BLUE in BLUE

藍上央理

第1話

「オレ、当分帰らないから……」


 受話器の奥からくぐもった声。受話器を持つ朱鷺子の手が固く握り締められる。


「どうして……!」


 朱鷺子がよく口にする言葉。


「どうしてわたしのところのそんなこと電話してくるの? どうしてたつろーの親のところにしないの!?」


 くぐもった声が力なく「うん」とうなずき、朱鷺子はそれに苛立ち、電話を切った。ハッとしたが、もうたつろーの気弱な声ではなく、機械音が朱鷺子に応えていた。

 

 



 

「どうだった?」


 ソファに座り、新聞を大きく広げた慎吾が、ずっと受話器を握りしめたまま会話を続けようともしないたつろーに訊ねた。


「切られた……」


 たつろーは困ったように電話を見つめ、頭の中で指が何度もナンバーを繰り返し押していたが、受話器を切った。

 なにかいいたそうにため息を付き、慎吾の向かい側に座る。


「彼女、いつも怒ってるんだ……オレは何回も説明するのにわかっちゃくれない」

「お前の言い方だとフツーの人にはわかんないもんなんだよ。ま、俺にも理解できないし」


 慎吾は新聞をたたみ、たつろーを見る。


「たぶん、理解できない、とかそんなことじゃなく、はっきりしないからなんじゃないの?」

「そうかな……だけど……」


 「だけど」を何度も反芻するが、答えは浮かんでこずに、ただ「それだけじゃない」と胸のあたりがむかついてくる。


「だけど……オレどうすればいいのか、わからないから」


 慎吾は、たつろーをじっと見つめる。


「わからないから、もう少し、考えさせてくれれば、もっと何かいえるから」

「ふーん……」


 慎吾の目は、まるで「何もかも知ってるんだ」とでも言ってるように見える。そう感じると、たつろーはなにも言えなくなる。頭と胸のもやもやは立ち止まって慎吾の様子を見てる。慎吾の次の言葉を待っていたが、慎吾はまた新聞を広げてしまった。


