第156話 貴族としての誇り
「これは一体どういう事なんだ!!?」
オリヴァーが発した第一声を聞いた時、周囲の人間は首を傾げたり不思議そうな面持ちで隣人の顔を見合わせた。しかし、そんな周囲の反応に一々気を留める余裕もないほどにオリヴァーは焦っていた。
彼が立てた計画ではギルドマスターと交わした契約書を盾にして、聖鉄の貝殻を持つロックシェルを手に入れるというものだった。とは言え、ロックシェルはギルドマスターの所有物ではなく、赤の他人が有する従魔だ。多寡だか一枚の契約書だけで手に入るとは思っていない。
あくまでも契約書はきっかけ……所謂、口実作りに過ぎない。本当の狙いは契約書で交わしたという口実を元にして、そこから強引に裁判沙汰へ発展させることだ。
ラブロス王国における裁判制度は万人平等を謳っているが、実のところ金持ちや権力者にとって有利な判決が下されがちだ。これは旧世紀から続く忖度精神であり、この悪しき慣例が王国社会に歪みを引き起こしている元凶でもあった。
ドルカスもギルドマスターという地位を有しているが、財力においてはオリヴァーの足元にも及ばない。このまま裁判に持ち込めば、潤沢な富を背景にして勝訴を捥ぎ取るのも夢ではない。そうなれば、このふざけた契約書が正しいものとして認識され、全てがオリヴァーの思い通りだ。
ところが、ここに来て思い掛けない事態となった。手に入れる筈だったロックシェルがヴォルケーシェルに進化していたのだ。契約書では取引対象をロックシェルに絞ってしまったが為に、この時点で取引の前提が破綻してしまっている。
(何とかして契約書を変えるか? いや、既に判を貰っている以上はソレも不可能だ! ましてや此方の都合で書き直すなんて言語道断だ。そんな事をすれば契約書そのものが無効になってしまう!)
因みにだが、契約書にサインした後でどちらかが勝手に箇条を書き足したり変更すれば、その約書の効力は当然ながら無効となる。そして書き足されたか否かについては、時の経過を計測する時間魔法を用いれば意図も簡単に解き明かせるのだ。
(くそ、こんな事になるのならば進化後に関しても一筆書き加えておくべきだった! どうしたら……!)
「どうしたのー?」
と、自分の思慮の足らなさに後悔していると、上の方から幼い女児の声が降って来た。それに反応してバッと見上げれば、年端もいかない子供がヴォルケーシェルの前部火山に跨るように座りながら此方を見下ろしていた。
そこでオリヴァーの脳裏に名案――或いは迷案――の明光が降り注いだ。別に契約書に強く拘る必要は無い。従魔の主たる人間に直接交渉を持ち掛ければ良いだけではないか……と。
そしてオリヴァーは今までの焦りを無かった事にするかのように、深い咳払いを数度繰り返して呼吸を整え、額にべったりと張り付いていた汗を真っ白い高級そうなハンカチで拭い取ると平静を装った面立ちで幼女と向き合った。
「初めまして、お嬢さん。吾輩の名はオリヴァー・フォン・ゲマルークと言う。お嬢さん、お名前は?」
「アクリル!」
「ほほう、アクリルと言うのか? 此方の貝の方は?」
「こっちはガーシェルちゃん!」
「ふむ、良い名前だね。ひょっとしてキミの従魔かな?」
「うん!」
高慢さを抑えた優しい(彼を知る人間からすれば気持ちの悪い)猫撫で声で語り掛ければ、アクリルも無邪気な笑みを浮かべながらハキハキと応えてくれる。掴みは良好だと内心でほくそ笑みながら、オリヴァーは自分の太い指を見せ付けるように両手を持ち上げた。
彼が掲げた十本の指には、豪華な宝石をあしらった金の指輪が嵌め込まれていた。それも一本の指に一つずつというレベルではなく、第一関節から第三関節近くまで隙間なく埋め尽くしている。どう見ても細かい作業に適した手ではなく、只々自分の財力を誇示したいという成金精神が表れていた。
