第55話 嵐の幕開け
「ぷっ! ち、チーフ。何ですか? その格好はハロウィンにはまだ早いですよ」
「ええ! チーフ大丈夫ですか? オーナー! チーフが大怪我をして」
由梨香は腹を抱えて大笑いをして。
美穂里は慌てふためいてオーナーを呼び出す始末だった。
俺が『ニライ・カナイ』に出勤しただけで。
まぁ、この有様なら仕方が無いが……
それは昨晩の事だった。
『瑚南』での仕事を終えていつもの様に自転車で帰路に着く。
そしていつもの様にかなりの速度でUプラザヨシノの横を通り過ぎて市役所通りに出る、するとココストアーセンター通り店の対面にマイクロバスが停まっていた。
仕事中に尚斗が石垣島で映画かドラマのロケを行っていると言っていた、そのロケバスかな?
などと思いマイクロバスの横をすり抜けようとした。
するとマイクロバスの前方の死角から髪の長い女が突然飛び出してきた。
咄嗟に右にハンドルを切りながらブレーキをかけるが間に合わない。
髪の長い女と交差する瞬間、自分でも信じられないが自転車を放り出してアスファルト目掛けてダイブしていた。
バランスを崩しながら、驚いて固まっている彼女の目の前で頭を庇うように左腕から転がり落ちる。
かなりの速度だったので勢い良くアスファルトの上を転がり、背中に激しい痛みを感じて何とか止まった。
縁石か何かにぶつかったのだろう。
「痛っ!」
堪らずに顔を上げると対向車線に倒れている自転車の車輪の上をボロボロのワゴン車がかなりの速度で走りぬけた。
自転車は上下に激しく揺れて見るも無残な姿になっていた。
溜息を付き体を起こそうとすると体中から痛みが走った。
すると不意に頭の上から野太い男の声がする。
「大丈夫かね? 君」
顔をしかめながら視線を向けるとそこには薄いブルーの夏服を着た、いかにも沖縄の人といった感じのがっしりとした体格の警察官が立っていた。
辺りを見渡すと人だかりが出来ている、そして赤色回転灯を点けたパトカーが直ぐ近くに止まっていた。
恐らく飲酒運転を捕まえる為に美崎町界隈を巡回していたのだろう。
「大丈夫ですよ、怪我もたいした事ないし」
「いや、しかしだね。一応病院に行ってから事情説明を……」
若い警察官が怪訝そうな顔で俺を見下ろしていた、不思議に思い自分の体を見渡す。
左腕はアスファルトで擦り剥いて血まみれ、右ひじも血が滲んでいる。
そして額に手を当てるとヌルっとしたものが手に付いた。
掌には真っ赤な血が付いている、舌打ちをするが後の祭りだ。
頭を保護したつもりだが怪我をしてしまっていたようだ。
警察官が怪訝そうな顔をするのも無理は無い、血まみれの男が目の前で蠢いているのだから。
仕方が無く警察官の指示に従うしかなさそうだ、ふと飛び出してきた女の方を見ると生真面目そうな眼鏡をかけた男と何かを話し込んでいた。
救急車は丁重に辞退してパトカーに乗せられて病院に向かい救急で処置をしてもらい、八重山警察署で事情説明をする。
警察署には女と話し込んでいた生真面目そうな眼鏡をかけた男が事情説明をしに来ていた。
単なる自転車の自爆事故でこんな事になり自分自身に呆れ返っていると美緒の声がした。
「パパ! パパ……」
「ただいまかな?」
美緒の顔が見る見るクシャクシャになり泣きながら飛びついてきた。
無理も無いか目の前には包帯でミイラの様になっている俺がいるのだから。
トラブルにあって帰るのが遅くなりそうなので美緒の事を野崎に連絡して頼んだのが間違いだった。
まぁ、どの道この怪我では隠しようがないのだが、野崎を見ると申し訳なさそうに顔の前で両手を当てている。
「美緒、怪我はたいした事が無いんだ。心配するほどの事じゃない自転車で転んだだけだからな」
「でも……」
何とか美緒を宥め賺せて簡単な事情説明と連絡先だけを告げて、あまり長居はしたくない警察署を後にする。
翌朝、派手に巻かれた包帯を解こうとすると美緒がカンカンに怒り出して朝から説教を喰らった。
仕方なく派手な包帯姿で出勤する羽目になり由梨香には笑われて美穂里には驚かれてしまったのだ。
仕事着に着替えてランチの準備に入る。
両腕の怪我はシャツを着てしまえば見えなくなるが、頭の派手に巻かれた包帯だけはどうしょうも無かった。
仕方なく包帯を巻いたままホールに出ると野崎が腕を組んで細く笑んでいた。
「何が可笑しいんだ?」
「ふふふ、自転車で転んで大怪我か。らしいわね」
「悪かったな、あそこで相手に怪我でもさせてみろ自転車とはいえ賠償責任もんなんだぞ」
「で、その相手はどこの誰だったの?」
「知らないな、実際は自爆だからな」
ランチを難なくこなして、休憩&賄いの時間になり。
いつもの様に店内の清掃を始める。
そしていつもの様に由梨香と美穂里は仲良くお喋りをしながら作業をしていた。
「あんなに怪我をしているのに、チーフって普通に仕事が出来るんだ」
「でも、痛くないのかな」
「痛くないことはないが、我慢できないほどの痛みじゃないな。それに今までだって色々な仕事をしてきたからな、怪我をしなかったことなんて無いよ。だからそれなりに考えれば普通に仕事は出来るもんさ」
「そんな事を言うのは多分チーフだけです。ねぇ、ミポ」
「うん、私もそう思う。普通なら休むよね」
そんなお喋りをしていると入り口の自動ドアが開く音が聞こえた。
「もう、ユーカはまた切り忘れたでしょ」
美穂里が珍しく由梨香に意見して入り口に向う。
しばらくすると見覚えのある女性を従えてロボットの様にぎこちなく俺と由梨香に向ってきた。
「あのな、美穂里。今はクローズだぞ」
俺が美穂里に声をかけても美穂里は口をパクパクさせるだけだった。
「もう、美穂里はしょうがないな。あのう、すみません。ランチタイムは……ってどこかで見た事が」
すると美穂里が由梨香の腕を掴み由梨香の耳元で何かを囁いた。
「や、やっぱり、本物なんだ」
「何が本物なんだ。早くお引取り願え」
「ち、チーフ⁉」
「岡谷隆文さんですよね。昨夜は大変失礼しました」
由梨香が俺を呼ぶのを遮るように見覚えのある女性が頭を深々と下げた。
「ああ、昨日の夜の。怪我は無かったですか? こちらこ申し訳ありませんでした。スピードを出しすぎまして」
「いえ、私は怪我はしませんでしたから。でも」
「僕ですか。ただのかすり傷ですよ、見習いみたいな看護士が大袈裟に包帯を巻いただけですから。それにただの自爆事故ですよ」
由梨香と美穂里に目をやると信じられないという顔で俺の顔を見上げている。
不思議に思い怪訝そうな顔をすると2人同時に目を瞑り横に首を振った。
何が信じられないんだ?
