1-3

「………あ、れ?」

 ふと気づくと、純はよじ登り足場にした柵の近くに倒れていた。

 川に向かって跳んだのに、なぜこの場所にいるのか。あの声の主は何者なのか。あの怪人はどうしたのか。疑問はとめどなく溢れてきた。

 何個目かの疑問が浮かんだところで怪人のところへ思考が引き返し、純は急いで立ち上がり周囲を見渡す。さっきまでと同じく、近くに人はおらず、怪人も姿を消している。何も異常はなかった。

 安全を確認し胸を撫で下ろしかけた時、純の視界の片隅に違和感が映った。感じた方向へ顔を向けると、非行防止を訴える看板にそれはあった。折れても倒れてもいないが、書いてある文字が左右反転していた。

 さらに周りをよく見てみれば、目に映るあまねくものが異常と化していた。住宅の表札、道路標識、自動車のハンドル、全てが左右反対だった。山へ向いた時に左から射すはずの夕陽も、今は右から射している。

「なんだ、これ…これじゃ、まるで」

「そう…ここは鏡に映った、あなた達の世界です」

 スマートフォンから聞こえた、あの声だった。声がした方向へと、素早く向き直る純。一秒でも早く、この状況を声の主に問いただしたかった。

 川の柵のちょうど足場にした部分を背に、十歳ほどに見える少女が立っていた。腰にまで達する長髪と瞳の色は勿忘草を思わせ、どう見ても日本人ではない。いくつもの丸い鏡がつけられた巫女装束のような服装といい、普通の人間でないことは一目瞭然であった。

「先程は危ない真似をさせることになってしまい、申し訳ありませんでした。言い訳がましいですが、わたしの方も急なことで慌てており、どうか許して頂けないでしょうか」

 悲愴な面持ちで頭を下げられ、純はどう反応していいかわからなくなった。彼は年下と接する機会を殆ど持ったことはなく、相応の対応を知らない。なぜ年上か、せめて同年代でないのかと、胸の内でひとりごちた。

「あの…いや、頭を上げてくれ…ください?とりあえず、色々と説明してほしい…んだけど」

 タメ口か、敬語か、それともフレンドリーかつ丁寧にか。さぐりさぐりで妙なことになった言葉を受け、少女は顔を上げる。

「はい…そうでした、すみません。わたしの名前はルルイと言います。今、何が起きているのか説明を」

「あ、純です。水沢純。よろしく」

「あ、いえ、これはどうもご丁寧に」

 思わず名乗り返し、頭を下げる純。それにつられ、ルルイと名乗った少女もまた頭を下げる。しばらくして、どちらからともなく顔を上げた二人は、互いに気まずい表情を浮かべていた。

「…すみません、どうぞ」

「は、はい。こちらこそ、すみません…こほん。それでは、改めまして」

 気を取り直したルルイの真剣な面持ちを目にし、純はごくりと唾を飲んだ。

「まず、今いるこの世界についてですが、先程も申し上げた通り、あなたの世界の鏡写しの世界です。わたしが創り、わたしが支配する場所。わたしはあなたを保護するため、ここへ招き入れました」

「君が…?君が、この世界を?」

 普通の人間に、いや仮に特別であったとしても、人間にそんなことはできはしない。それが本当なら、文字通り神業ではないか。純が驚愕に目を見張ると、ルルイは少し目を伏せて言葉を続けた。