「どうだね、この指輪は? 綺麗だろう?」
「わー、キラキラしてるー」
「この宝石は極めて貴重なものでね、ここら一帯しか取れないんだ。どうだい、欲しくないかい?」
どんな人間であろうと、子供だろうが大人だろうが大小問わず何かしらの欲望を抱えて生きている。そこを嫌らしく突いて、穿り返して、そして出来上がった墓穴に相手がまんまと飛び込んだのを見計らってから自分の欲求を突き付ける。それがオリヴァーを此処まで伸し上がらせた交渉術の秘訣であった。
そしてアクリルはオリヴァーが嵌めた指輪に目を張り付けたまま首を振った―――縦ではなく横に。
「んーん、いらない」
「へ?」
「おとーさんやヤー兄が言ってたもん。知らない人から急に物を譲られたら、それはきっと裏があるから手を出しちゃいけないって」
社会の恐ろしさを知らない幼児から言質を取るなんて楽勝だと多寡を括っていただけに、彼女の尤もらしい正論はオリヴァーの毒気を抜き取るのに十分だった。
呆気に取られたオリヴァーは本心が顔に現れる前に、即席の笑顔を張り付けて平静を取り繕うとする。が、急遽張り付けた笑顔はデタラメな応急処置をしたかのように罅割れてしまい、それを誤魔化す為にハンカチで汗を拭うフリをして顔半分を覆い隠した。
「い、いや~。これまた一本取られたなぁ。はははは……。そ、それじゃ何が欲しいのかな? 美味しいご飯かな? それとも玩具かな? あっ、甘い御菓子なんかどうかな?」
主導権を握りたいオリヴァーは矢継早に魅力的な言葉を並べ立て、アクリルの
「おじさんは何がしたいのー?」
「いや、あの……」
「おいおい、一体何が起きてるねん?」
「こりゃ一体何の騒ぎだ?」
と、二人の会話に割って入るかのようにハンターギルドの建物から現れたのは、ヤクトとドルカスだった。怪訝そうに眉を顰めながら両者を交互に見遣るヤクトに対し、ドルカスは「またか」と言わんばかりの呆れと疑念に満ちた眼差しをオリヴァーに注いでいる。
「何だ、オリヴァーか。今度は一体何しに来おったんじゃ?」
「お、お前には関係のない事だ……!」
「あのね、このおじさんがね、アクリルにお菓子や指輪をあげるーって言って近付いてきたの」
ギルドマスターや保護者の介入を防ごうとしてムキになるオリヴァーだったが、その直後にアクリルが事情をバラしてしまった。途端、会話に加わった二人だけでなく、遣り取りを遠巻きに見守っていた周囲の目の色が興味から警戒へと移行した。
「何や? 魔獣の収集だけやなくて、
「お主のう、魔獣収集ならばまだしも、稚児趣味に走られたら流石のワシもフォロー出来んぞ?」
警戒と言うよりも犯罪者のレッテルを貼り付けるような侮蔑的な眼差しを投げ掛けながら、ヤクトはさり気無くアクリルとオリヴァーの間に身を滑り込ませた。一方のドルカスも同様の視線を浮かべながら、やれやれと失望気味に太い首を左右に動かした。
このとばっちりにも等しい誤解を払拭する為、そして噂が独り歩きするのを阻止する為、オリヴァーは不本意ながらも本当の目的を洗い浚い吐かざるを得なかった。
「違ぁう!! 吾輩のイメージに不名誉な傷を付けるんじゃない!! 吾輩がこの子に話し掛けたのは、そこの魔獣……ガーシェルを譲って欲しいと頼む為だ! 疚しい目的なんぞ一切持ち合わせておらん!!」
「はぁ? ガーシェルやって?」
そう聞き返したヤクトは肩越しに振り返り、急遽話題に上ったガーシェルと、それに跨ったまま不安気に瞳を潤わせるアクリルを見遣った。そして再び視線を前に戻せば、オリヴァーが顎の贅肉を震わせるように大きく頷いた。
