第1話 初めての出張

“摩臼地域観光活性化有識者会議”


 毛筆で達筆に縦書きされた案内板を前に、紺色のリクルートスーツを着た二ツ石ふたついし夏海なつみは緊張まじりの溜息を吐いた。


 リクルートスーツを着てはいるものの、就活のセミナーや面接でここに来ているわけではない。

 入庁してまだ三ヶ月、公務員の安月給、しかも一人暮らしでは、ボーナスが入るまでは学生時代に買ったリクルートスーツをビジネススーツに転用せざるを得ない。

 もっとも、通常勤務では貸与された事務作業用のジャケットを羽織れば服装は比較的自由なので、仕事でスーツを着るのは入庁式以来二度目のことであった。


 ♨️


「摩臼に出張に行ってくれる?」


 二週間前、S県観光部観光プロモーション課主事の夏海は、竹中課長から初の出張を命じられた。


「摩臼、ですか?」

 くりっとした黒い瞳を見開いた夏海だが、表情には初出張の期待と不安が混じりあっている。


 入庁初年度から観光プロモーション課に配属された当初は、地方上級公務員として入庁した同期の皆から「楽しそうな部署でいいなぁ」と羨望の眼差しを向けられたものだが、仕事を始めてみれば組織名の華々しさからは到底想像もできないほど地味な事務仕事ばかりだった。

 観光客入込客数統計のまとめや、市町村を対象とした観光振興補助金の申請受付、県内各地で年に数回開催される地域観光振興政策協議会や講演会のセッティング、観光庁から下りてくる各種行政事務への対応など、朝8時から夜22時ごろまでデスクに貼りつき書類作成に追われる毎日。

 たまに何を勘違いしたのか、一般の観光客から電話が入り、「ホテルの空きはあるか」「おいしい郷土料理を食べられる店を教えてほしい」などの問い合わせを受けることもある。

 そういうことは現地の観光協会に問い合わせてほしいと思いつつも、おもてなしの精神でできる限り調べて対応するため、業務外の調べものに時間を取られることもしばしばだ。


 出身県である隣りのA県よりも公務員試験の倍率が低いという理由でS県を選んだ夏海は、S県を訪れた記憶はほとんどない。けれども、そんな毎日の膨大な事務作業のおかげで、S県内の観光地については行ったことがなくても知識だけはそれなりに蓄積されていた。

 もちろん、“残念半島” と呼ばれる磨臼半島が “ドル箱” から“お払い箱” になった経緯や現状についても。


 それだけに、初めての出張先が磨臼半島であることは、 “腐っても観光地” であるという点で課名にふさわしい場所に行けるという期待感と、“終わコン” (終わってるコンテンツ)とも言える磨臼半島で、どんな業務が待っているのだろうという不安感が同時にこみ上げてきたのだった。


 そんな夏海に、竹中課長は一枚のペラ紙を見せる。

 文書の発行元は「磨臼行政センター地域振興部長」、あて先は「S県観光部観光プロモーション課長」となっていた。


「“摩臼地域観光活性化有識者会議の開催について(ご案内)” ……」

 夏海が標題を読むと、竹中課長は冷たそうな銀縁メガネの奥の瞳を細めて頷く。

「そう。毎年磨臼で行われている会議なんだけどさ、本庁の観光担当課からも一名出席することになってるから、今年は勉強のために君に行ってもらおうと思って」

「会議に出席するだけなんですか?」

「そうだね、基本的には。ただ、会議の目的としては標題にあるとおり “磨臼半島の観光を活性化させるための施策を考えるための会議” だから、一応こちらからの問題提起も一つくらいはとして持っていくようにしているんだ。

 せっかくの機会だから、二ツ石さんにはそのお土産の内容も考えて、自分なりにまとめた上で会議に出席してほしい」


 竹中課長は国土交通省のいわゆる“キャリア” で、エリート官僚への階段を上る一つの過程として地方自治体に三年間の出向という形で来ている人だった。

 そのため、課長とはいえまだ30歳にも満たず、約30名いる課員の中でも下から数えた方がよっぽど早いくらいの年齢である。

 中堅クラスの主任以上の課員は皆彼より年上であり、彼のことを目の上のたんこぶのように扱う者もいるが、頭が切れて口もたつ課長は強いリーダーシップも持ち合わせていて、なんだかんだでこの観光プロモーション課をうまく統率していた。

 銀縁メガネが冷たい印象を受けるが、瞳や髪の色素がほんの少し薄く、やわらかそうなくせのある前髪は無造作に横に流しているため、全体的には穏やかな印象をつくっている。

 おまけに背も高くてスタイルが良く、顔もイケメンと呼んで差し支えないレベル。

 夏海はひそかにこの上司に憧れの気持ちを抱いていた。


 竹中課長が私に経験を積ませようとしてくれているんだ!

 銀縁メガネの奥の茶色い瞳が自分に向けた眼差しに期待が込められていると感じた夏海は、頬が熱くなるのを自覚しつつ「はい!会議できちんと問題提起できるように頑張ります!」と宣言したのだった。


 とは言え、どんなお土産を持って行ったらいいのだろうか。


 夏海がこの三か月で得た磨臼半島の知識といえば、“残念” なものばかりだった。

 駅前に並ぶ大型観光ホテルが軒並み閉鎖し、取り壊す経費も捻出できずにゴーストタウンになっているとか、かつては海水浴客で賑わっていた海の家が後継者難で何年も閉められたまま潮風にさらされて朽ちているとか、半島で唯一の遊園地は観光客呼び込みのためにゆるキャラづくりに迷走し、統一感のない多数の着ぐるみたちが人気ひとけのない園内を闊歩しているとか……。


 ネットで磨臼半島の評判を調べてみても “残念” “終わコン” “詰んでる” “二度と行かない” と悪評だらけだ。

 その中で、夏海が目をつけた評価が一つあった。

 定年後の楽しみにブログを綴り出したという男性が、子どもの頃毎年のように海水浴に出かけていた磨臼の思い出を記事にしていたものだった。


『私が子どもの頃には、白砂青松、風光明媚な場所であった磨臼でしたが、観光客を呼び込むための乱開発で美しい風景が年々失われていくのが悲しかった。

 あの頃の長閑で美しい風景を取り戻せたなら、磨臼を愛する人がきっと再び足を運ぶ土地となるだろう』


 これだ!


 デスクのPCに向かいながら閃いた夏海はすっくと立ちあがると、総務担当の課員に課所有のデジカメの携帯を願い出た。

 月曜朝からの会議のためにもともと磨臼のホテルに前泊する予定ではあったが、予約していた日曜夕方の特急列車の座席を日曜の朝に変更した。


 前日に本数の少ない電車やバスを利用して磨臼の景観をカメラに収め、それをお土産として今回の会議に臨むことにしたのだった。


 ♨️


「よし!」

 初めての出張。初めての会議。

 緊張は極度に達しているものの、竹中課長の期待に応えたい!

 両手にノートPCやら書類やらの入った重たいバッグを提げたまま肩を上下させて深呼吸をし、夏海はホテルのバンケットルームに足を踏み入れた。

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