第2話

 インターホンが、薄暗い重く沈んだ部屋の中で反響する。二、三度繰り返されてもう一度なるかと耳を澄ませる頃、またインターホンはうめいた。


 仕事場で椅子に寄りかかっていた慎吾はもう二度と鳴らないことを願っていたが、意外と訪問者はしつこかった。言い訳を考えながら玄関のドアスコープを覗くと、ロングヘアの少女が口元をへの字に曲げてドアを睨みつけている。


 少しドアを開くと少女は隙間を手で押さえて、「たつろー、たつろーいるんでしょ? お願いですっ、会わせてください」


 慎吾は動転する。少女はつま先までドアの隙間に押し込んでくる。


「ちょっと……キミ……だれですか」


 慎吾はドアを全開にして少女を招き入れようとした。あんなにも拒絶することを許さなかった癖に、少女はそこにたったままでいる。


「朱鷺子です。たつろーはどこですか」


 夕暮れ時だった。たつろーは祥子のところにいる。

「中で待ってれば? もうすぐ帰ってくるし」


 朱鷺子はじっと警戒する目つきで慎吾を見上げる。


「あいつ、アルバイトしてるんだよ、俺の友達ンとこで」


 朱鷺子の瞳は部屋の奥を見透かした。締め切ったカーテンを、暗く背景に沈んだソファを、そしてもう一度慎吾を見る。

「ここでいいです。でもずっと待ちます」


 朱鷺子は顔を背け、通路越しの向こう側の風景を見つめた。灰色の塊が藍色にぼやけて、白い光が整然と並んでいる。輪郭はごまかされて、まるで光が無数に浮かんでいるよう。


 慎吾は解きこの背けた横顔におじけづく。なんとなく悟る。一点の曇りほどの言い訳もできない少年と、残酷なくらい高潔な少女。


「まぁ、そんなこといわずに、コーヒー煎れるから」

 慎吾は意を決する。少女に嫌われるのはほんの一瞬だけだと思い。


 腕を引っ張られ、抵抗もなく、素直に朱鷺子はソファに座る。程なく入ったコーヒーの匂いが、今の淀んだ空気を隠す。蒸し暑い。少女は汗ばんでいる。慎吾はクーラーのリモコンを取り、スイッチを入れた。


 静かに機械は動き出し、朱鷺子は今度は明るい光の下にある部屋の中を見めぐらす。機械音は鼓動のように部屋の底に響き、それはもう騒音では無くなっている。


「すいません……」


 朱鷺子は受け取ったコーヒーを、意味もなくスプーンでかき混ぜる。


「このあいだ、たつろーから電話がありました。その時ここにいるって聞いたんです。たつろーは……」


 朱鷺子は慎吾を見つめる。ひたむきな瞳からは、不似合いなくらい強情な意志が放たれている。

「わたし……」


 言葉を選んで手繰り寄せている。喉に詰まってそれは吐息になって漏れていく。

「わたし……ひとりできました。誰にも知らせずに……たつろーとちゃんと話しあおうと思って……」


 ブオーンと鳴り響き、機械音が床に蓄積していく。朱鷺子は黙り、舌の上でだけ言葉を転がしている。背筋を伸ばし、口元を引き締める。


 カチカチと時間が凍り付いていく。一瞬息が止まったように感じる。


 ふいにインターホンが鳴る。朱鷺子は白昼夢から覚め、慎吾は意味もなく笑みを浮かべて、張り詰めた糸の間をすり抜けていく。朱鷺子の糸は絡んだまま、じっと玄関を見つめている。




 ドアがあけられた途端、たつろーは凍りついた空間を感じた。ドアは遮断していた雰囲気をどっと外気へ押し出した。慎吾の表情を見て、女物の靴を見つける。心臓は収縮し、悪いものを食べた時のように何とも言えない汗がにじみ出る。


「……お前にお客様」

 立ちすくむたつろーの肩に手を置き、慎吾が言う。


「早く、ずっと待ってたんだから」


 振り子のようにたつろーの足は動き、耳元で心臓が鳴り響く。誰なのかわかっていた。ひきつった薄笑いがたつろーの口元に浮かび、ソファに座っている朱鷺子を見た。


 二人は静かに見つめ合っていた。朱鷺子の両膝の上におかれた手に力がこもっている。彼女の瞳の中で冷たい衛星が光っている。


 慎吾がたつろーに声をかける。


 糸が切れる。プツンと音を立てて。朱鷺子は立ち上がり、無防備なたつろーの頬を引っ叩いた。

「たつろー!!」


 朱鷺子の感情がその冷たい衛星からほとばしる。たつろーは床を見る。冷たいよどみの底に魚が泳いでいる。それを目で追う。二人にもう言葉はなかった。朱鷺子は泣いていて、たつろーはうつむいたままだった。慎吾の役目はい終わったのか、幕が閉じたように彼は部屋から去っていった。