「そうだ! 吾輩が魔獣を収集している事は知っているであろう? この間、ハンターギルドでロックシェルを見た時から一目惚れしてしまったのだ。流石に進化していたのは予想外だったが、進化によって魔獣としての価値が跳ね上がったとして良しとしよう」
後半の台詞は自分自身に向けたものなのか、まるで己に言い聞かせるみたいに腕を組みながら何度も頷いていた。しかし、それも本題に切り込むのと同時にピタリと止まった。
「それでだ。この際だから単刀直入に言おう。あの魔獣を吾輩に譲ってくれんか? 無論、魔獣の希少性に見合うだけの大金は支払うつもりだ。幸いにも金だけならば腐るほどあるのでな」
最後の余計な一言にヤクトとドルカスは不愉快だと言わんばかりに表情を盛大に歪ませるが、元々機微に疎いオリヴァーが二人の表情の変化に気付く事はなかった。
「しかし、大切な従魔を手放すのは忍び難いであろう? なので、それも考慮して余分に金を上乗せして―――」
「やだ!」
と、不意にオリヴァーの言葉を寸断したのは他ならぬアクリルだ。その声に惹かれるかのように振り向けば、アクリルはオリヴァー達に背を向ける格好でガーシェルの貝殻にしがみ付いていた。まるで蝉のように。
しかし、その背中からは強い拒絶の意思がヒシヒシと伝わって来ており、オリヴァーの申し出を受けないと言外に訴えていた。やはりこうなったか……オリヴァーは作戦の失敗を内心で認めたが、だからと言って素直に引き下がれるほど潔くもなかった。
「わ、悪い取引じゃないと思うがねぇ? それにお嬢さんは子供だろう? また他の従魔を作れば良いのでは……?」
「やだ! ガーシェルちゃんはアクリルの大事な家族だもん! 絶対にあげないもん!!」
取り付く島もないと言わんばかりにアクリルはオリヴァーの言葉に耳を貸さないどころか、貝殻に顔を埋めたまま振り返ろうともしなかった。
理性が利いた大人同士の会話とは違い、駄々を捏ねる子供との遣り取りに慣れていないオリヴァーは困り果てた顔でヤクトとドルカスを見遣る。が、二人から返って来た表情と眼差しには『諦めろ』という降伏を促す単語が含まれていた。
やがてドルカスが俯き加減に嘆息し、諭すような落ち着いた口調でオリヴァーに話し掛けた。
「いい加減にせんか、オリヴァー。突然やって来ては従魔を寄越せなど、非常識にも程があるぞ。第一お前さん、自分が非道を働いているという自覚はあるのか?」
「な、何だと!?」
「幼い子供が駄々を捏ねるのは分かる。ましてや自分の家族を奪われるとなれば猶更だ。しかし、貴様はどうだ? 大の大人が子供の宝物を金の暴力で奪い取ろうとするなど、非道と呼ばずして何と言う?」
「ぐ……」
「ギルドマスターの言う通りや」ヤクトも深々と頷いて同意を示す。「そもそもガーシェルは俺っち達の仲間でもあるんや。アンタが全財産を投げ出そうが、俺っちは仲間を売る気はあらへんで」
ギルドマスターと保護者もアクリルの支持に回り、オリヴァーの命運も尽きたかに思われたがしかし、諦めの悪い彼は油断したヤクトの隙を突いてヴォルケーシェルに掴み掛かった。そして貴族以前に大人のプライドもかなぐり捨て、アクリルに頭を下げて懇願し始めた。
「な、ならば! せめて三ヶ月……! いや、二ヶ月でも良い! コレを貸してくれ! 吾輩の気が済んだら返す! それで良いだろう!?」
「いやー!」
アクリルの拒絶が街中に轟いた瞬間、オリヴァーがしがみ付いたヴォルケーシェルの火口から真っ白い冷却ガスが凄まじい圧を伴って放出された。ガスの直撃を受けたオリヴァーは後方に距離を置いていたボンボン達の元へまで吹き飛ばされ、両手で顔を抑えながら悶え苦しむように転げ回った。
「ひぃぃぃぃ! 痛い! 痒い! 痛痒い!!」
冷却ガスを正面から浴びた彼の顔は季節外れの霜焼けで真っ赤に染まっており、彼の無様な姿に道行く人はクスクスと笑い声を溢していた。無論、それはドルカスやヤクトも同様である。
