4-3

 櫻木高校の校舎に響き渡った悲鳴を耳にし、グラウンドで昼の休憩に入っていた野球部の面々が校舎の中へと駆け込む。

 先頭を走っていた顧問の体育教師である岩田は、職員室の手前で身体を手で払っている戸羽英二の姿を目にして駆け寄った。

「戸羽、また来てたのか…さっきの悲鳴はお前か?何があった?」

「ああ、すいません。ちょっと、あの…」

 岩谷問い詰められ、英二が口ごもる。

「どうした?言いづらいことか?」

「えっと、あの…黒い、がですね…目の前に飛んできたもので、ハハハ」

 英二の答えに、岩田以下野球部の面々の目が点と化す。

「バカヤローッ!そんぐらいであんな悲鳴を出すんじゃあない!それでも男か!」

「す………すみません」

 野球部員をも怯ませる岩田の凄まじい怒号に、英二は身を縮めて謝罪する。

「まったく人騒がせな…そういえば、姫路先生はどうした。職員室にいるはずだが」

「あ、姫路先生にはもう謝っておきました。すみません…」

「それならいいが、もう邪魔するなよ。ほら、お前たち、戻るぞ!」

 岩田は英二に背を向けて歩き出し、部員たちを伴ってグラウンドへと戻っていく。

 思ったよりも短く済んだ説教に、英二は胸を撫で下ろした。

「おい」

「…なんですか?」

 去ったと思った岩田に遠くから声をかけられ、英二はおそるおそる振り向きながら声を返した。

「用事が終わったら、早く帰るんだぞ」

「…はい、わかりました」

 英二の返事を聞き、岩田は今度こそ校舎を出ていった。

 英二は岩田の姿が視界から消えると、他にもう誰もいないことを確認し、改めてほっと一息ついた。

「危ない、危ない。他人ひとをからかいすぎるのは、俺の悪い癖だな…っと」

 そうぽつりと呟くと、英二はスマートフォンを取り出して電話をかけ始めた。

「………あ、冬彦か?昼になったし、一回集まろうぜ。情報の整理もしたいだろ?」

 通話を続ける英二の背後、僅かに開いた扉の向こう、職員室の床に白いモノが横たわっていた。


* * *


「おう、じゃあまた後でな」

 三ツ木公園の入り口で電話をしていた冬彦は、通話終了のアイコンをタップしてスマートフォンをポケットに仕舞った。

 通話が終わったのを見て、少し離れていた純が入口へと戻る。

「戸羽くん?」

「おう。英二が一回集まろうってさ。ついでに飯にしよーぜ」

「うん。集めた情報も確認したいからね」

「そーゆーこと。よし、じゃ行くか」

 冬彦は自転車のスタンドを蹴り上げると、手で押しながら公園の外へ向かって歩き出す。純もその後に続いた。

「集合場所は?」

「図書館。近くにコンビニあるし、そこで飯買ってこうぜ」

「わかった。先に行っててもいいよ」

「いいって、いいって。あっちも歩き出し、ゆっくり行こうぜ」

 手をひらひらと振り、冬彦はそのまま歩いていく。

 純は気づかれぬように少し距離を取り、コンパクトを取り出した。

「ルルイ、警戒だけ頼むね」

「ええ。上手く、彼女を見つけられればいいのですが…」

「そうだね。早く…見つけないと」

 未だ見ぬ敵の姿を思い浮かべながら、純はコンパクトを仕舞って、先々歩く冬彦の背中を追った。

 

