第3話

 雨が降っている。サァーッという音が静かに響いている。遠くの方で車のエンジン音がして、細かい雨が視界を遮っている。連なった住宅が雨の間から暗くぼんやりと見える。空は灰色で、少し黄色くどんよりと曇っている。まだ昼なのに、冬場の夕方のように見える。


 たつろーはベランダに出て、雨の街を見ていた。前日までは街の排気をすった生臭いじめじめとした空気だったが、今日は昨日の雨のために気温が低くなって寒気すら感じられるほどだった。それでもたつろーはTシャツに短パンで平気なようだ。


 風はなく、開け放たれたサッシから雨は入ってこない。手すりの少し前までは雨でずぶ濡れだが、たつろーはそこに手をかけて街のスモッグに汚れた雨を受けている。聞こえない程度に口を動かしてなにか歌っている。たつろーは幼稚園児や小学生だった頃のことを思い出していた。たつろーの母親は雨がふった日は傘を持ってきた。でもそれはたつろーのための傘ではない。母の目の中には一つ年上の兄の姿がいつもあった。兄のために届けられた傘の中にたつろーも入り、雨にぬれてもいないのにずぶ濡れになっているような感じがしていた。「ねぇ、僕の傘は?」鏡に向かってしゃべっているような毎日。「わがまま言わないの」繰り返し言われた言葉。「もう忘れていい頃だ」といわれてしまったあの頃のこと。「アメアメフレフレカアサンガジャノメデオムカエウレシイナ」


 青いカーテンの掛かっているサッシの向こうから男の声がする。慎吾はベランダに顔を出すとたつろーを見て眉を顰める。


「なにやってんだ」

「雨をね、みてるんだよ」

「ハゲになるぞ」

「なんでさ」

「最近はここら編の雨も酸性度が強いんだってよ」


 たつろーは振り向く。


「アデランスにするから気にしないよ」

「クーラーきいてるからしめるぞ」

「うん」


 慎吾はカラカラとサッシを閉めた。


 たつろーは空を見上げる。好きだった星の本を、こころの中で開いてみる。金星の硫酸の雨を今自分が浴びているとしたら、すぐにドロドロと溶けてなくなってしまうんだろうか。それとも骨になってしまうまで痛みを感じながら死んでいくんだろうか。頬に落ちてくる雨はざらついている。雨が乾けばたぶんベランダはススだらけになるんだろう。そう思った瞬間、手すりが我慢出来ないくらいに汚らわしく思える。さっと手を外し、やり場の無い手をしようがなくシャツにこすりつける。今は大丈夫。今は大丈夫。呪文のように繰り返す。


「たつろー」


 サッシが開く。


「スイカ切ったけど食うか?」


 たつろーはぱっと振り向き、嬉しそうにうなずいて部屋の中へ入る 。慎吾はさっさと入ってきたたつろーを見ていった。


「あっ、バカ! 足と手、拭いてから上がれよ」

「でもタオル持ってないし」


 たつろーは青いカーテンの隙間からベランダを覗く。置いてきぼりにしてきた何かが自分を恨めしそうに見つめている気がする。今は大丈夫。たつろーは黒い合成皮革のソファに座り、ガラスの板がはめ込んであるテーブルの上の赤いスイカを手にとった。スイカの汁で手が赤く染る。急いでフェイスタオルを持ってきた慎吾が呆れた顔で見ていた。


「なんでそうだらしないのかね」


 じじむさい言い方で慎吾は呟くと、たつろーの向かい側のソファに腰をおろしてスイカを手にとった。スマイルカットされたスイカに食塩をかけながら、慎吾がそれを食べるのをじっと見ていたたつろーは不思議に思って聞いた。


「そうすると、うまい?」

「まぁね」


 白い食器の上の半個分のスイカは瞬く間になくなっていく。二人の取皿の上に緑色と白い部分が残っている皮が積み重なっていく。カツンカツンとときおり口に貯めていた種を吐き出す音だけがする。


「どーゆーふうにうまい?」

「普通より甘くなる」

「かけないで食べたのとかけて食べたのとどっちがうまい?」

「わかんねーよ、そんなこと」


 二人の口の周りは果汁で真っ赤になっていた。水気をすってふやけた指の先がたつろーは気になって仕方ない。


「あのさぁ」

「うん?」

「オレさ、こーゆーの見ると気持ち悪くなるんだ」


 赤くふやけた指先を慎吾に見せる。


「みてるとさ、こう、頭の中にドロドロとしたものが見えてくるんだよね、本当は頭の中っていうより目の少し上くらいに見えるわけ」


 その指で額より少し離れた場所を指す。


「一度さ、固めたばっかのアスファルトのでこぼこ見ててさ、吐き気がするくらい気持ち悪くなって、その道、二度と通らなくなった」

「へぇ」


 慎吾はプット種を吐き出す。


「俺にはないな、そーいうの」

「あんたは現実主義者じゃんか、ないよ、そーゆーの」

「じゃあ、お前は非現実主義者なのかよ」

「そうじゃないよ」


 そういうのじゃないのだけれど、どういえばいいのかわからない。歩兵を組んで前列前へ進め。


「現実主義者とかはそういうのじゃないと思うね。俺は実際強いんだよ。ぐしゃぐしゃしたの見ても気持ち悪くならないから」


 撤退だ。振り出しに戻れ。だけど最初っから歩兵なんていない。じゃあ、本当のリアリストってなんだろう。何でも平気な人の事を言うんじゃなかっただろうか。「現実を見ろ」と誇らしげにたつろーの父親は言い放った。そう考えているうちにたつろーの心臓は雑巾のように絞られていく。たつろーの歩兵は父親にくびり殺されていたけど、慎吾の前では大丈夫だよと声をかけられるのを物陰からじっと待っていても安心のように思える。


