち、今にもその傘の柄を持った右手さえ、だらりと垂れてしまいそうだった。「何が気に喰わないの?」「何がいけないの?」それさえも聞けないでいる自分の言葉は、朱鷺子の前で路頭に迷うばかり。たった十センチの差は、僕の心の中でどんどん隔たりをましていく。はがゆさも悔しさも重なり積もり、何がその原因だったのかさえ忘れてしまいそう。だけど、朱鷺子のせいでないことは確か。解けない雪のように覆い隠して、残酷なくらい不安だけはそっくりそのまま僕の目の前に見せつけてくる。それがどうしてなのか、僕にわからなくなってしまったから、僕は朱鷺子に対する不安感を彼女に説明することができないでいる。
「くだらない……」
不意に朱鷺子が吐き捨てるようにいう。僕の喉には、吐き出すことのできなかった言葉の死骸が張り付いている。くるりと少女は振り返って、僕は見上げる。きつく睨みつけるように大きな瞳が僕を見た。
「……怒ったの……?」
僕は他に言いようもなく、不安そうに肩を竦める。
「あんただっておんなじよ……」
朱鷺子は言い放つとさっと目をそらすと、雨降る彼方を見つめる。視界は灰色で、すべてが霞んで見える。はっきりとしない景色。
「僕は……」
握っている傘のビニールのコーティングを爪でひっかく。
「僕ね……ここにいるんだから……」
「そう……」
朱鷺子の鉄の壁をノックしたかった。だけど、まるでその壁は尖った鋲が裏打ちされているようにギザギザで、僕は血まみれになる自分の腕を見るのが怖かった。「泣いたからってどうにかなると思ってるの?」遠い記憶の声が言う。僕はうつむく。いつの間にか歩みは止まり、雨が二人の足元を濡らすばかり。
「甘えてんのよ、あんたは……」
僕は朱鷺子の白い頬を見た。産毛がその白い丘に生えていて、雨の雫がそこに跳ね返って、涙のように見えた。朱鷺子は目をそらしたまま、
「あんたと話してると、イライラする」
と掃き捨てた。
彼女の白いサンダルも僕のスーニカーも灰色に汚れてしまった。
僕の眉はどうしようもなく歪んできて、そのままやっぱりうつむく。ポケットの中の手はしきりに結んで開いてを繰り返し、このままこの手がどうにかなってしまいそうなのをただ待っていた。
「してもらいたがってばっかりで、自分のことばっかり。ねぇ、いい加減にしてよ、ねぇ、たつろー」
空気に溶けた言葉の群れが僕の足元に落ちていく。投身自殺だ。止めようがない。そして、誰も止めてくれない。
「ちっともわかってくれないのはあんたのほう」
朱鷺子のしかめ面が緩んで、「わかってるの?」
そのまま雨に濡れるのも構わず、背を向けて、「自分を囲って、気安いフリしてウソついてるのはあんたのほう。何にも言わないで突然どっかいっちゃうのはあんたのほう。最初っから逃げてくのはあんたのほう。あんたの言うことはみんなくだらない」
うわずった朱鷺子の声が雨の雫を受けて地面に落ちる。
「だけど……どうしようもないから……」
僕のやっとの思いで吐き出した言葉が、
「いいかげんにしてよ! もうっ、もうもうもうっ」
という朱鷺子の怒鳴り声に霧散する。彼女の背中が到底崩せそうにない壁に見える。
「なんであんたなんかを、あたしっ……」
僕は爪を噛む。
『どうすればいいの? どうすればよかったの?』僕のつぐんだ舌の上で言葉は空回りする。教えて欲しい。そうしたら、そのとおりにするから。だけどそのとおりにしてなにか報われたことがあるだろうか。お母さんに世話を焼かせないで欲しいといえわれ、お父さんにうっとしいと言われて。「僕はここにいていいの?」いていいよと言われ、そこにいる自分は本当に自分なのか。
僕の視線は宙を流れ土手の下の濁流に移る。川は荒れ、黄土色に乱れ、溢れ、何もかも流し去っていく。どこまでも。その流れは永遠につづくように思われた。僕は爪を噛みながら思った。
「やめなさいよっ!」
不意に口元の手が朱鷺子に払いのけられる。だらりと手は垂れて。
雨は振り続ける。降り止まない。
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