* * *


 町立櫻木図書館。文化センターや体育館、グラウンドなどに併設されたそれは、少し寂れてはいるが町民がよく訪れるスポットの一つである。

 各施設の中央に位置する広間で英二と合流した純と冬彦は、ベンチで昼食を取りながら互いの情報を交換し合った。

「その…白抜きの何か…ってのが、全然わからないんだが」

「俺達にだってわかんねえよ。本当にとしか言えねえからな」

「やっぱり全然わからん…純の方の黒い奴ってのは、こっちでも少し聞いたな。そっち調べるのが手っ取り早いんじゃないか?」

「え!?あ、でもどうかなあ。ほら、知ってる人が多いと、スクープにならないんじゃない?」

「あー、それもそうだなー。他の連中も書いてきそうだしなー」

 純は思わず早口になってしまったことに焦ったが、冬彦が特に気にせず納得したことで胸を撫で下ろした。

「………ん、よし!」

 四分の一ほど残っていたおにぎりを水で流し込むと、冬彦はベンチから勢いよく立ち上がった。英二と純の視線がそちらへと向けられる。

「ちょっと、トイレ行ってくる」

 バランスを崩した二人を気にすることなく、冬彦は図書館へと歩き出した。

「お前なあ、まだ俺らが食ってるのにやめろよ!」

「ハハハ、悪い悪い!カメラ見といてくれよな!頼んだぜ!」

 立ち上がり怒る英二に言葉だけで反省すると、冬彦は逃げるように図書館の中へと入っていった。

 英二は再びベンチに腰掛けると、残り一つのサンドイッチを口に放り込み、苦虫を噛み潰すように咀嚼した。

「ったく、あいつにゃ参るよな」

「まあ、あれが山口くんらしさだとは思うけど」

「ハッ、それもそうだ」

 英二は諦め顔でパックの牛乳を飲む。

 純は苦笑いで最後の菓子パンを飲み込むと、おもむろに立ち上がった。

「戸羽くん、僕もその…ちょっと電話してくるから」

「ん、わかった。こいつは見とく」

 冬彦のカメラバッグをを軽く叩きながら英二が答える。

「ごめん。できるだけ早く戻るから」

 そう伝えると、純は怪しまれない程度に距離を取った。英二がベンチに座っていること、周囲に人がいないことを確認して、スマートフォンを取り出す。画面にはずっと待機していたのか、ルルイの姿があった。

「見つかった?」

「いえ、まだ…すみません。確認するには私が直接見なければならないので、この町全体となると」

「いや、いいんだよ。直接行かずに探せるだけでも凄いんだから」

 ルルイは鏡のアニマである。その能力は鏡面世界の創造、そしてそれを応用した異世界への干渉。光を反射し、鏡として機能するものならば、それを介して映している世界を覗き見ることができる。しかし、それを観測するルルイは一人しかいない。言わば数多の監視カメラを一人で見張るようなもので、追跡ならばともかく索敵にはまるで向いてはいない。

