第5話 初めての失望

 翌日、県庁東棟の9階にある観光プロモーション課に出勤した夏海は、昨日のうちにまとめた会議のレジュメを回覧用の板に挟んだ。同じ企画スタッフ4人とスタッフを束ねる主幹、課長補佐、課長の印をもらうために “回覧” と書かれた紙を挟み、隣の副主任のデスクへと置く。

 課内で発行される文書は “回覧” または “決裁” という形ですごろくゲームのように課員のデスクを回っていき、課長あるいは部長の印までもらって初めて効力が発揮される。

 県職員には一人一冊、辞書のように分厚い『公文書の書き方』という文書規程集が支給されていて、丸数字やカッコ付き数字の使い方、改行のルール、行揃えインデントの位置まで事細かに決められている。作成した文書がそのルールに則った体裁になっていない場合は、上司のデスクへ回る前に赤文字を入れて返却される。いわゆるすごろくの “ふりだしに戻る” 状態だ。

 内容の訂正ならともかく、「①②を使うんじゃなくて、この場合は(1)(2)にしなきゃだめだよ」などと重箱の隅をつつくような指摘で戻される場合もしょっちゅうだ。


 ただし、入庁から三か月間ほぼ毎日残業しながらデスクワークをしてきた甲斐があったのか、今回の回覧はスムーズに竹中課長の元まで届いたようだった。


「二ツ石さん」

 昼前に竹中課長に呼ばれ、「はい」と応答した夏海は前方の課長デスクの前へ立った。


「昨日の会議のレジュメ、これでOKだよ。お疲れさまでした」

 回覧板を差し出した竹中課長が穏やかな笑顔を向ける。

 会議の雰囲気はどうだったかとかプレゼンがどんな手応えだったのかとか、何か質問があるのでは、と予想していた夏海は肩透かしをくらったようになった。


「あ、はい。それで、昨日の会議で私が発表した “景観向上の提案” なんですけど……」

「ああ、その件はレジュメで読ませてもらったし、お土産としてよくできてたんじゃない?」

「でも、結局はハード面の整備は行政も民間も予算的に厳しいという指摘を受けて、それ以上の議論には発展しなくって」

「うん。まあ、そんなものだよ。あの会議は行政振興センターの会議費の予算を執行するために毎年定期的に行われているものだからね。

 うちの課としては一名の動員を要請されているに過ぎないから、出席するだけで立派な業務になるんだよ。だから二ツ石さんは気にしなくていい」


 気にしなくていいって、どういうこと――?


 夏海は軽い失望を覚えた。

 竹中課長は、私に観光行政の経験を積ませるために会議に出席させてくれたんじゃないの?

 課長は、私に期待してくれていたんじゃないの――?


 それでも、夏海はまだ希望を捨てきれなかった。

 昨日木野崎青年会長と話をした、ツイットーを使っての若者向けの宣伝。

 その宣伝効果への期待を伝えれば、竹中課長ならきっと理解して応援してくれる。

 磨臼のプロモーションを行政サイドから支える手立てを一緒に考えてくれるはず!


「課長。そのレジュメには書いていないのですが、実は会議後に十六夜亭の木野崎常務とツイットーを使った磨臼の観光プロモーションについてアイデアを話し合ったんです!」

「うん?」


 顔を上げた竹中課長に、磨臼の残念なスポットを “disる” ことで若年層への宣伝効果とその拡散が見込めることを説明した。


「……というわけで、行政としても青年会の動きをサポートできるんじゃないかと思うんですけど」


 夏海の言葉をじっと聞いていた竹中課長。

 力強く輝く夏海の瞳を見据えたままデスクに肘をつき、拳に頬をのせて軽く嘆息した。


「青年会でそういう動きをするとしても、そこは行政が立ち入るところじゃないよ。

 そんな極端な宣伝をしてクレームが来たときに、その責任の一端をこちらまで追及されることになる」

「そうかもしれませんが……。直接的なサポートでなくても、補助金を活用してもらうとか、県の観光サイトに彼らのサイトのリンクを貼るとか、いろいろと協力できることはあるかと……」


「二ツ石さん」


 たしなめられるように名前を呼ばれ、はっとした夏海が改めて竹中課長の顔を見つめた。

 普段憧れている前髪や瞳の穏やかな色合いよりも、銀縁メガネのフレームの冷たさが心に突き刺さる。


「君に昨日の会議に出てもらったのはね、うちの課の企画スタッフとして、君にはこれから沢山の会議のセッティングや進行をしてもらわなくてはならないからなんだ。

 それに、市町村や各地の行政振興センターでも似たような会議に呼ばれることがある。会議というのはこういうものなんだと知っておいてほしかったんだよ。

 会議に一つ出るたびに新しい業務を増やしていったのでは、業務量も予算も追いつかなくなる。これはわかるね?

 行政が主催する定期的な会合は、予算を消化して実績を作ることで、その会議の目的は八割方達成されているんだ」


「では課長は、会議に出席するだけでそれ以上のことはする必要がないと……。

 会議の目的は、摩臼の観光を立て直すことじゃないんですか?

 その目的達成に少しでも近づくために動かなければ、会議に出席した意味は……」


「君は意外と頑固なんだな」


 竹中課長の言葉が続くにつれて血の気が引くような感覚に襲われていた夏海に、彼の銀縁メガネ以上に無機質で冷ややかな言葉が突きつけられた。


「いいかい? 君がこの課で仕事ができるのは三年間だ。三年後にはどこか別の部署に異動になる。

 事務吏員というのはスペシャリストではなくゼネラリストになることが求められるんだよ。一人ひとりに求められているのは、思いつきで自分や周囲の業務を増やすことではなく、国や県の施策に従ってきっちりと与えられた業務をこなすことだ」


 俯いたままじっと見つめていた課長デスクの書類が、白くぼんやりとした視界をつくっていく。


「君は呑み込みが早くて仕事も正確だから、県職としての資質は十分に備えていると見込んでいるんだよ。期待しているから、これからも頑張って」


 取り繕った穏やかな声が夏海の耳にぞわりと入り込んできた。

 視界を取り戻せないままに一礼し、自分のデスクに戻る。



 課長の期待って、そういうこと――?



 指示されたことを、指示されたとおりに正確にこなして、回覧や決裁をひたすら上にあげていく。

 それが、有能な職員として上司に期待される姿なの……?


 何が正しいのかわからない。


 デスクで固まる夏海の前には、戻って来た決裁書類や市町村からの補助金申請書類、県内の観光施設から送られてくる先月の入場者データのファックスなどがお構い無しに重ねられていく。


 片づけなければ。

 目の前の仕事を片づけなければ。


 マーブル模様のように渦が深まる疑問に蓋をして、夏海は一番上の書類を手に取ってPCのキーボードを打ち始めた。

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