そして主人を守ったガーシェルに誉め言葉の一つでも投げ掛けてやろうとヤクトが振り返った矢先、先程までオリヴァーが立っていた場所に一枚の用紙……契約書が落ちている事に気付いた。どうやら今のガス噴射を受けた際に、オリヴァーの懐から落ちてしまったみたいだ。
「うん? 何やコレ?」
「そ、それは……!」
コレと言いながらヤクトが契約書を拾い上げた時、ボンボン達の手を借りて起き上がったオリヴァーの霜焼け顔に亀裂が走った。しかし、ヤクトは相手の反応に気付かぬフリをした。そして書面に視線を暫し走らせた末に、最後に書かれてあった項目に辿り着くと整った眉がピクリと揺れ動いた。
「……ドルカスさん、ちぃとコレ見てくれへん?」
「うむ? これは……ワシとオリヴァーが交わした契約書だな? しかし、妙だな。最後の項目は一体何だ? ワシと交わした時には書かれてなかった筈だが?」
そう言ってドルカスはジロリと犯人を問い詰めるような鋭い目線をオリヴァーに投げ込んだ。本来ならばオリヴァーの切り札として活躍する筈だった契約書も、計画が破綻してしまった今では己の首を絞める呪具に成り下がってしまっている。
だからこそ、悪事もバレて追い詰められたオリヴァーは開き直ったかのように被っていた猫(と言っても、殆ど馬脚が出掛かっていたも同然だったが)を脱ぎ捨てて本性を露わにした。
「く、くそ! 平民風情が良い気になりおってからに!! だが、これで終わった訳ではないぞ!! ソイツが嘗てロックシェルであったことを証明出来れば、契約書の効力は生き返る!」
「はぁ? 何言うてるねん?」
ヤクトが訝しい顔で問い返せば、傍に居たドルカスも釣られて呆れを詰め込んだ深い溜息を吐き出した。
「要するにガーシェルがヴォルケーシェルに進化する前は、取引対象であったロックシェルだった。だから、契約書に書かれている内容は進化後も有効である……と、強引にこじつける気なんじゃろう。じゃが、そりゃ無茶な話だ」
「まぁ、何となく無理やなって事は想像出来るけど……一応、その理由を聞いても?」
「契約書で記されている取引対象はロックシェルに絞っている。進化を果たした今のガーシェルには適用されん。仮に進化を証明したところで、結局は別物である事に変わりない。極端な話かもしれんが、誰かが猿を欲しがっていたとする。それに対して猿の進化体である人間を手渡す。さて、取引は成立するかな?」
「俺が依頼主やったらブチ切れとるで」
「そういう事だ。つまり、ガーシェルが進化した時点でヤツの計画は破綻しているのだ。どう足掻いてもヤツの負けに変わりは無いし、まともに取り合う必要も無い」
ドルカスの断言に対し、オリヴァーは執着心を滲ませた歪んだ笑みを浮かべた。
「いいや、それはどうかな? 吾輩には貴族という強力な後ろ盾がある! 彼等の助力を受けて裁判に挑めば、どんでん返しも夢ではない!」
オリヴァーは自分の両隣に立つボンボンに信頼という名の熱の籠った眼差しを投げ掛けるが、二人とも口には出さなかったものの軽く目を見開かせた表情は『何それ』と驚きと困惑を如実に訴えていた。
どうやらボンボン達はオリヴァーに協力するつもりもなければ、後ろ盾になるつもりも無いみたいだ。しかし、そんな単純な事実にすら気付かない哀れなオリヴァーは、調子に乗って饒舌に喋り始めた。
「裁判に持ち込めば勝機は吾輩にある。何せ、この国の裁判は貴族や特権階級者の道理を通す為に設けられたと言っても過言ではないのだからな。付け加えて、其方の魔獣は吾輩に手を上げおった! 口実さえ得てしまえば此方のものだ!」
「おいおい、最早チンピラのイチャモン以下の屁理屈やないか。貴族の誇りは何処へ行ったんや?」