 純もあらかじめ受けた説明でそれを理解しており、そもそも全て任せきりになっているため、責めることはしなかった。

「そういえばだけど、ネネコの目的ってやっぱり…」

「十中八九、私達でしょう。恐らく前回と違って、私達を捜し出すために送り込まれたのだと思います」

「捜し出す…そうか、僕については向こうはあまり知らないんだ」

「ええ。ですから、純さんのことを突き止めてから、奇襲を仕掛けてくるものと思われます」

 先の二回と異なり、今度は自分が追われる立場にある。そのことを理解した純は、改めて気を引き締めた。ポケットの上からコンパクトに軽く触れ、その存在を確かめる。

「ルルイのことも、ちゃんと守らないと」

「ですが、私を持ったままでは邪魔になってしまうのでは。この間は、なんとかなりましたが」

「ああ、。またできればいいんだけど」

「何ができればって?」

「えっ」

 突然背後から掛けられた声に、驚き振り返る純。その胸に、手が押し当てられた。

「ま、なんでもいいけど」

 声を掛けた張本人──英二は不敵な笑みを浮かべながら、純の胸に押し当てた手の指に軽く力を籠める。

 瞬間、純は心の内を弄られるような感覚に襲われた。しかしそれは長続きせず、数秒後には何事もなかったかのように収まった。

「………え?」

 自分に何が起こったのか、英二がいきなり何をしてきたのかがわからず、疑問の表情を浮かべる純。

 一方で英二は驚愕に目を見開き、純と自分の右手を交互に見ながらジリジリと後ずさった。

「………なんで」

 英二は唇を噛み、純に背を向けて走り出す。

 純はまるで状況が飲み込めず、その場に立ち尽くした。

「あの、戸羽くん、今のは」

「…ッ!純さん!!」

 周囲に聞こえることも気にせず、スマートフォンの向こうでルルイが叫ぶ。

 純はルルイの言わんとする可能性に思い至ると、遠ざかっていく英二の後ろ姿を追って駆け出した。


* * *


「くそっ…なんなんだあいつ…」

 ぶつぶつと呟きながら、英二は人気の少ない方へと走る。

「中途半端は癪だけど、こうなったら戻るしかないか」

 市民ホールと体育館の間に入り込んだ英二は、そのまま敷地外を目指して足を動かした。

「待って!」

 背後からの叫びに振り返る英二。

 振り返った先、路地の入り口には、息を切らせた純が立っていた。

「戸羽くん!」

 呼びかけに答えることなく、英二は前へ向き直り走り続ける。

 遠ざかる英二の背中を見て、純の中で疑念が確信へと変わった。意を決してその身を黒く変化させると、狙いを定めて左腕からワイヤーを射出させる。ワイヤーは真っ直ぐ英二に向かって伸び、その右腕に幾重にも巻き付いた。

「ちぃっ」

 英二は舌打ちすると足を止め、純の方をゆっくりと振り向いた。

「これ、痛いんだけど…外してくんない?」

「君…お前、戸羽くんじゃないな」

「おいおい、こんなことしといてそれ聞くか?普通」

 英二──英二の姿をしたそれは、わざとらしくケラケラと笑った。

「ああ、そうさ。俺はアニマのネネコ。お前からちょいといただくものがあったんだが…恥ずかしながらしくじってね。今から帰るところさ」

「この状況で、俺が帰すと思うか」

「そこをなんとか、な?友達だろ、純」

 ギリ、と純は歯を食いしばる。友人の姿を奪い、あたかも本人のように振る舞う盗人の顔を殴り飛ばしたい衝動に駆られたが、純はすんでのところで踏みとどまった。

「…こちらへ来てから、奪ったものを返せば、考えてもいい」

「おっと、まさかそのためにこの程度で済ませたのか?背中から狙い撃ちにできたのに?クク、ククク……」

 身を縮めて笑いを堪える英二。その姿に、ワイヤーを握る純の手に力がこもる。

「返すのか?返さないのか?」

 返事を急かす純の言葉に、英二───ネネコの笑いが、ピタと止まる。

「冗談じゃない。返す理由がないからな」

 ぷつん──と、純の中で珍しく何かが切れた。

他人ひとのものを盗ったら、泥棒じゃないか!」

「その通り、泥棒なんだよ!」

 純の激昂に当然だと叫び返し、ネネコは純に向かって駆け出した。

 純はとっさにコンパクトを右腰の突起で固定し、ネネコを迎え撃つべく両腕を構える。しかし、腕に込められた力は見る間に抜けていった。

「そぉら!」

 純の目前に迫ったネネコは、腕の隙間を縫って純の腹に強烈な拳を叩き込んだ。

「ぐ、う……」

 姿と裏腹に人間離れした力をもろに叩きつけられ、体をくの字に折りながらよろめく純。

 すぐさま態勢を立て直して反撃しようとするも、英二そのものの姿を目にするとどうしても力が入らなかった。

「おや?おやおや?もしかして、と思ったけど…友達は傷付けられない?」

 ネネコの言葉に押し黙る純。

 沈黙を肯定と受け取ったネネコは、ニンマリとした笑みを浮かべた。

 図星をつかれ、純の拳に力が入る。

「まあ、そう怒るなよ。友達が無理だってんなら…」

 ネネコの姿が、英二からさらに別の人物へと変わる。

「教師…ならどう?溜まってる鬱憤も、一つや二つあるでしょう、水沢くん?」

 担任教師である姫路里美が目の前に現れ、純の全身から一瞬力が抜ける。

「お前、先生まで…ッ!」

「フフ…ねえ、今度は逆に私が聞いてあげる。そのミタマとルルイ、私に渡してくれないかしら?」 

「………渡さなかったら?」

「あなたの命を奪って、ルルイとミタマを頂いていくわ」

 自分の命がかかった二択を迫られ、純は俯いて考えを巡らせる。

(ここで帰したら、こいつらはこの世界でもっと暴れ回る。もっと多くの人たちが犠牲になる。それに第一、二人が助からない。僕のために、襲われた二人が!)

