第8話 初めてのお泊まり

「ほっ、ほんとに泊まっちゃっていいの……?」

「ああ、遠慮することはない。ただし食事は俺の手料理になるけど」

「嬉しいけどドキドキするな。だって、あなたのとこって……」


 高級老舗旅館の十六夜亭なんだもの。

 そんな格式高い旅館に無料タダで泊まらせてもらえるなんてっ!


 夕方まで “disてぃねーしょん・まうす” で紹介した残念スポットを視察したり、観光協会に挨拶して顔つなぎをしたりと忙しく動き回った夏海たち三人。

 小西主幹と別れた後、宿の空きを探そうとした夏海に「十六夜亭うちに泊まれば?」と木野崎が声をかけたのだった。


「俺が子供ガキの頃は週末はいつも満室だったけど、最近は繁忙期でも空き部屋が出る。うちは昔ながらのお得意様が多いからまだいい方だが、他の旅館は相当厳しいみたいだ」

「そうなんだ……。もし、今回のプロジェクトの効果で若い世代の観光客が増えたら、若者向けの宿泊プランとか、何か工夫できないのかな?」

「夕食なしのB&B(Bed & Breakfast)プランや素泊まりプランがある宿は今でも多いけどな」

「もし私が友達と泊まるなら、エステや岩盤浴が楽しめたり、可愛い浴衣で外出できるプランがあるといいなぁ」

「そういや海沿いに岩盤浴のできる日帰り温泉施設ができたから、そこと提携するっていう手もあるかも。

 旅館組合や青年会の会合で話を出してみる価値はあるかもしれない」


 木野崎の運転する車でそんな話をするうちに、温泉街から少し山手の道をそのまま森のように広がる敷地に入っていく。

 夕闇に鬱蒼とした影を落とす森を抜けると大きな池を前にした敷地が広がっていて、大きな数寄屋造りの伝統的な旅館の背後にホテルのような近代的な別棟がそびえている。

「ほえー……」

 CMで何度も見たことのあるはずの外観に圧倒される夏海を乗せたまま、木野崎の運転するセダンは旅館の裏手にある従業員用の駐車場に停まった。


「正式な客じゃないから、悪いけど裏口から入るぞ。お袋に話を通せば空き部屋案内してくれるはずだから」

 そう言いながらホテル棟の裏手のドアを開けてずんずんと中へ入っていく木野崎の後をついて歩く。

 日本庭園を突っ切る渡り廊下を歩いて伝統的な木造建築の本棟に広がる豪奢なロビーへ出ると、着物姿で接客している女性の後ろ姿が目に入った。


「あの人……。たしか、先日の会議にいた……」

「ああ。女将の会の会長ね。俺のお袋。十六夜亭の女将、木野崎直子だよ」

「えっ! あの人、あなたのお母さんだったの!?」


 夏海の声に、深々と腰を折り曲げてお辞儀していた女将が振り返り、「まあ」とおっとり微笑んだ。


「おじぇなんしぇ! よくいらしてくださいましたねぇ。

 篤人からお世話になっている方を泊めたいって聞いていたのだけれど、貴女だったのね」


 木野崎本人からは、今日一日感謝の言葉も労いの言葉も一切出てこなかったけれど、母親にはそんな風に伝えていたなんて。

 こそばゆさを感じながらも、口元が緩んだ夏海は女将に丁寧にお辞儀した。

「こちらこそ、息子さんにはお世話になっております。

 本日はご好意で宿泊させていただけるとのことで、何とお礼を言ったらいいか」

「あらあら。そんな水くさいことおっしゃらないで?