「風邪治った?」


 しかし、会話はつづいている。


「治ったよ」

「金返せよ、まさかずーっと俺のところに居座るつもりなのかよ」


 たつろーは黙ってただ手をいじくり始める。


「あのね、キミね、アルバイトくらいすれば? できるんでしょ?」

「うん……」

「何でも誰かがしてくれると思ってるから、お前のガールフレンドいらつくんじゃないの?」


 そうなのだろうか……


「そうなのかな……」

「ホラ、すぐ納得する」


 慎吾はよくしっぺ返しをする。たつろーはそのたびに返事をしたくなくなる。だけど、返事をしなくてもなにも言わないのは慎吾が初めてだった。

 電話の着信音が響き、慎吾がたつろーを睨む。


「ルス電にしとけっていつもいってるだろ? しようがないなぁ……お前が出てくれよ」


 慎吾は新聞を頭からかぶるように、電話のベルを無視する。

 たつろーは腰を上げ、受話器を取り、その第一声を聞いて、すぐに慎吾に受話器を差し出した。


「祥子さん」

「ア?」


 慎吾はすぐに新聞を放り出す。


「オ? 祥子? 何? ああ……まぁね。あぁ……いいよ。来いよ。あ、それとさ、え? 察しが良いなぁ、さすが……うんうん……じゃあな」

「なんて?」

「晩飯作りに来てくれるってさ。それとお前のアルバイト世話してくれるってさ」

「バイトってすぐ?」

「祥子の手伝い。アシスタントね」


 慎吾の指が電話の設定をルス電にしている。慎吾は電話のベルが嫌いだ。週中、週末にかかる電話が一番嫌いだった。


「アシスタントって何するの?」

「忙しい時にメシ作ったり、電話出たり、ファックス送ったり、伝言したり……」

「それ、今オレがやってることじゃんか」

「ああ、本当だ」


 慎吾は今気がついたみたいな顔をした。慎吾の仕事はコピーライター、祥子はイラストレーターだ。慎吾のコピーに祥子がイラストを書いたことから出会ったらしい。


「居候はそういうことやって当たり前だ。よかったな、祥子がお前でもいいって思う天使のような女で」


 今度はインターホンが鳴った。慎吾はインターホンも嫌いだ。たつろーが出ると、祥子が立っていて、「おべんと」と包みを掲げる。

 祥子の笑顔は、まるで今からなにかしでかしそうな笑い方だ。「お姉さん」は、たつろーにはお姉さんの顔しか見せてくれない。


 祥子は靴を脱いで上がりこみ、迷わずキッチンへ行った。弁当の中身を盛り分けながら、そばを離れないたつろーを見る。


「たつろーくん、あたしのお手伝いする? お金安いけど、お小遣いにはなるし、あいつの文句も少なくなるわよ」


 祥子はニッと笑い、たつろーもニッと笑う。


「そうそう、たつろーくん笑わない子だし、その顔、今度描かせてね」


 祥子はたつろーを適度にかまってくれるから好き。


「気が向いたらね」

「あっはは」


 お弁当の中身はまるでピクニックのおかずだった。祥子は料理はあんまり得意ではないらしい。コロッケと唐揚げと、タコウィンナーとサンドイッチと玉子焼き。


「何にも言わないでね」

「いつものことだし、でもオレ、こういうの一番好きだし」

「好き嫌い激しいもんねぇ、でもあたしの子供にだったらなれるかなぁ」


 祥子は大口を開けて笑い、盆に皿を載せて運ぶ。


「またか」


 祥子が料理を作る度に慎吾はぼやく。


「感謝して食べなさい」


 週末になると、祥子は弁当を作って慎吾のところに届ける。近いところに住んでいる、というのもあったし、会う口実にもなった。慎吾は絶食で仕事を終えさせようとするところがあるから、祥子は木曜日から土曜日は必ずやってくる。当たり前のように生活の中に組み込まれた口癖や習慣。たつろーはそれらに包まれて不自然さを感じずにここにいることができる。

 

 



 

 浅いまどろみで、真綿にぷっかりと浮いているようで、だけど、心臓の部分だけ、下に下に引っ張られている。

 目が覚めるとまだ暗く、サッシの外の空は藍色で、ちょっとだけ星が見えている。冷房のタイマーはちょうど切れていて、蒸し暑い。ソファの合成皮革が肌にぴったりとくっついてきて、気持ち悪い。叫びたいが声が出ない。


「今、幸せですか?」


 背中をノックすると誰かが「幸せです」と答える。僕は目を閉じる。ああ、だけど、心臓だけはどんどん引力に負けて、地中深く引きずり込まれていく。

 子供のように「苦しい苦しい」と叫びたかったが、どこが苦しいのか、どうして苦しいのかわからない。どこかで誰かが血を流すまで床に頭を打ち付けている。剣山が僕の背中を何度もこすっている。

 

 

 



「たつろー、朝だぞぉ、朝メシ食うか」


 たつろーの耳にそれは朝の鳥の鳴き声に聞こえた。タオルケットにくるまり、丸くなって、もう一度眠りの国をノックしようとすると、背中を叩かれて驚いた。きょろきょろあたりを見回し、かなり時間をかけて慎吾を見分ける。


「目、覚めたか?」


 たつろーはぼんやりと慎吾を見つめる。何かしなくてはならない気がする。それがなにか忘れてしまった。

 たつろーはまだ夢の中にいる。


「寝るなよ、邪魔だから早く起きろ」


 それは違う言葉になってたつろーの耳に届く。トロリト溶けて口のないたつろーに答える方法はない。いつのまにか沈黙。

 

 



 