 少しでも考えてしまったことを、純は強く恥じた。ほどけかけた拳を強く握りしめ、顔を上げる。

 両者の視線が、真っ向からぶつかり合った。

「みんなのためにも、お前はこのまま帰せない!」

「みんなのため、ね…フフ、自分のことなんてお構いなし。これぞ正義の味方!って感じね」

 両手を広げて、ネネコが大袈裟なリアクションを見せる。

「……ただ、他人に迷惑をかけたくないだけだ。そんなに偉く、ない」

「そう………優しいのね、水沢くん!」

 ネネコが再び純に迫る。

 純はなんとか反撃しようと両腕を伸ばす。しかし、やはり姫路の姿を相手することに拒否反応が出て、かろうじて防御を行うのが精一杯であった。

「純さん、反撃を!あれはネネコが化けた、偽者なんですよ!」

 コンパクトからルルイの檄が飛ぶ。しかし純は一向に反撃には転じず、防戦に徹した。

(人の心にワザミタマ…ガス欠知らずのバケモノになってるんじゃないかと警戒していたけど、とんだお人好しで助かったわ)

 やり返せない純に対して、ネネコは内心ほくそ笑みながら、いたぶるように攻撃を重ねる。

 アニマの力の源は、アニマ以外の心から生まれる感情のエネルギーである。それ故に、人の心を持ったアニマといえる純のことをネネコは大いに警戒していた。しかし、その心配が杞憂に終わろうとしている状況に、ネネコの心は安堵を経て徐々に昂りを見せていた。

(………いけない、いけない。油断大敵。これ以上、アニマとしての感覚を掴まれる前に、けりをつけましょう)

 ネネコは気持ちを切り替えると、腕に巻きつけられたワイヤーを掴み、ぐいと力いっぱい引き寄せた。

「なっ、うわっ!?」

 絶対に逃さず、かつ十分に距離を取れる長さに保たれていたワイヤーをいきなり引っ張られ、純はバランスを崩して地面に倒れ込んだ。

「くっ…」

「そこまでよ、水沢くん」

 急いで立ち上がろうとした純を、ネネコが馬乗りの形で押さえつける。

「なっ」

 初めての体験に、時と場所を忘れて純の思考が一瞬停止する。しかしネネコの両手に自分の腕に繋がるワイヤーが握られているのを目にし、現実へと一気に引き戻された。

「これで、お・し・ま・い」

 ネネコはワイヤーを純の首へと回し、思い切り引っ張った。絞め、潰し、千切るために。

「…あら?」

 ネネコが首を傾げる。引いたワイヤーが、純の首を絞めるに至っていないためだ。

 ワイヤーの輪には、純の首だけでなく左手も入り込んでいた。首を絞められると直感した純が、とっさに挿しこんだのだ。

「へえ、よく対応できたわね。えらいわ」

 しかしネネコは純の対応に少しも慌てる様子を見せない。少しずつ確実にワイヤーの輪を狭め、純の首を締め上げていく。

「か……あ……」

 即座の窒息は免れたものの、純の首にワイヤーが回されていることに変わりはない。空いている右手でもワイヤーを掴んだが、ネネコの力は想像以上に強く、ワイヤーを外すには至らない。

 このままでは首と腕が切断されてしまうのではないか──以前テレビで見てしまった大事故ドキュメンタリーを思い出し、純の心臓がさらに速く脈打ち始めた。

「…そうだ。ねえ、最後に一つだけ教えてくれないかしら」

 首を絞める手を緩めないまま、ネネコが純の耳元で甘く囁く。

「な………に、を……?」

「アニマとしての私の力は、他の誰かから所有物を奪うこと。相手のものであるなら、それがなんであれ…ただし、心以外だけどね」

 この期に及んでネネコが何を言いたいのかわからず、純はただ黙って相手の言葉に耳を傾けた。

「自分で言うのもなんだけど、私の力は強いの。条件次第では、アニマからも奪えるのよ。あなたのことも、ガンガの記憶をもらって顔だけは知ってたのよ。でも、なぜかあなたからはできなかった」