「はっ! この世を思い通りに動かすのが貴族の誇りであり本懐だ! 何の後ろ盾も持たない貴様達平民は、大人しく我々の言う事を聞いていれば―――」
「では、私が彼等の後ろ盾となろう」
その時だ、水の入ったグラスの縁を叩くような凛とした、しかし力強い――ヤクトでも、ドルカスでも、ましてやボンボン達でもない――第三者の声が場に響き渡った。
途端、回転率を急激に上げていたオリヴァーの舌が麻痺したかのようにストップし、驚きを張り付けた顔で空気を求める金魚のように口をパクつかせた。
そしてガーシェルが人一人出入り出来る程度に貝殻を開けると、中に広がる暗闇から這い出るようにオービル――それと文字通り彼に肩を貸した角麗――が姿を現した。
「お、オービル……殿!?」彼の姿を目にした途端、オリヴァーは激しく狼狽えた。「ど、どういう事ですか!?」
「見ての通りだ。チタン火山で仲間と逸れてた後、此方の者達に助けられたのだ。つまり、彼等は私にとっての命の恩人という訳だ」
「そ、そうでございましたか。何はともあれ、貴方様が無事で何よりでございます……」
そう口にしつつも、オリヴァーの顔にオービルの無事を祝う感情は存在しなかった。寧ろ、溢れんばかりの苦々しい感情を抑え込むような引き攣った笑みを浮かべており、時々それが抑え切れなくなった時はキッと鋭い眼差しをボンボン達に投げ掛けている。
無理もない、彼はオービルを裏切ったボンボン達から『オービルは死んだ』と聞かされていたのだから。これで面倒な要求や我儘に振り回されないで済むと内心で小躍りしていた矢先にコレだ。
そのボンボン達はオリヴァーから向けられる追及の目線から逃れるように、明後日の方角へ顔を背けている。言うまでも無く、彼等にとってもオービルの生存は予想外だ。ましてや彼を裏切ったという重い十字架を背負っているだけに、二人の胸中は絶望に押し潰されてしまいそうだった。
そんな彼等をじっくりと眺めた末にオービルは言葉を切り出した。
「話を戻すが、そなたは私の命の恩人に対して無理難題を言っているみたいだな?」
「はっ!?」ボンボン達をねめつけていたオリヴァーは、慌ててオービルの方へ振り返る。「い、いえ! 只、此方としては契約書通りに従って頂きたいだけでございまして……」
「ふむ、契約書か。ギルドマスター、彼はああ言っていますが……その契約書にサインしたのは事実なのですか?」
話を振られたドルカスはサンタのような長い白髭を撫でながら、ゆるゆると緩慢に首を振った。
「サインをしたのは事実だ。しかし、ワシがサインした時には最後の項目は書かれていなかった。しかし、精査魔法に反応しなかったということは、恐らく魔法に頼らない別のトリックを仕掛けていたのだろう。それに見抜けんとは、我ながらギルドマスター失格じゃわい」
「そう言われると何処かから薄らと柑橘類の匂いがするなぁ思ってたけど……よくよく考えたら、この紙からみたいやな」そう言って書面に顔を近付け、鼻腔をヒクつかせるヤクト。「恐らく、最後の項目は炙り出しで書いたんやろうな。やれやれ、貴族のくせしてやる事がセコいわー」
「ぐぬぬぬぬ……」
悔し気に顔を歪めているオリヴァーに対し、オービルが爽やかを通り越して底冷えしそうな笑みを張り付けながら彼の方へと振り返る。
「そういう訳でだ……単刀直入に言おう。私の命の恩人である彼等に、これ以上の無礼を働く事は許さん。この契約書を無かった事にし、今後二度と関わり合うな。それさえ守るのであれば、今回のそなたの暴虐を見なかった事にし、今後も良好な関係を維持し続ける事を約束しよう。それでもまだ逆らうというのであれば……」
「さ、逆らうというのであれば?」
「時期エディール家当主の権力を総動員して、貴様を貴族社会のみならず人間社会から抹殺してみせよう。其方の二人も含めてな」