「お察しの通り、わたしはあなたとは違う世界の住人です。理由があり、今はこの世界にいます…ここまでは、理解して頂けましたか?」

「まあ…うん。なんとなくは」

 聞いている途中に何度も太腿をつねってみたが、確かな痛みを感じた。目の前の少女の言葉が真実であると、純は信じるしかなかった。

「では、続きですが…純さん、あなたの周りで今、不可思議な現象が起きているのではないですか?」

「あ、うん。人がいきなり消えたり、見つかっても意識が無いとか…やっぱり、さっきの奴が?」

 純の言葉にルルイは首肯で応え、より一層顔を曇らせる。

「どうやら、既に相当の被害が出ているようですね…純さん、無理を承知で申し上げます」

 ルルイの真剣な眼差しは、純が今まで見てきた中で

「彼と…彼らと戦うために、わたしに力を貸して頂けませんか?」


* * *


 純がルルイの言葉に従い、怪人から逃走を図っていた頃。

 玲と桃子は櫻木町の中央に位置する国鉄の駅に到着し、改札口の傍で電車が来るのを待っていた。

「でもほんと怖いね。桃ちゃんはなんだと思う、原因」

「さあ。でも、本当に神様の仕業だったりしてね」

 玲の質問に対し、桃子が間髪入れず答えを返す。その表情は揺るぎなく、胸中は窺えない。

「ううん…本当に、そうだったりするのかなあ」

 頭をかきながら首をかしげ、考えを巡らせる玲。髪型がぐしゃぐしゃになったあたりで首を戻し、桃子に向き直る。

「…何か、わかった?」

「全然」

 組んでいた両腕で×を作る玲。桃子はでしょうね、という顔をしながら、懐から取り出した櫛を玲に差し出す。

「よかったら使って。大丈夫、使ってない余り物だから」

「ありがと…桃ちゃん、ほんとズバリ言うね」

 玲が桃子から櫛を受け取ると、ちょうど電車の接近を知らせるアナウンスが鳴り響いた。

「じゃあ、私は行くから。玲も気を付けて帰るのよ」

「うん、ありがとう。また明日ね」

 桃子は軽く手を振って別れを告げると、足早に改札口の向こうへ進んでいった。

 桃子の姿が見えなくなると、玲は踵を返して自分の家へと歩きはじめた。降りてくる客で混雑する前にとやや急いで駅を出た時、上着のポケットから少し前の流行歌の着信音が鳴り出した。ポケットから音源であるスマートフォンを取り出し、発信者を確認してから耳に当てる。

「もしもし、山口くん?」

『鈴森か!無事か!葉月は!?よかった!もう電車か!?』

「え?え?ちょっと待って、そんなに慌ててどうしたの?」

 電話の向こうの冬彦の声は、慌てており要領が掴みづらかった。うるさくまくしたてるのをしばらく黙って聞いていると、急に声が小さくなった。

『悪い鈴森、うるさかっただろ』

「あ、戸羽くん。山口くん、どうしたの?」

 通話の相手が英二に替わっていた。どうやら、冬彦から電話を取り上げたらしい。電話を返せだのなんだのと騒がしい持ち主を制し、英二が口を開く。

『いきなりで驚くと思うけど、純がいなくなった』

「え……それ、どういうこと?」

 どういうこと、と問いかけながら、その言葉の意味を玲は理解していた。純が、神隠しの被害に遭ったのだ。

『わからねぇ。消えちまったんだ、いきなり…警察には行ったけど、連絡するから早く帰れって言われただけで、すぐに何かしてくれるかはわからないし…』

「そんな…」

 まさか、自分の身近な人間が被害に遭うなんて。どこか他人事のように考えていた玲のショックは大きく、歩みを止めて駅前のロータリーにあるベンチに座り込んだ。

『葉月とはもう別れたのか?』

「うん、さっき電車に…でも、どうしよう」

『どうしようったって、何ができるか…』

 英二の言う通り、一体自分に何ができるのか。こうやって電話で話しているのも精一杯なのに。

 そうだ、その電話だ、と玲は閃いた。一刻も早く、純がいなくなったことを家族や学校に伝えなければいけないだろう。姫路先生など知ったらひっくり返りそうだと思ったが、その時はその時だ。

「ねえ、学校にはもう連絡した?」

『まあ、とにかくそっちも気を付けろよ。俺たちも急いで帰るから』

「あの、もしもし?先生にはもう電話した?」

『おい、聞いてるか?もしもし?おーい?』

 何かおかしい、と玲は思った。相手の声は聞こえているのに、こちらの声が聞こえていないみたいだ。スマートフォンが壊れたのかとも思ったが、通話が続いているのでそれも考えづらい。