 ネネコは耳元から顔を離し、純の顔を真正面から見つめる。

「ねえ、なぜ?なぜあなたから、私はミタマを奪えなかったの?」

「それは、きっと………僕のじゃあ、ないからだ」

「………なんですって?」

 純が返した答えに、ルルイの顔から笑みが消える。

「この力…このミタマは、だけだ。使う理由が同じでも、もういないのだとしても、他の人のものを、勝手に自分のものにできるわけがないじゃないか」

(純さん…そんな風に考えていてくれたなんて)

 危機的状況にあるのも一瞬忘れ、ルルイは心の内で純の心持に深く感謝した。この世界に危険を持ち込み、超常の戦いの場に巻き込んだアニマの仲間である自分たちに、そんな想いを抱いていてくれたのかと。

 そんなルルイとは対照的に、ネネコの感情は急速に冷めていっていた。表情が完全に固まった姫路の顔は、その裏にある本来の顔が透けて見えているかのようである。

「たまにいるわ、あなたみたいな子。高価な金品、強力な力…そういったものに対する欲が、どうにも浅い。まるで理解できない人達…なんだ、そういうこと」

 ワイヤーを握る手ネネコの手に、さらなる力が籠められる。純の黒い身体が、ミシミシと音を鳴らし始めた。

「ありがとう、不愉快だけどすっきりしたわ。それじゃあ、さよならよ、水沢くん」

「ぐ……ああ………ッ」

 ワイヤーと左手で喉を圧迫され、純の呼吸はいよいよ苦しい状況に陥る。反撃の手段を必死に考えるが、ネネコに攻撃を加えない方法は一つも思いつかない。このうえは、と右手をネネコへ向けようとするも、あと少しの所で思いとどまって腕を上げることすらできなかった。

(このままじゃ…けど、二人の姿じゃ戦えない。戦いたくない!)

 純は目の前にある無表情な姫路の顔を見つめる。何度見ても、その顔は姫路里美以外の何者の顔ではなかった。

(こいつが二人の姿じゃなかったら…誰にも化けてなかったら、戦えるのに…)

 徐々に遠のき始める意識の中で、純はふと、まだ見ぬ敵の真の姿を想った。

 その瞬間、純の目の周囲に突如として異物感が生じる。

(な…!?)

 右手をワイヤーの輪から放し、自分の目元を触れる純。そこに、一段窪んだ目元を埋めるように何かが存在していた。

(なん…だ、これ…)

「あなた…それ、なに?」

 困惑しているのは、純だけではなかった。敵の突然の変化に、ネネコも首を絞めながら疑問を思わず口に出す。

「これ、は……あ?」

 反射的に答えようとした純は、自分の目を疑った。目の前にある姫路の顔に、腕に、身体に、徐々に別のなにかが重なり始めたのだ。僅か数秒で姫路の姿は消え失せ、そこには鈍く光る金属質の身体に煌びやかなパーツが散りばめられた、この世ならざるアニマの姿があった。

「お前………が!」

 突如目の前に現れたそれが相対している敵の真の姿だと察すると、純は右手で相手の左手首を掴み、力の限り握りしめた。

「なにを…あ、アアアアアッ!」

 予想外の反撃、次いで左手に生じた激しい痛みに、ネネコが悲鳴を上げる。その悲痛な叫びすら、今の純には聞きなれぬ声で届き、右手を緩めさせることはなかった。

「や…やめなさい、水沢くん…先生にこんなことして、いいの?」

「誰が……先生だッ!」

 怒りに任せて純が叫ぶ。右手に込められる力は徐々に高まり、遂にネネコの指を開かせた。生じた一瞬の隙に、純は左手を思い切り伸ばしてワイヤーの輪を広げ、脱出に成功した。

「しまっ──」

「でやあッ!」

 間髪入れず、純が右拳をネネコの腹に叩き込む。その衝撃はネネコの左手を緩めるにとどまらず、その身体を宙へと浮かび上がらせた。殴り飛ばされたネネコは文化センターの壁にしたたかに打ち付けられ、地面に転がった。