 目が覚めるたびにその天井を眺め、「僕の部屋にこんなのあったかな」と思う。木目の天井が、白い花柄になっていて、自分がいつの間にか朱鷺子になってしまったのじゃないかと、錯覚しそうになる。でも朱鷺子は花柄など好きではないと言っていた。だけど彼女はいつも小さなブーケのプリントしてあるロングスカートばかり着ていた。天の陽だってその服しか持ってないみたいに、着ていた。朱鷺子は怒りっぽくて僕のすることなすことに腹を立てていた。それなのに僕のそばにいた。朱鷺子はいつも僕に「こうすればいいのに、ああすればいいのに」とつぶやいた。たつろーには結局どうすればいいのかわからなかったし、朱鷺子の思う自分になれなくて、嫌だった。そう望む朱鷺子も嫌だった。


 誰も彼もが一方通行で、自分の差し向けた使者は、相手にたどり着く前にバタバタと死んでいく。ただ僕は自分の死体の上を踏み越えていきたかっただけ。行けたらいいなぁ、と思っただけ。

 みんなは死んでしまった自分に名前をつけた。僕はそれで納得せざるを得なかった。それ以外の名前なんて思いつかなかったから。それを初めて非難したのはお父さんだった。そして朱鷺子。「どうして」と聞き返しても、彼らは答えてくれなかった、だから「ごめんなさい」とあやまるしかなかった。


 どんどん僕の死体は多くなる。だけど、僕はこいつらに名前をつけてやることができない。なぜ死んでしまうのかも分からない。ただ僕にはこいつらの死んで良く姿が見えるだけだから。

 

 

 



 目がさめて、たつろーは起き上がる。ソファからずり落ちていて、フローリングの床が冷たくて気持ちよかった。物音はなく、サッシの向こう側の空は相変わらず曇っている。雨の降る日にここに来て、もう一ヶ月たった。たつろーはどんな季節も嫌いだ。


 フローリングの木目が目に入る。木目が床から飛び出してきて、目前に迫ってくる。蛾のように群れてきて、視界を覆ってくる。たつろーは慌てて絨毯に座り込む。絨毯のちくちくした肌触りが次第に針が刺してくるような刺激になる。毛穴の中に絨毯の毛が一本一本入り込んでくるような気がしてくる。たつろーはどんどん追い込まれていき、合成皮革のソファに飛び乗った。


 今度は肌に糊付されるようにソファの表面がひっついてくる。ソファの黒い色がしみ出してきて、自分の肌にベッタリとしみこんでいきそうだ。気持ち悪い。どうしたらいいのだろう。


 たつろーは嫌悪感に絶叫した。


 となりの部屋の戸が開き、疲れた顔の慎吾がたつろーの泣く姿を見た。たつろーが拳を握ってソファを打つ姿を。慎吾はキッチンに行き、錠剤を持ってくる。たつろーの口に放り込み、オレンジジュースを飲ませる。たつろーの目に手を当てて、なにも見せまいと。慎吾はたつろーの隣に腰をおろし、胸ポケットのたばこを取り出し、ふかす。半分吸い終わる頃には、たつろーは泣き止んでいた。


「ごめん……」

「いやいや」


 向精神薬はたつろーのヒステリーを抑える。時にはたつろーを底なし沼から救い出し、普通にたっていられるようにしてくれる。

寝させてくれる、食べさせてくれ、しゃべらせてくれる。


「メシ、キッチンにあるから」


 慎吾はたばこを食わえたまま、隣の部屋にいってしまった。


「オレ、このままじゃいけないよなぁ」


 たつろーは大声で訪ねる。


「さぁなぁ」

「どうしてこんなんなっちゃうんだろう」

「さぁなぁ」


 ああ、こんなんなってしまうから僕はあの家を出たし、こんなんなってしまうのを誰も救ってくれなかったから僕は朱鷺子から逃げてきた。だけどそれはここでも同じこと。何も変わらない。なぜなんだろう……

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