第4話

「ねぇ、たつろーくん、この間のイラスト、どーなったと思う?」

 狭いキッチンでコーヒーを入れながら祥子が言った。僕は壁に寄りかかって座り込み、まっすぐ祥子さんを見つめる。

「ほら、たつろーくんの顔の」

 僕は眉をしかめる。ぎゅっと引き絞られる眉間のしわを見て、祥子さんはにっと笑う。

「あれねぇ、雑誌の表紙イラストになるんだよ」

 カップを両手に二つ持って、祥子さんは僕の脇に腰を下ろす。

「すっごくいい笑顔」

 たつろーの目と祥子さんの目が合う。

「って、編集のひとが言ってたよ」

 祥子さんは売れない三流イラストレーターではない。しかし狭いワンルームに甘んじている。いつか一戸建ての家を買うのだからとウサギ小屋のような部屋に住んでいる。それなのに祥子さんはほとんどなにをするわけでもない僕をアルバイトに雇って、ちゃんとバイト料をくれる。僕はそっと注意深く祥子さんの心を透視しようとする。

「やい、情けない顔するな、ほめられたんだゾ? おい」

 クシャリと祥子の手が僕の頭をなでる。

 ホッとする。僕の気持ちはちゃんと受け止められ、返ってきた。

「君はちゃーんと働いてるんだから」

 祥子さんは理想のお母さんのようだ。僕が小さいころから憧れて望み続けた母親のようだ。僕に大人でいることを求めない、慎吾と祥子さん。二人の前では僕は小さな子供でいられる。

 祥子さんの膝に抱きついて甘えてみたかった。けれど、それはしたらいけないことかもしれない。子供のように甘えているつもりでも、全然違う風に取られてしまうかもしれない。

「たつろーくん、泣きたいの?」

 優しい祥子さんの瞳。僕は首を振り気を紛らわすようにカップを持ち、薄いコーヒーをすする。祥子さんはしばらく僕を見つめて「さてさて」と立ち上がり、机に座り直す。振り返らずにいった。

「たつろーくん、今度泣き顔描かせてね」

 祥子さんの声はいつでも明るく、苛立ったところがない。「だから?」も「どうして?」もなくて、「そうかぁ」「うんうん」くらいしか、言わない。祥子さんの言葉はズキンとこない。「どうしてかな」と言っても「甘えないで」とは返さない。「甘えていいよ」と言ってくれる。だけど、僕は怖い。いつかそっと伸ばした手をはねのけられるかもしれない。

「ねぇ、たつろーくん、一度、おうちに電話してみたら? 親が嫌いなら、その子にもう一度電話してみたら? 一度切られちゃったからって、諦めちゃダメだよ」

「そうかな……」

 祥子さんはくるりと振り返り微笑んだ。

「一回できたら二回目はカンタンだって!」

 僕は笑えない。

「もしも……切られたら? どうすればいいんだよ? 三回も電話したくない」

「困ったねぇ」

 祥子さんは眉間にシワを寄せ、目をつぶる。ウーンとうなっている祥子さんのそれが本当なのかウソ事なのか、僕にはわかりかねた。「アテにしている」とか「都合がいい」なんていう言葉を家族によくはきかけられたし、「冷たい」「無関心なヤツだな」と言われるのはよくあることだった。僕はそういう言葉を前にして、陸に上がった魚のように口をパクパクとさせているしかなかった。不安がよぎる。

「あっ、そうかっ。切られる前に今いるとこ、ゆっちゃえば?」

 僕は祥子さんの目を見つめる。

「あたしねー、たぶん、その子、来るとおもうんだよねー。だってたつろーくん、母性をくすぐるタイプだもん。その子だってたつろーくんに興味があったからガールフレンドになったんでしょ」

 ニッと笑う。

「オレが……?」

「うんうん」

「どこが?」

「アッハハ、そういうとこ。君ね、とっても面白いの。あたしは面白い子だと思う。あの慎吾だって、たつろーくんに対して一つスジが通ると、あんな世話焼きな性格になるわけだし。なんていうか、たつろーくんはまだ小学生くらいの男の子で、いろんなことまだ何も知らなくて、そういうところがかまってあげたくなるのかな。いろんな秘密が埋まってる宝箱みたいでね、君のこと、もっともっと知りたくなるんだよ」

 朱鷺子はそんなふうに僕のこといった事ない。「自滅的な人ね」といった。そして、恨みがましそうまわりを見ているただのひがんだ子供だともいった。祥子さんは僕のことをそうは見ていない。少なくとも今は? だけど明日は? 明後日は? ずっとそういうふうに見ていて欲しいと僕は思う。

「ヤなことって多いけど、少しずつそんなヤなことが服みたいに自分をカバーしてくれる日がくるんだよ」

「ホントに?」

 祥子さんは優しく笑う。

「悩みって、かさぶたみたいなもん。無理にはがすと痛いけど、いつか自然に剥がれ落ちるもんなのよ」

 祥子さんの言葉は信じたいけど、「ウソだウソだ」とだれかが叫んでいる。「それならどうしてラクにならない?」ドラのような声で頭のなかを走り回り、僕はそれだけで疲れてしまった。

「たつろーくん……最近薬いやがらないでしょう? やっぱり飲んでるでしょう? あたしは……たつろーくんの苦しんでる姿を見るのは辛いから……飲んでいて欲しいな……たつろーくんねぇ、苦しいこと、辛いこと、怖いこと、寂しいこと、全部あたしたちに吐き出していいんだよ」

『でも祥子さん、僕の言葉は喉のところで凍りついてる』

 僕は祥子さんを見つめる。すぐに視線をそらして、四方に飾ってある祥子さんのイラストに移す。水色の雨のような玉が交錯して、ちっぽけなこびとがひとりで佇んでいる。喉まで込み上げてくる感情を言葉にできず、たとえ苦労して言葉にしてみても、朱鷺子には「わからない。苦しいのはあなただけじゃない」と言われてしまった。祥子さんならそんなことを言わないとでもいうのだろうか。僕の言葉を手にした先鋒はたどり着く前に死んでしまう。累々の死体の山を超えられない。恐ろしくなって引き返すだけだ。

「つらいときは辛いって叫んでいいんだよ。子供みたいに泣いてみるのもいいじゃない」

 祥子さんはじっと僕を見つめる。

「……オレ……うまく言えないから……いまさら泣くなんてできないから……」

 惨めな声で訴える僕の頭を、祥子さんはぐりぐりとなでる。

「練習だ、泣いてみよう!」

 祥子さんの眉が八の字に下がる。僕は眉間にシワを寄せる。泣いてみせるのはカンタンなことかもしれない。でも……その後どうなるかわからなくて、怖くて泣けない。泣いたからと言ってどうなるんだろう。

「たつろーくん、感情、表に出すの、怖いんだよね? だけど、ここならだしちゃっていいんだよ」

 小さな頃に大好きな先生の服を引っ張った。「やめてよ、服が伸びるでしょ」置き去りを食らったような、すごくいけないことをしてしまって、どうしようもなくなって、だけど僕は泣かなかった。

 不思議なことに視界がぼやけて、頬を伝いしょっぱいものが僕の唇ににじんだ。不思議だ……祥子さんはまだ僕の頭を撫でている。僕は顔をクシャクシャにして泣いている。泣いてどうにかなるわけじゃないのは知り尽くしてる。だけど、喉の氷はとけていくように感じる。死体はそのままだけど、僕は少しだけ死体の山の向こう側を見たような気がした。

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