 では、一体何が。一つの可能性に思い至り、玲の顔から血の気が引いた。

 まさか、まさかとは思うが。もしや、自分もそうなってしまったのだろうか。

「お、その表情。どうやら気づいたみたいだな」

「だ、誰!?」

 いきなり話しかけられ、スマートフォンを耳から離して慌てて声の主を探す。左右を見渡してから見上げた先、バス停の屋根の上にそれを見つけ、玲の思考は停止した。

 屋根のふちに、ベージュ色の布を巻いたミイラのような何者かが座っていた。両脚をぶらぶらと揺らしながら、玲の方を見下ろしている。

「いやあ、俺が誰かなんてどうでもいいんだ。お前が誰かもどうでもいい。大事なのは、お前の姿を見て、お前の声を聞く奴はもう俺しかいないってことだ」

「み、見て…聞こえ…?」

 あの怪人は、今なんと言ったのか。姿が見えない、声が聞けない。それではまるで、さっき伝えられた同級生みたいではないか。

「だから、お前の思ってる通りだよ。本当なら、収穫の時まで放っておくんだけどよ…」

 そう言うと、怪人は玲に向けて腕を伸ばした。伸ばされた腕は指先から肩口までするすると解けていき、一枚の布の様になる。

 顔を引きつらせながら、玲はベンチから立ち上がる。その足元に、怪人は勢いよく腕の形をしていたものを叩きつけた。

「ちょっとイライラしててな。遊ばせてもらうぜ」

「ひ………っ」

 逃げなければ。助けを求めなければ。玲は生命の危機を感じ、近くを歩いていたスーツ姿の男に飛びつく。

「お…お願いします、助けてください!」

「うわっ!?」

 掴んだ玲の腕を強引に振りほどき、男は数歩後ずさる。その視線は四方八方を巡り、玲の方へ向いて固定されることはない。やがて足早にその場を離れていった。

 これで確定した。自分は今、誰にも見えず、誰とも話せないのだ。あの、得体のしれない怪物を除いて。

 絶望に打ちひしがれる玲の足元に、怪人の布の腕が再び叩きつけられた。

「ほらほら、ちゃんと避けないと潰れちまうぞ」

「………ッ!」

 叩きつけられた衝撃で散る火花に驚く通行人を避けて、玲は走り出した。今わかるのは、とにかく逃げなければならないことだ。わからないこと全てを意識の外に放り出し、ひたすらに足を動かした。


* * *


「力を…貸す?」

 力を貸すとは、どういうことか。単純明快なルルイの言葉は、逆に理解しづらかった。ただの人間の自分が、この超常の事態に対してどう力を貸せるというのか。

「はい。残念ながら、わたしには今の事態の元凶に立ち向かう力がありません。ですが、この世界に住む純さんなら、その力を手にできる可能性があるのです」

「この世界に、住む…?じゃあ、あの、それは僕じゃなくても出来る…ってこと?」

 純の疑問に、ルルイは唇を噛んで押し黙った。その様子だけで、純は答えを察する。

「…そう、なんだ」

「本当に、勝手なことだとはわかっています。会ってすぐの人に、いきなり危ないことを頼むなんて…でも、わたしには誰かを頼るしかできないんです!」

 ルルイの胸に、自分を守って消えた、最も親しい者の姿が甦り、涙が次々と溢れだした。なぜ自分はこうも無力で、一人では何もできないのか。拭っても拭っても、涙は止まらなかった。