確かに綺麗な女の人だと思うぞ、眼鏡を掛けてはいるが澄んだ大きな瞳で鼻筋が通っていて少しだけゆるいウエーブがかかった長い髪で。
美人で言えばトップクラスに入るかもしれないな。
そんな事を考えていると野崎が事務所から現れた。
「お客様なの? あら、あなたってもしかして柴崎ルイさんじゃないの?」
「誰だそれ、野崎の知り合いだったのか?」
どこかで聞いた事がある名前だったが、直ぐには判らなかった。
「えっ、えええええ! チーフ、本当に判らないんですか?」
「信じられないけど、チーフはテレビ見ないから……」
「はぁ? 岡谷。お前この人が誰か判らないのか?」
「昨日の夜、俺がチャリでぶつかりそうになった女の人だろ」
「「「…………」」」
由梨香、美穂里、そして野崎までも酸素不足の金魚になってしまった。
訳の判らないまま俺は野崎に首根っこを掴まれ、彼女は由梨香と美穂里に丁重に案内されて店の一番景色の良い席に座らせた。
「本当に岡谷は判らないのか? たしかドラマのロケで石垣に来ているんですよね」
「はい。新作ドラマのロケ撮りです」
「冷たいハイビスカスティーです。どうぞ」
美穂里と由梨香が手分けして水とハイビスカスティーを運んでテーブルに置いた。
そして野崎のロケと言うキーワードで頭の中に彼女の情報が綺麗に羅列された。
「ロケ? ああ、女優さんかどおりで綺麗だと思った。たしか離島の看護婦さんや飛行機の整備士さん役をやっていた、たしか映画の主題歌なんかもたしかKOUって名前で出している」
「で、そこまで知っていて顔が判らないと。お前は本当に馬鹿だな」
「馬鹿言うな、テレビからの情報じゃなくネットからの情報だから顔と名前が一致しないだけだ」
「チーフ、こんな時にこんな事を聞くのは変なんだけど今もテレビ無いんですか?」
「無いぞ」
「それじゃ、美緒ちゃんもテレビを見ないと」
「そう言えばあいつテレビって言わないな」
すると彼女までもが溜息を付いて。
全員の視線が俺に集まった。
「なんだ、テレビを見ないと悪者なのか? ネットの方が情報は多いだろうが。それに駄々漏れの情報をただ見聞きするテレビより自分に必要な情報だけを手にする方が賢いと思うが」
「す、凄い、合理的な考え方ですね」
柴崎さんが妙に感心しきりだった。
由梨香、美穂里、野崎の3人は彼女と正反対の反応をして呆れかえっていた。
「可哀想に今時の中学生にテレビも見せないなんて」
「野崎、マジで殴って良いか? まるで俺が美緒を虐待しているみたいな言い方だな。今度ふざけた事を抜かしてみろ女だからって情け容赦なく殴り飛ばすからな」
「わ、悪かったわよ。もう2度と変な事は言わないから。ごめんなさい」
俺が急に立ち上がると由梨香と美穂里に緊張が走り顔を強張らせた。
野崎が俺の逆鱗に触れそうになったのが判ったのだろう。
彼女だけが訳も判らずキョトンとしていた。
「で、その女優の柴崎さんが僕に何の用ですか? 謝りに来たのならそれはお門違いかな。むしろ謝らなければならないのは僕の方ですから」
「怪我をされていたので心配で」
「そうですか、怪我はたいした事は無いですよ。この通り仕事も普通にしていますから。外でマネージャーさんが待っているのでしょ。これでお引取り願いますか?」
「申し訳御座いませんでした。お仕事中にお邪魔して、失礼しました」
そう言うと出されたハイビスカスティーも飲まずに彼女は『ニライ・カナイ』を後にした。
「テル! そこでコソコソしているな! 腹が減った賄だ!」
「は、はい! 今すぐに」
「由梨香、美穂里。入り口に100キロくらい塩を撒いておけ」
「えっ、はい!!」
「嵐の幕開けだなこりゃ」
そう言い残して野崎は音も立てずに事務所に消えていった。
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