第97話 グリュン湿地帯

 グリュン湿地帯―――バタン地方の三分の二を占める広大な沼地の名は、自然の宝庫として大陸内外に轟いている。

 良質で肥沃な大地には確認・未確認を問わず、軽く四千種類以上を超える植物が群生していると言われており、特に医薬品として重宝される薬草類が多数存在し、その事実に目を付けた商人達が競い合うように投資を繰り返し、一獲千金を実現しようと躍起になった。

 しかし、この豊潤な土地を好むのは植物だけではなかった。湿地の環境に適応した魔獣、そして独自に築き上げた文化を太古の昔から守り続けるアマゾネス族。この両者の前に幾多にも上るハンターや冒険者達が返り討ちに遭い、還らぬ人となった。

 時の領主の中にはアマゾネス族の殲滅を目論んだ者も居たが、その尽くが失敗に終わっている。失敗に終わった理由は幾つかあれど、尤も多く挙げられている理由はアマゾネス族の強さを見縊っていた事だ。

 アマゾネス族はエルフのような美しい容姿こそしているが、その実力は一人当たり精鋭騎士十人に匹敵する。更に過酷な自然界と密接した暮らしは彼女達の精神を鍛え上げ、どんな苦境に晒されても折れないタフネスを生み出した。

 精神的にも肉体的にも強靭な彼女達は、言わば少数精鋭の猛者と呼んでも過言ではない。それを辺境の地に住まう原始人だからと多寡を括り、兵を送り出した領主が痛い目を見るのは当然の帰結と言えよう。

 それから数世紀の時を経て、代替わりしたバタン地方の領主はアマゾネス族に取引を持ち掛けた。今後一切侵略はしないし、平等な貿易関係も結ぶ。その代わり、この地に住まう魔獣を抑え込む盾になって欲しいと。そして彼女達は領主の求めに応じ、取引を結んだ。

 こうしてグリュン湿地帯は人の手に侵される事無く大自然の美を後世へと受け継がれていき、バタン地方も長きに渡る平穏を享受する事となったのであった。



 バタン地方に伝わる歴史書の一節




「――――なーんて深くて良い話を耳に齧った覚えがあるんやけどなぁ。ここまで悪化しているとは思わへんかったわ」

「これが代々受け継がれた大自然の美だと? フッ、大したものではないか」

『これは……酷いですね』


 クロニカルドが鼻で笑いながら「」と強調するが、そこに感動の要素は一切含まれていない。寧ろ真逆に当たる皮肉や嫌味の成分で構成されている。

 そして私もクロニカルドに同意するつもりはなかったが、無意識に本心をポロリと漏らしてしまう。瘴気が蔓延しているとは言え、大自然の美と高らかに謳っているのだから目の保養となる程度の自然は残っているだろうと期待していたのだが、実際に私達を出迎えてくれたのは美から遠く懸け離れた、醜悪と呼んでも過言ではない荒地だった。

 嘗て、この湿地帯で鬱蒼と生茂っていた緑は枯葉剤を散布したかのように萎びれ、木々は病を患っているかのように樹皮が黒ずんでいる。湿地帯を取り巻く空気はスモッグのような瘴気の霧が蔓延しており、そこへ足を踏み入れること自体に躊躇いと嫌悪を抱かせた。

 そして美しい緑を育んだ清らかな水も重油のようなヌメりと濁りを持った汚水に変わり果ており、ポコポコと瘴気の籠った毒々しい気泡を水面から吐き出している。

 ヤクトが語ってくれた歴史書の中に存在したであろうグリュン湿地帯の美しさは今や何処にも存在せず、私達三人が絶句するには十分過ぎる衝撃を孕んでいた。


「しかし、このような状況で本当にアマゾネス族に会えるのか?」

「会えるのかやない。絶対に会うんや。姫さんの命が懸かってるんやから猶更や」


 ヤクトは魔獣の皮で作ったガスマスクに装着し、隙間が無いかしっかりと確認し終えるのと同時に私の上に飛び乗った。因みにアクリルは言うまでもなくセーフティーハウスの中だ。こんな瘴気が充満している中、呪いで弱っているアクリルを外に出すのは自殺行為だ。

 少なくとも、安全と分かる場所に辿り着くまではセーフティーハウスに大人しく休ませた方が良いだろう。それにアクリルの様子は何時でも見られるしね。


「それでは参ろうか。ガーシェル、頼んだぞ」

『了解しました!』


 因みに湿地帯では泡の車輪が泥に取られて身動きが取れなくなることを考慮して、岩魔法で作ったキャタピラーで進む事にした。そのキャタピラーを初めて見たヤクトからは「お前、本当に貝なんか?」と驚きが混ざった疑惑の目を向けられた。

 失敬ですね、私は列記とした貝ですよ。但し、前世の記憶を持ち合わせていますけど。



 湿地帯の奥へ進めば進む程に、大自然の美というキャッチフレーズがガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。何処まで行っても謳い文句として語られた自然の美は見当たらず、代わりに自然の成れの果てしか見当たらない。

 もしかして、このような欝々とした光景が続くのかと一瞬不安に駆られたが、出発してから5キロほど進んだところで私達の視界を薄らと遮っていたスモッグが掻き消され、その先から湿地が現れた。

 ぬかるんだ泥土の上にはヤクトの腰の高さに匹敵する雑草が群生しており、瘴気の毒害を免れたのか青々とした草を揺らしている。所謂生き延びた沼地を見てホッと胸を撫で下ろしたが、だからと言って油断は出来ない。小型の魔獣ならば雑草に身を隠す事もでき、ひょっとしたら不意打ちを仕掛けてくるかもしれないからだ。