 篤人がせっかく連れてきたのですもの。いえね、先日会議でお見かけした時から、はきはきとお話できる、快活なお嬢さんだと思ってましたのよ。着物も似合いそうだし、将来はきっと素敵な女将に……」

「ちょ! お袋! 何言ってんだよ!」

 突然の女将の暴走に、木野崎が慌てて止めに入る。

 三秒ほど意味がわからずきょとんとしていた夏海だったが、木野崎の慌てぶりに女将の意図をようやく理解した。


「あ! いえ! 今回は私、仕事で摩臼へ来ただけで……」

「あら、そう? でも明日はせっかくの日曜日なんだし、篤人も休み取ってデートに行ったっていいのよ?」

「だーかーら! そういうのじゃねーし、明日だって彼女は仕事があるんだよ! とにかく空き部屋教えてくれたら俺が案内するから!」


 あからさまに残念そうな表情を見せながら、息子に空き部屋を伝える女将。

 ホテル棟に向かう間も、夏海と木野崎の間には何とも言えない気まずさが漂っていた。


「……旅館の女将ってさ、大変な仕事ってイメージあるだろ?」


 エレベーターの中で、木野崎がようやく口を開く。


「え? ……うん、そうだね」

「お袋、余計な心配してんだよ。女将になるのを敬遠して、俺のところには嫁が来ないんじゃないかって。

 それでああいう変な先走り方したんだと思う。

 何せ天然な母ちゃんだから、気ぃ悪くさせてたらごめんな」

「そ、そうなんだ。

 ……あっ、気にしてないから大丈夫だよ! うん」


 気まずさをかき消すための木野崎の弁明が、夏海の心をさらにざわつかせた。


 そっか。女将業って大変だから、老舗高級旅館の長男と結婚するのは相当な覚悟が必要ってことね。

 ってことは、木野崎さんには今彼女がいないってことかなぁ……

 って! 何考えてるの、私!? そんなこと私には関係ないじゃない!!


 エレベーターの中で、心臓の高鳴りが彼に聞こえてしまいそうな気がして、夏海はわざとらしく咳払いをする。

 7階の一番奥の部屋まで来ると、頬に赤みを残した木野崎が振り返った。


「ここの部屋を使ってくれってさ。

 風呂はホテル棟と本棟、どちらの大浴場も使ってくれていい。

 明日の朝食はビュッフェ形式だから、普通のお客と同じように2階レストラン使って。

 今日の夕食はもう提供した後だし、俺が厨房でなんか作るから、1時間後に1階のバーに来て」

「あ、ありがとう」

「んじゃ、後でまた」


 そそくさと立ち去る木野崎の後ろ姿を見送ってから、夏海は部屋へ入った。


「うわー! やっぱり広くて綺麗……」

 つい先日まで学生だった夏海にはかえって落ち着かないような、瀟洒な客室。

 開放感のある大きな窓からは夜闇に溶け込んだ群青色の喜屋戸湾が見える。


 ソファにゆったりと沈み込むと、やる気が漲り高揚していた気持ちがふっと緩んで、一気に疲れが出た。

 このまま部屋でシャワーを済ませて寝てしまいたい衝動に駆られるが、木野崎の作る料理が食べられるというのも夏海にとっては魅惑的だった。


 板前さんはちゃんと別にいるらしく、彼はあくまでその手伝いに入りながら好きな料理を勉強していると言っていたけれど、どんな料理を作るんだろう。


 しばらく体を休めた後で重い腰を上げ、化粧を直してバーラウンジへと降りた。

 そこには調理服姿の木野崎が待っていて、小洒落た創作和食のコース料理を二人分用意してくれていた。


「わあ! おいしそう! これ、ほんとに木野崎さんが作ったの?」

「もちろん。コース料理として誰かに出すのは初めてなんだ。率直な感想を後で教えてほしい」

「うん。わかった。じゃ、さっそくいただきます!」


 薄暗い空間の中で、暖色系のダウンライトがテーブルの上の美しい料理をピンポイントに煌めかせている。

 ライトアップされた風流な日本庭園をガラス越しに眺めながら、ワインと料理に舌鼓を打つ。

「美味しい!」といちいち感動する夏海の向かいに座り、照れくさそうに笑う木野崎。


 彼が調理服でなければまるで大人のデートみたいなのに、と夏海はほんの少しだけ残念に思うのだった。


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