第9話 初めての叱責

 夏海が磨臼に通い出してから三か月が過ぎた。


 時おり週末に絡めて有給休暇を申請しては、十六夜亭にお世話になりながら木野崎や小西主幹と磨臼じゅうを回り、観光協会や市町村役場の観光課を訪れて協力を取り付けた。


 本庁の人間とは言え、行政の知識も経験もほとんどない夏海の話は当初聞き流されることがほとんどだった。

 けれども、木野崎たち青年会が発信する“disてぃねーしょん・まうす” プロジェクトの反響が少しずつ耳に入るようになると、夏海の熱意に彼らも次第に態度を軟化させ、青年会と連携したイベントや観光情報の発信など、具体的なアイデアを夏海たちと詰めてくれるようになっていた。


 三日間与えられた夏季休暇も当然のように磨臼を奔走して使い切った夏海だったが、長いだけで中身のなかった学生時代の休みよりもずっと濃密で楽しい経験ができたと実感していた。


 そんな熱い夏が去り、県庁前のケヤキの街路樹がまもなく色づき始めようという頃。


「二ツ石さん、ちょっと」

「あ、はい!」


 竹中課長に呼ばれ、自分のデスクで観光入込客数のデータをまとめていた夏海が席を立った。

 課長デスクの前まで来ると、夏海が数日前に決裁に回した市町村観光振興費補助金の申請書類を竹中課長が差し出してきた。

「この中に連なっている磨臼の三市町からの申請なんだけど、すべてに “disてぃねーしょん・まうす” プロジェクト” というワードが出ているよね。君はこれについて何か知っているのかな?」


 口調は穏やかながら、竹中課長の銀縁メガネの奥の眼差しは詰問しているかのように鋭い。

 背筋がぞくっとするが、自分は職務として携わっているわけでない。なんら後ろめたいことはないはずだ。そう心に言い聞かせてまっすぐに見つめ返す。


「それは磨臼の青年会が地元市町村の観光関係者と連携して進めているプロジェクトです。若い世代の人たちの間にSNSを通じて現在着実に広まりつつあって――」

「それに君が関わっているということ?

 先週、市町村観光課長会議に僕が出席した時に、磨臼の課長さん達の口から君の名前が出てね。プロジェクトの推進にとても熱心に動いてくれていると褒めていた。しかし、こんな聞いたことのないプロジェクトに関わるのは君の職務の範囲外ではないのかな」

「もちろん、職務として動いているわけではありません」

「そうは言っても君はこのS県庁の、観光プロモーション課の人間なんだよ。その君が動いているということは、この観プロ課が、ひいてはS県がそのプロジェクトに公式に関わっているという誤解を受ける。何か問題が起こる前に手を引きなさい」


「嫌です!」


 きっぱりとした夏海の拒否に、竹中課長が目を見張った。

「磨臼の関係者の皆さんは、私が本来の職務とは別に、個人的に関わっていることをご理解くださっています」

「だが、磨臼センターの小西さんも一緒に動いているそうじゃないか。出先の彼を巻き込んでいるのに個人的に動いているなんて建前は通用しないよ?」

「小西主幹に本来の職務以上の負担を追わせているのは確かですが、そこは小西主幹も――」

「いい加減にしないかっ!!」


 竹中課長が声を荒げた。

 初めて受ける上司からの叱責。


「とにかく! こちらが面倒に巻き込まれる前に今すぐ磨臼から手を引くんだ!」


 聞いたことのない竹中課長の怒声に、水を打ったように課内が静まり返る。


 どうしよう。これ以上の反論は許されそうにない。

 了解の返事も、拒否の返事も声にならなくて、見せたくないのに涙がこみ上げてきた時だった。


「いい加減にした方がいいのはそっちじゃねーの?」


 フロア入口の方から聞き慣れたぞんざいな声がして、夏海ははっと振り返った。

 そこにはスーツ姿の木野崎が立っていた。


「彼女は俺たち “磨臼の明日を考える青年の会” のメンバーなんだよ。

 メンバーがプロジェクトに関わって何が悪い?

 非営利団体に公務員が無報酬で参加するのは何も問題がないはずだけど」


 閉鎖的なフロアに突如として現れた金髪の青年に、竹中課長があからさまな不快感を示して彼を睨みつけた。


「君は磨臼の青年会の人間か? 彼女の職務に関してなぜ君が口を挟むんだ」

「彼女は青年会の活動に参加しているだけだって言ってるんだよ。

 俺は今日、県の青年協議会の磨臼地区代表として知事と懇談してきたんだ。

 そこで知事にも “disてぃねーしょん・まうす” プロジェクトの広がりについて話をしてきた。

 知事もすごく興味を持ってくれて、今後は県としても全面的にサポートしていくと約束してくれた。

 これ以上彼女を責めるのは、逆にあんたの立場を悪くすると思うぜ」


 知事からのトップダウンがなされれば、いくら国からの出向キャリアであっても竹中課長が反対できる余地はなくなる。

 ぐうの音も出なくなった竹中課長は深く嘆息すると、「二ツ石さん、決裁印は押しておくから、君はもう下がっていい」と片手を額にあてて俯いた。


 ♨️


「助けてくれてありがとう」


 木野崎を送るエレベーターの中で、夏海は改めて彼に頭を下げた。


「いや、懇談会に県庁に来たもんだから、ついでにあんたの職場を覗いたんだけどさ。まさかあのタイミングに遭遇するとは思わなかったし、あのいけ好かない官僚にぎゃふんと言わせることができて痛快だった!」


 悪戯が成功した子供のように思い出し笑いをする木野崎に同調していいのかどうか。

 夏海が曖昧な微笑みを返した時にエレベーターが1階に到着した。


「ああ、それから、さっき俺が言ったこと、嘘じゃないからさ」


 そう言いつつ、ロビーの椅子にビジネスバッグを置いた木野崎が、ファスナーを開けてごそごそと中を探る。

 小さなプラケースを夏海の前に差し出すと、その蓋をぱかっと開けた。


「え? 私の名刺?」

「そ。“摩臼の明日を考える青年の会 ” のメンバーとしての名刺な。

 職務外で動く時に渡せる名刺があった方がいいと思って作っといた」

「……嬉しい。ありがとう」

「次にあんたが摩臼来た時に渡してもよかったんだけどさ。ちょうど今日俺がこっちに来る予定あったし、サプライズのつもりで渡そうと思って。

 だからさっき職場に訪ねて行ったんだよ」


 差し出された名刺を両手で受け取る。

 木野崎の懐に入れたような気がして、体も心もぽかぽかと温かくなる。


「じゃ、特急の時間があるから。またな」


 やっぱりこの人、調理服の方が似合うかも。

 金髪スーツの後ろ姿を見てそんなことを思いながら声をかける。


「仲間として認めてくれるんなら、いい加減 “あんた” 呼ばわりはやめてくれないかな?」


 振り返った木野崎が、にかっと笑う。


「いいぜ。その代わり、夏海もタメ口はやめろよな。俺の方が2コ上なんだから」


「えー!? 今さらそれは変えられないよ!」


 夏海が口をとがらせると、「あ、ずりい!」とまた笑う。


「再来週、また摩臼そっちに行くから!」

「おう!待ってる」


 摩臼に行くのが楽しみなのは、仕事のためだけじゃないのかもしれない──


 ケヤキの街路樹に向かって、一足先に紅葉したような彼の頭が遠ざかっていく。

 先ほどから上がる一方の体温を持て余しながら、夏海は彼の後ろ姿が人混みに紛れてしまうまで見送り続けた。


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