「何日目だっけ?」

「なにが?」

「オレが来てから」

「ええ? あー、二十日くらい?」

「そんなになるかなぁ」


 ぬらしたタオルで手と口の周りを拭きながら慎吾は、

「なに? 家に帰ることにしたの? チョーうれしい、やっと洋子を部屋に呼べる」

 と、にやにやし、タオルをたつろーに投げてよこす。


 タオルを投げつけられたように感じる。放り出されたように思う。


「わかった……」

「まじめな話、警察に行けよ、捜索願出てんじゃないの?」

「わかんねー……そんなこと」


 しつこいくらいたつろーはタオルでごしごし手を拭いている。


「ぜんぜん知らないやつをずっとおいとくわけにはいかないし、余分な金もないし、しようがないね、二十日もおいとくなんて俺ってやさしー」


 たつろーはまだ手を拭いている。指を一本一本ぬぐいながら、弱々しくつぶやく。


「すぐ出てく、いままでありがと」


 唐突に立ち上がり、部屋の隅においてあるズタ袋のようなバッグとコート掛けのパーカーとキャップ帽を手にして、慎吾があっけに取られている間にマンションのドアを閉めた。


「あ……あいつ」


 さっとベランダに目を向けると雨は本降りになっていた。


「そーいえば雨の日だったよな……」


 一時間ばかりぼんやりとたばこをすっていた。大またに開いた足がせわしなく揺れる。時々足をぱんっと手でたたくが、貧乏ゆすりはますますひどくなる。慎吾は意を決したように立ち上がるとスタンドライトの置いてあるサイドテーブルの上のコードレスフォンを手に取った。指先が覚えたいつものナンバーを押す。


「あ、祥子? 俺」


 受話器を耳に当てうろうろ歩き回る。


「あのさ、今から出てこれる? うん、俺のマンションの前。うん、じゃあな」


 落ち着かない様子で慎吾は乾かしていたレインコートをハンガーからひったくった。勢いでハンガーが床に落ちる。横目でそれを見るがそのまま玄関へ向かい、コート掛けの背広のポケットを探って鍵と財布を取り、レインコートのポケットの中に収めた。


 マンションの前に出ると祥子はもう来ていた。祥子のアパートはここから歩いて一分もかからない場所にある。花模様のピンクの派手な傘を差して、サーモンピンクの薄手のレインコートの中に手を突っ込んで立っていた。


「あの子のことでしょ」


 祥子は慎吾に傘を差し出す。慎吾は傘を受け取り、

「ああ」

「ケンカしたの?」


 祥子は少し怒っているようなつっけんどんな言い方をした。慎吾は地面を見ながらうそをついた。


「別に……二十日もいるなっていったら、出てった」


 祥子はそんな慎吾を見て眉をしかめる。しかし口元はしっかり笑っている。


「ウソ。でも探しに行っちゃうんだよね、慎吾は」


 二人は視界のぼやける雨の中を歩き始める。雨はひどくなり傘はまるで役に立たない。


「台風かな」


 祥子は足元を見ながら言う。


「十号とか言ってたな」

「もう十コもきたのかぁ……すっかり夏なんだね」


 祥子は狭い路地に視線を向ける。


「これってお情けとかえらそーなお慈悲とかかなぁ?」


 しばらくして慎吾がぼそりとつぶやく。


「かもね、でも、あたしは見ないフリするのはイヤ」

「募金とかするほう」

「ぜんぜん。あたしは体で示すほうだな。別にお金で済ませる人がいたっていいと思ってる」

「そうか」

「だけど、たつろーくんのことはいまさらお金で済ませるのはどうかな」

「それはない」

「うん、わかってる。慎吾はしないと思う。でもたつろーくんはどう思ったかな」





 慎吾は目を周囲に泳がせる。


「また自販機の横かな」

「かもね」


 雨脚は一向に遠のかない。時々遠くのほうで臼を回すような音すらし始めた。雨は横風とともに激しく降りかかってきて、傘の骨がひっくり返りそうになる。


「いないね。サ店にでも入ってるんじゃないかな」


 傘をたたみながら慎吾が言う。


「あいつ、金持ってないんじゃないか。あのときもそうだったし」

「お小遣いくらい渡せばいいのに」

「なに言ってんだか」


 町内はもう一周していた。


「やっぱあそこかなぁ」


 隣町の、最初にたつろーを見つけた場所。


「まさかぁ」


 祥子はくすりと笑った。


「一度あることは二度あるってね」

「アッハハ」





「おい、このバカ。何もこんな日にでるこたないだろーが」

「ほんとに最初のところにいるなんて思わなかった」


 屋根のない自販機の横にうずくまって耳を機械に押し当てうつむいている、ずぶぬれのたつろーの頭の上で二人は怒鳴った。きょとんと二人を見上げたたつろーは、眉を歪ませて泣きそうな顔で、「また会ったね……」と言った。

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