「…一つだけ、確認させてほしい」

 目の前で泣きだされ困惑しながらも、純が声をかける。

「………はい」

 俯き涙を流したまま、ルルイは純の言葉に応える。

「僕が、いいえと言ったら…また別の誰かに、同じように助けを求めるつもり?」

「…はい。私には、それしか……」

 純の顔を見られないまま、ルルイが答える。

 その言葉を聞いて、純は両の拳を力強く握りしめた。

「わかった。力を貸すよ」

「はい………え?」

 予想外の言葉に、ルルイが顔を上げる。不安と覚悟がないまぜの表情が、自分へ向けられていた。

「だから、僕がやる」

「あ、危ないですよ?さっきみたいな奴と、戦うことになりますよ?」

「わかってる。正直、凄く怖いし、嫌だけど…でも、やる」

 絶対に断られる流れだと思っていただけに、ルルイは困惑の表情を隠せなかった。

「あ……ありがとう、ございます」

「で、どうすればいい?」

「それは……いえ、待ってください」

 会話を中断したルルイは、服についている鏡を一つ取り外すと、すぐ傍へ放り投げる。ルルイの手から離れた鏡は空中で静止すると一回り二回りと大きくなり、直径一メートルほどの大きさになる。

「…これは、何を?」

「待って、今、映ります」

 その言葉の直後、鏡に映る風景が歪み、やがてまるで違う場所の様子が映し出される。見覚えのあるコンビニや塾の看板から、純は駅前の辺りだと見当をつける。

「これも、君の?」

「はい。そう遠くない鏡に映る場所を、ここに転写しています…いました。あそこを」

 ルルイが指差した場所、駅前の総合スーパーへと続く道に、あの怪人がいた。どうやら、新しい獲物を見つけて事を起こしたらしい。

 しかし純の視線は、その怪人が追う少女の方へ釘付けにされた。

「鈴森さん…!」

「お知り合い、なのですか」

「うん…なあ、どうすればいい?」

 ルルイの肩を掴み、問いかける。手遅れになる前に、一刻も早く、あの場所へ行かなければならない。

「どうしたら、あいつと戦える?」

 ルルイは懐に手を入れ、そこから取り出したものを純の目の前に掲げる。それは、キラキラと煌めく水晶のような珠だった。

「…これを、あなたの魂と結び付けます。そうすれば、あなたは戦う力を得られる……はず」

「魂…と?」

 こくり、とルルイが頷く。その真剣な眼差しから、なんの比喩でもなく言葉通りの意味なのだと純は直感する。

 はず、という点が引っ掛かるが、考えている時間は無い。純はルルイから離れ、深呼吸し気持ちを落ち着ける。

 やると言った手前、もう後には引けない。

「…いいよ。やってくれ」

「はい、では……いきます」

 ルルイは手を伸ばし、珠を純の胸に押し当てる。珠は手に押されるまま、制服をすり抜けて純の胸へと吸い込まれていった。

「う……ぐ、う!?あ、あ………」

 純は、自分の身体の中から凄い熱が溢れてくるのを感じた。全身が焼けるような感覚に、思わず膝をつく。

「がんばって…耐えてください!すぐに、あなたの身体は作り変えられます」

「それは、どういう……う、うわあああああああああああああああ!!」

 湧き上がる力に呼応するように、絶叫する純。その身体を頭の先から黒い輝きが包み込んでいった。


 怪人から逃げ回り始めて十五分と経たないうちに、玲の精神は限界を迎えようとしていた。

 怪人の攻撃を避けること自体は難しくなかった。どうやら、あくまで立ち止まらせないための行動らしい。しかし、逆に考えればそれは、いつでもこちらに当てられるということではないか。

 どこへ、どこまで逃げるか、というのも問題だった。逃げ回るならば人通りは少ない方がいい。なにせ、こちらを見て避けてくれることは決してないのだから。そのため最初は人の少ない方へ向かおうとしたが、そうするとあの怪人と二人きりになることに気付き、思わず足が止まった。

 なるべく人がいて、人が少ない場所へ行こう。そんな無茶苦茶なことを考えながら走っていると、次第に何もかもがぐちゃぐちゃとなってしまい、結局駅前から離れられずにいた。