「なんとか……いって」


 たつろーは片手で頬を押さえてつぶやく。

「痛かった……」


「たつろー……私の目を見てよ……」


 たつろーは顔をあげる。沈黙が二人を育んできて、そして気まずくもした。たつろーの言葉は喉につかえ、後戻りしていく。朱鷺子はたつろーの言葉を待つ。意味のない羅列がたつろーの頭の中を駆け巡る。様々な色彩が交差し、ピラミッドを造り、簡単に崩れていく。大きな拳がたつろーの胸を打つ。首の後ろの筋を引っ張っている。舌はただそこにあるだけだった。


「またしゃべれないフリするの? ごめんねって、いえないの?」



 座り込んでしまいたかった。まっくろい壁を四方にめぐらし、そのままどこかへいってしまいたかった。朱鷺子にしゃべろうとする努力はもう死んでしまった。未熟な言葉をその手に持ったまま。言葉に鳴らない感情を背中に背負ったまま。


 地面は斜めにかしいで、壁を伝い歩く人間のように感じた。

 

 



 

 たつろーはソファに寝ている。慎吾は朱鷺子と差し向かいに座り、青ざめたたつろーの横顔を見つめる。


「こいつね、思ったことをうまく言葉に出来ないだけなんだよ。こう言っちゃなんだけど……朱鷺子ちゃんみたいな言い方はたつろーを追い詰めるだけだ、わかる?」


「たつろーは逃げてばかりいます……根気強く説明してくれれば……」


「たぶん……したんじゃないかな……こいつの頭の中ね、まるで出来上がる前の宇宙みたいなんだ……ぐるぐると回っては崩れていく……考えようとすれば巨大な異物になって、ますます混乱するんだ。整頓できてなくて、自分の頭の中にあるものがどういうものなのか、まだ良くわかってないんだよ」


 朱鷺子は不信な目で見つめる。


「キミは……ちゃんと整頓できてると思う。どこに何を片付けたらいいのかわかってると思う。物事が散らかっていたとしても、一つ一つなんなのかわかってるから迷ったりしないんじゃないの?」


「わたしは……責めたりしてない……ただ……たつろーのいうことがいつもわからなかっただけです」


「こいつなりに説明してるんだよ、いちいち自分に。命令してるんだよ。朱鷺子ちゃんが無意識でしてることを、こいつは一つ一つチェックしていかなくちゃいけない」


 タバコを取り出す。

「すっていいかな?」

「はい……」


 慎吾は口に煙を含み、下に向かって吐き出す。

「たしかに、たつろーは甘えてる。努力を怠ってる。朱鷺子ちゃんには努力してるようだけど、他人には甘えきってる。俺は医者じゃないからあまり自信はないんだけど……こいつには信用された沈黙っつーのが必要なんだと思う。辛抱強く言葉のキャッチボールが出来る相手とかね。ただしゃべらせてくれる人。期待しない人。試そうとしない人。俺はその点じゃ落第だけど。面倒くさがりなんだ、こいつ。朱鷺子ちゃんは……そんな人になれると思う?」


 朱鷺子の目はじっと慎吾を見つめている。視線は彼を突き抜け、無限な何かを見つめている。焦点が定まり、彼女は慎吾の後ろのソファに横たわるたつろーを見る。そして瞳は過去へと走っていく。雨の日のこと。土手を二人で歩いたこと。


「たつろーは……私が期待してると思ってるんですか? 私が悪かったんですか!? でもそうじゃないんでしょ? あなたはそうやってたつろーを甘やかしています」


 たつろーの頼りなげな横顔を見つめていたあの時。

「弱者だからって……たつろーはそういうふうに見られたがってるように思えます。私にはわかりません。それに、たつろーは私に努力なんかしてません! たつろーはなにもできないフリをしてるみたい……」


 ブゥゥーン……機械音は静まり、それが耳の奥の荒野を引き抜ける。冷え切った空気は、言葉までも凍らせた。たばこのくすぶる音が聞こえてくるよう。


「ちょっと……寒いね」

 慎吾は立ち上がり、カーテンを広げ、サッシをあける。重たく厚い布団のような外気が二人の上にのしかかってくる。生臭い、風の匂い。淀んだ冷気はクルクルと舞って、どこかへいってしまう。


「もしも言葉が猛獣だとしたら……たつろーは猛獣使いになるのを嫌がってるのかもな……誰かが自分の猛獣を操ってくれるように願ってるのかもしれないね……だけど、ふつうはみんな、自分の猛獣だけで手一杯なんだってことを、たつろーはまだわかってないんだよ……そんなふうに思うな……」


 風に乗って慎吾の声が朱鷺子の耳に届く。

「あなたの言うことは……たつろーのよりもよくわかるわ」


 湿り気のある風は雨を予感させた。

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