 純は激しく咳き込みながら立ち上がり、再び利用されることを避けるためワイヤーを引き戻す。そこで再び目元の変化に意識が向き、ネネコがまだ立ち上がらないことを確認してから、腰のコンパクトを手に取って自分の顔を見た。鏡の中の純は、窪んでいたはずの目元が黒いバイザーのようなもので覆われており、蒼い瞳はその下にうっすらと透けて見えている。

「これの、おかげ…?」

 いきなりネネコの本来の姿が見えた理由。純にはそれが自分の目を覆ったものに他ならないと確信だけして、考えるのをやめた。視界の隅で、ネネコがゆっくりと立ち上がるのが見えたためだ。

 壁に手をつきながら立ち上がったネネコは、自由になったにも関わらず逃げるそぶりを見せず、純を強く睨みつけた。

「純さん…」

「大丈夫。もう、大丈夫だから」

 ルルイの心配を和らげるように、純はゆっくりと繰り返し言う。コンパクトを折り畳むと再び腰に固定し、体勢を立て直したネネコに向かって構えた。

「どういうトリックか知らないけど…もう小細工は通じないみたいね」

「ああ。これで思う存分…戦える」

「そう。それじゃあ、私も」

 ネネコは姫路の姿から元の姿へと戻り──純にその様子は認識できなかったが──宝石のように煌びやかな爪のある指をピンと伸ばした構えを取った。

「思う存分、やらせてもらうから!」

 叫ぶと同時に、ネネコが純へと駆け出す。やや前のめりの姿勢であっという間に純の懐へ飛び込むと、右手の鋭い爪を勢いよく突き出した。

「……ッ!」

 眼を狙った高速の突きを、純は紙一重のところで躱す。顔の側面をかすったそれは、直撃していれば目が潰されるどころか、顔を貫通していたのではないかというほどのものであった。

 純は一瞬遅れてやってきた恐怖を振り払うと、追撃が来る前に反撃に転じた。ネネコの右腕を掴み、一本背負いの要領で投げ飛ばす。

 ネネコは勢いよく地面に叩きつけられるも、その体勢から強引に蹴りを繰り出し、純の身体を倒した。

 両者はほぼ同時に立ち上がると、互いに構えを取って睨みあった。そのまま相手の隙を窺いながら、横歩きで移動を始める。

「まさか、盗むだけが能とでも思っていたのかしら」

「………」

 ネネコに挑発され、純は押し黙る。伸縮する四肢を操るガンガとも、走ることのみに特化したブルブとも違う、人間と同じような身体を持つ初めての相手。それだけに、その手強さがシンプルに実感できた。

「休んでる暇なんてないわよ!」

 再び先手を取って、ネネコが駆ける。今度はジグザグに走りながら接近し、左右どちらから攻撃するかを悟らせない。

「く……」

「そぉれ!」

 腕が届くギリギリのところまで近づき、ネネコは再び右腕を突き出す。しかし一度避けたことで勘を掴んだ純に、左の裏拳で弾かれる。

「チッ」

「はあッ!」

 ネネコがガードする前に、純の右拳がネネコの胸に届く。しかし先程のように殴り飛ばすには至らず、強固な肌に受け止められてしまう。

「……つッ」

 痛みに拳を引くと、純は連続バク転でネネコと距離を取る。

 その様子を見て、ネネコが勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「どう?盗んだ宝物を保管するんだもの、頑丈なのは当り前よ」

 ネネコが自らの身体に艶めかしく指を這わせる。陽の光を浴びて鈍くその身体は、柔軟かつ強固という相反する性質を併せ持っていた。

 攻撃だけでなく防御まで自らを上回る敵を前に、純は改めて攻略の糸口を探り始めた。

(どうする…何か、弱点でもないのか…)

「考える暇、あるのかしら!?」

 休む暇など与えぬと、ネネコが連続で攻撃を繰り出す。純は致命傷に至らないギリギリのところでそれに対応しながら、ネネコの全身に視線を巡らせた。

(どこかに…どこかに、ないのか?あるだろう!弱点の一つや二…つ……?)