「ほらほら、もう終わりかあ?」

 後ろからは、絶えずこちらを煽り立てる声が飛ばされてくる。走るだけで精一杯なのに、いい加減にしてほしかった。

「あ……はぁ……あっ!」

 相手の位置を見ようと後ろを振り返ったのがいけなかった。舗装の僅かな段差に躓き、派手に転んでしまう。上着の肘には擦った跡が残り、膝からは血が流れていた。小粒だった涙が、痛みで大粒に変わる。

 それでもなんとか立ち上がった時、前から歩きタバコのサラリーマンがこちらへ歩いてきていた。このままではぶつかってしまうと横へ避けると、その後ろから自転車が走ってきていた。ここは自転車通行禁止なのに、と胸の内で文句を言いながらも、ぶつかる寸前でさらに横へ飛び退く。

 飛び退いた先で、自分に向かって走ってくる自動車のドライバーと目が合った。もちろん、向こうからこちらは見えていないのだろうが。

「あ………」

 わたし、死んじゃうんだ。他人事のように、玲はそう思った。

 生まれてきて十五年、十分に幸せだったと思うけど、まさかこんな現実離れした状況で命を落としてしまうなんて。

 目をつぶった次の瞬間、玲の身体を衝撃が襲った。


「………あ、れ?」

 何かがおかしかった。確かに身体は揺さぶられたが、車に撥ねられた感じではない。しかも、何やら背中と膝裏に何かが触れている感覚がある。

 自分は今、どういう状況なのか。意を決して玲が薄く目を開くと、膝裏を黒い指のようなものが掴んでいるのが見えた。どうやら、誰かに身体を抱えられているらしい。

 しかし、車との衝突まで数秒もない状態だったはず。一体誰が、という想いに突き動かされ、玲は目をはっきりと開け、視線を相手の顔がある方へと向ける。

 そこにあったのは、蒼い瞳が輝く、光沢のある黒い顔だった。

「え………?」

 一体今度は、何が現れたというのか。しかも周りをよく見れば、自分の身体は地面から五メートルは離れた位置にある。

 立て続けにわけのわからないものを目にして、玲は自分の頭がおかしくなってしまったのではないかと疑い始めた。

 謎の人物は玲を抱えたまま電柱や看板を跳び渡り、総合スーパー屋上の駐車場へと着地した。身体を降ろされ、手を取られて立ち上がった玲は、目の前に立つ者の姿を改めて見た。

 黒い顔に唇は無く、一段凹んだ部分にある両目は蒼く光り輝いている。頭部の左右にある翼のような意匠は耳なのかどうかわからず、後付けされたようにも見える。そして頭頂部には、後頭部へと伸びる平べったい一本角。

 首から下も黒く堅い肌が続いており、胸や肘、膝など銀色に染まっている部分が何ヶ所かある。

 まるで、テレビに出てくるヒーローみたいだ。そんな印象を受ける玲。そういえばあの怪人も、いかにも悪者という姿をしていたような。さっきまで死にそうになっていたというのに、なんだか急におかしくなって、玲は吹き出してしまう。

 そんな玲の様子に黒い人物は困惑した様子を見せたが、それも束の間、玲に背を向けて両腕を身体の前に構える。

 一体どうしたのかと玲が視線を向けると、駐車場の店内出入り口の上にあの怪人が立っていた。甦った恐怖で顔が引きつり、顔が強張る。

「なんだぁ、お前…いや、正直、見覚えはあるんだ。けどよ…あいつは、死んだはずだ」

 怪人はそう言うとふわりと出入り口の前に降り立ち、ゆっくりと二人の方へ歩み始める。

「…誰なんだ、お前?」

 怪人に向かって、黒い人物も歩を進める。そして、マスクの様な口から声を発した。

「僕……俺は、俺だ」

 声が少しおかしいな。自分の姿が変わってから初めて声を発し、純はそんなことを思った。


 まるで自分の身体ではないみたいだ。当たり前のことだが、純はそう感じざるを得なかった。

 あの珠が身体に入った直後、自分の身体がドロドロに溶けていったように感じたのを憶えている。昆虫は蛹の中であんな風になっているのだろうか。

 いや、そんなことは後で考えればいい。今は目の前の問題を片付けるのが先決だと、純は気合を入れ直した。

 危ない目に遭っている玲を助けるという目標は、半分は達成できた。駆けつけた時に車に撥ねられそうになっていたのには驚いたが、なんとか間に合ってよかった。純は全力疾走で自分を運んでくれた、太く逞しくなった両脚に感謝した。