好青年に相応しい素敵な笑顔――但し目は笑っていない――に相反して、その口から飛び出した過激発言は対象者の度肝を凍て付かせた。
相手の冷徹な気迫に当てられたオリヴァーはドスンッと腰を抜かし、這う這うの体でその場から逃げ出し、取り残されたボンボン達もオービルの冷たい眼差しを浴びせ掛けられると脱兎の勢いで踵を返した。
そして彼等の姿が通りの先を埋め尽くす人込みに紛れて認識出来なくなった頃、ヤクトが感心した面持ちと一緒に拍手を送った。
「意外とやるやないか。てっきり貴族同士の絆を重視して、アイツの肩を持つものかとばかりに思っとったで」
「ふっ、馬鹿を言わないでくれ。私は命を救ってくれた恩人に仇を返すようなロクでなしではない。それに私としても、ヤツの言い分には我慢も出来なかったからな」
「我慢?」
ドルカスが興味深げに尋ね返せば、オービルは苛立ちを詰め込んだ溜息を吐き出した。
「“この世を思い通りに動かすのが貴族の誇りであり本懐だ”―――貴族の心構えを学ばず、金で爵位を買い取った男に相応しい下品な台詞だ。全く以て気に食わん。
貴族の誇りは誰かを動かす事でもなければ、道理を捻じ曲げる事でもない。祖先達が築き上げた栄光に傷を付けず、一族の血が途絶えるまで守り通す事にある。無暗に人を傷付けてしまえば、その分誇りも傷が付く。故に権力を振り翳すのは大きな間違いなのだ。だと言うのに、あの男は……!」
と、口調がヒートアップし掛かったところで、全員の呆けた眼差しが自分に向けられている事に気付いたオービルはハッと表情を閃かした。次いで気恥しさを含んだバツの悪い顔を浮かべて口を噤んだ。
「し、失礼した。私とした事がつい夢中になってしまった……」
「ふ、ふはははは!」
唐突にヤクトが笑い出すと、それに釣られて角麗やドルカスも笑みを浮かべた。傍からソレを見ていたアクリルも楽しそうに笑ってはいるが、皆がどうして笑っているのかまでは理解していなかった。
そんな中で唯一笑いの輪から食み出てしまったオービルは、急にどうしたのだと言わんばかりの不思議そうな表情で全員を見遣った。
「ど、どうしたのだ。急に?」
「いやいや、アンタが意外と良いヤツやと知って驚いただけや。確かに貴族の中にも良い奴も居れば、悪い奴も居る。正直、俺っちのアンタに対する印象は……まぁ、悪い奴やないけど、性質の悪い人間ってところやな」
「それは評価としては最低ではないのか!?」
「せやけど、矮小なプライドに縋りつくしか能のない薄っぺらい貴族に比べたら遥かに立派や。それにあんたのおかげで姫さんがガーシェルに引き離されずに済んだ。ほんまおおきに」
「ありがとー!」
ヤクトとアクリルが揃って感謝を告げると、オービルは鳩が豆鉄砲を喰らったかのように目を丸くした。それから暫くするとフッと見開いた目元を優し気に和らげ、静かに首を横に振った。
「いや、礼を言わなければならないのは私の方だ。命を救ってくれたのは勿論、私にハンターとして必要な心得を教えてくれた。たったそれだけの事と思うかもしれんが、それが私にとってどれだけ有難く、そしてどれだけ嬉しかった事か……」
そこで言葉が切れると、オービルは失われた自分の右腕に切なげな視線を注いだまま、込み上がる何かを堪えるようにギュッと口を閉ざした。
誰も口には出さないが、重々しい沈黙と悲哀の籠った眼差しがオービルの運命を物語っていた。しかし、それに対してヤクト達が同情や励ましの言葉を掛けることはなかった。只々、とあるハンターが持っていたかもしれない可能性と未来に対して哀悼の意を捧げるだけであった。
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