 弱点を探す純の目が、ふいに妙な光を捉える。それはルルイの胸を二分割するように縦に走っており、陽の光の中でぼんやりと輝いていた。

「……一か、八か」

 純は謎の光を見出した光明と信じ、防戦から一気に攻戦へと転じる。左右から突き出される爪を身体の外側へと弾き、ネネコの懐へ飛び込んだ。

「なにを─」

「そこだッ!!」

 純は両手の甲を合わせ、ネネコの胸の光を目掛けて一気に突き出す。ピンと伸ばされた指先は弾かれることなく、ネネコの体内に深々と突き入れられた。

「が、ア………?」

 自分の身体が大きく傷つけられた現実を受け入れられず、ネネコは痛みを、そして純へ反撃することを忘れた。

 純は指が根元まで埋没した両手でネネコの身体を力任せに押し、文化センターの外壁へと叩きつけた。

「お前…いったい、何を…」

「こ…う、だ……!」

 純は右膝をネネコの腹に押し当てると、それとは逆方向へ、扉をこじ開けるように両手に力を籠めた。指を突き入れられた部分からネネコの身体に亀裂が生じ、ミシミシと音を立てながらゆっくり外側へと開き始める。

「やめっ……やめろ!何をする!!」

 我に返ったネネコは、純の両腕を掴むと先程とは逆に握り返し始めた。しかしどれだけ力強く握っても純の手が止まることはなく、むしろ逆に胸をこじ開ける勢いが増していく。

「待て…待て、やめろ。やめてくれ。わた、私の全てが」

「ぐ……ああああああ!!」

 懇願を聞く耳もたず、純はネネコの胸をこじ開け続ける。胸の内側が垣間見える程にこじ開けられると、純は膝を曲げて両足をネネコの腹に押し当て、身体を伸ばす勢いで一気に胸部を引き剥した。

「アアアアアアアアアアアアア!!」

 胸部が胴体から完全に分離し、それまでに経験したことのない痛みからネネコが絶叫を上げる。その胸の内には、眩く発光する何らかの器官が存在していた。

 胸部を引き剥した勢いで後方へ転がった純は、倒れたままネネコの胸の輝きを目にし、先程まで見えていた光と頭なの中で照らし合わせた。

(あの光が、外に漏れてたのか?いや…やっぱり、感じが全然違う。じゃあ、さっきのは…)

「純さん、あれがネネコの、あの身体の心臓部に違いありません!」

 ルルイの叫びで、純は考えるのを中断する。まず何よりも、目の前の敵から奪われたものを取り戻すことが先決である。視線の先では、ネネコがよろめきながら背を向けて逃げ出そうとしている。純は最後の力を振り絞ると、立ち上がって右腕をネネコへと向けた。

「駄目…だめ、ダメ。これ、これだけは……」

 右腕で胸の光を隠しながら、ネネコがよろよろと歩く。頭の中に任務遂行のことはもはや存在せず、ただ逃げ延びることだけを考えて足を前に動かしていた。

「逃がす……かッ!」

 純の右腕からワイヤーが射出され。ネネコのだらりと下げられた左腕に巻き付けられた。互いを結ぶギリギリの長さに保ったそれを、純は強く引きながら一直線に駆け出した。

「あ…」

 ワイヤーに左腕を引かれ、ネネコの身体が百八十度反転させられる。

 純は正面を向けられたネネコの胸の光に狙いを定め、地を蹴って高く跳び上がった。バイザーの下で蒼い瞳が輝き、右足に銀色の輝きが宿る。

「でやあああああああああ!!」

 純の跳び蹴りがネネコの胸を直撃し、ネネコの輝く器官を打ち砕く。純はワイヤーを巻き戻すと同時に左足で蹴りを放ち、その反動でネネコから離れると背を向けて着地した。

「あ……あ……」

 身体の中枢器官を失ったネネコが地に倒れ込む。その身体から煌びやかな輝きが急速に失われ、至る所へ亀裂が走っていく。

「いや……嫌、い………」

 頭上に輝く太陽へと、ネネコが手を伸ばす。それは温かな輝きに届くことなく、石塊いしくれのように崩れ落ちる。

「ああ、あああああ───」

 身体が完全に崩壊すると同時に、ネネコの叫びは虚空へと消えていった。

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