 後は、目の前にいるこの化物を倒すだけだ。今の自分にならできる、いや、やらねばならない。恐れと迷いを考えないよう両手を握りしめると、純は敵に向かって走り出した。

「でやぁッ!」

 相手の顔に向かって、純は右の拳を突き出す。殴り合うようなことなど今まで一度もなかったが、今この身体は自分の思い通りに動いた。これなら、素人以前の自分でも戦える。

 怪人は両腕で顔を守ったが、その防御はあっさりと弾かれた。予想以上の威力に、数歩後ずさる。

「お……っと、結構やるみたいだな。だが…これならどうだ!」

 近距離戦が不利とみるや、怪人は両腕を解いて純に向けて打ち付ける。

 左右からくる攻撃を、純はそれぞれの腕で受け止めた。鏡を経由して見ていたので対応できたが、知らなければ胴体を強く打たれていただろう。

 攻撃を上手くはじいたことで、怪人に一瞬の隙が生まれた。このチャンスを逃すまいと、純は怪人へ向けて突進した。

「ぬおお!?」

「だあッ!!」

 困惑する怪人の胴体に、純の体当たりが突き刺さる。相手が体勢を崩したところに、追い打ちのパンチを左右で一発ずつ、顔に叩き込んだ。

 純はさらに続けて攻撃しようとしたが、その背中に衝撃が走った。振り向けば、怪人の腕が自分の背後へ引いていっている。腕を戻して叩きつけてきたのだと理解すると、再び攻撃される前にと急ぎ反撃に移った。

 相手の腹へ、左拳を全力で突き出す。真正面から受けてくの字に折れたところを、下から右拳で突き上げる。あまりの威力に、怪人の身体が空中へと打ち上げられる。

「ぐおおおおお!?」

「が…はぁ…う…ッ」

 攻撃が通用している。自分は戦えている。純は確かな手ごたえを感じながら、しかし全身の痛みに膝をついた。相手から受けた攻撃によるものだけではない、まだ今の身体に慣れていないせいだと、本能的に悟った。

 しかし戦いをやめるわけにはいかない。歯を食いしばり──少なくともそう感じることはできた───打ち上げた怪人を見上げたが、しかし相手は空中を漂い、この場から離れようとしていた。

「くっ……逃げるのか!」

「誰が逃げるものか!だが、先にやることができたからな。心配せずとも、貴様はすぐにこの俺が始末してやるわ!」

 捨て台詞を残すと、怪人は何処かへと姿を消した。

 純は跳びかかろうとしたが、身体が急に言うことを聞かなくなり、動けなくなっていた。立ち上がることもままならず、その場に倒れ込む。

「だ、大丈夫ですか!?」

 倒れた純のもとへ玲が駆け寄る。傍へしゃがみこもうとした瞬間、目の前の黒い姿が輝きだした。

「えっ、な、なに?」

 玲が困惑していると、輝きは足から頭の方へ向けて消えていき、そこには彼女の見知った姿が倒れていた。

「み…水沢、くん?」

 まさか謎の恩人の正体が自分の同級生、しかも先程行方不明になったと聞いていた人物とは微塵も思っていなかったため、玲は絶句した。それでも、何がどうなっているのか知るため、かろうじて声を発した。

「なに……してるの?」

「……なんだろう……人、助け……いや」

 自分は何をしているのだろう。改めて考えると、どう言えばいいのか、純は迷った。そして、一つの答えを見つけると、それを告げた。

「自分助け…かな」

 この時の玲には、その言葉の真意はまるでわからなかった。

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