 それを念頭に置いて少しずつ前進すれば、早速魔獣と遭遇した。遭遇と言っても生きた姿ではなく、既に息絶えた姿でだが。


「これはブルタフやな」


 私達が見据える先には、猪を更に数周り巨大化したかのような魔獣が泥土の中に半ば埋もれる形で横たわっていた。体の至る所に大小様々な傷を負っているが、特に一番深い傷は頭部だ。脳天部がパックリと割れ、傷口からゼラチン質の脳漿が食み出ている。


「どうやら頭部への一撃が決定打のようだ。魔獣同士で争ったような痕跡ではない……という事は、アマゾネスの仕業か」

「……妙やな」

『どうしたんですか?』


 私も内心ではクロニカルドと同じくアマゾネスの仕業と決め付けていただけに、異議を唱えるヤクトに思わず不可解な目線を向けてしまう。


「アマゾネス族は未開の地に暮らす狩猟民族や。彼女達は自然界の厳しさを知っているからこそ、この地に暮らす魔獣に敬意を払っとる。そして狩った獲物は神からの贈り物と称して、ちゃんと持ち帰るんや。なのに、こんな風に殺したまま放置するのは変や」

「ふむ、何かの邪魔が入って置き去りにせざるを得なかったか。或いは―――」


「ブギィィィィィ!!!」


 荒々しい豚の鳴き声にも似た雄叫びがクロニカルドの台詞を遮り、私達は一斉に声の方へと振り返る。そしてクロニカルドは厄介そうに片眉を曲げながら、先程途切れた台詞の続きを綴った。


「或いは……別の者が魔獣を狩ったか、だな」


 私達の視線の先には雑草から微かに頭を覗かせる程度の身長しかないアマゾネスの少女二人と、彼女達を追い詰めようとしている赤黒い肌をした複数の豚人間オークの姿があった。



「姉ちゃん! アタシを置いてって! このままじゃ奴等に追い付かれちゃう!」

「馬鹿言ってんじゃないの! あんな豚共に妹を差し出すぐらいなら、一緒に死んだ方がマシよ!」


 姉のマリーは右足を負傷した妹のミリーを背中に庇いながら、牽制の意味を込めて敵対する者に向けて鉄鉈を突き付けた。しかし、敵対者は鉈に怯えるどころか、豚のような鼻の孔を広げて下品に笑うばかりだ。

 いや、豚のようなではない。豚そのものだ。今二人を追い詰めているのはレッドオークと呼ばれる、豚と人間の特性を合体させたオーク族の亜種だ。普通のオークと比べてパワーや属性耐性がワンランク上回っているが、同時に気性も荒いので出会った時には注意が必要と言われている魔獣でもある。

 しかし、マリーとミリーも幼いながらもアマゾネス族の一員だ。アマゾネス族の一員として幼少期から鍛錬を受け、武器の使い方を始めとする戦いのいろはを身に付けている。また姉妹で共闘すれば、レッドオークの一匹ぐらいは仕留められるという自負すら持っていた。

 ところが、向かった先で軍隊のように五匹一組で行動するレッドオークと遭遇したのが運の尽きだった。二対一で漸く互角だと言うのに、二対五では相手になる筈も無く、彼女達は撤退する他なかった。

 しかし、レッドオークは見付けた獲物を見逃してくれるほど甘くはなく、追撃の末に妹は右足の脹脛を負傷し、この沼地でとうとう追い付かれてしまったという訳だ。


「ブギィ」

「ブヒヒヒ」


 レッドオーク達がニタニタと笑いながら、彼女達との距離を少しずつ狭め始める。彼等の眼には情欲の炎が燃え盛っており、アマゾネス族の少女達を単なる獲物としてではなく、性欲の対象として見做している証拠であった。

 レッドオークの欲望の的となっている事実に吐き気を覚えるが、だからこそ何としてでも妹を守らねばならないとマリーは思いを強めた。


「ブギィィィ!!」


 レッドオークAが雄叫びと共に粗削りした石斧を振り翳し、マリー目掛けて振り下ろす。彼女は迫る石斧を寸前まで見極め、額スレスレにまで迫ったところでサッと身体を逸らして攻撃を躱した。

 振り下ろした石斧が泥土に激しく叩き付けられ、泥の飛沫を舞い上げる。頬や体に泥が付着する感触を無視し、マリーは振り下ろされた事で伸び切ったレッドオークAの腕に鉄鉈を滑らせた。


「ブギィイイ!!」


 肉を切る感触が鉈越しにマリーの掌に伝わり、次いでオークの上腕から血飛沫が噴き出す。が、成熟し切っていない少女の力ではオークの腕そのものを切断するまでには至らず、レッドオークAの上腕に浅いと深いの丁度中間ぐらいの傷口を残すので精一杯だった。

 しかし、傷を与えたという事実だけでもマリーには有難い情報であった。何故なら、自分の力量でもレッドオークを殺せるのも夢ではないと判明したからだ。

 マリーは鉄鉈を素早く逆手に持ち替え、腕全体で弧を描くようにレッドオークAの首目掛けて刃を振り抜いた。だが、これはレッドオークAが咄嗟に持ち上げた石斧によって阻まれてしまう。


「くそ……!」

「ブギィイイ!!」


 レッドオークAが雄叫びを上げ、もう片方の腕でマリーに殴り掛かった。咄嗟に両腕を交差してオークの拳をガードするも、質量の差は如何せんともし難く、小型軽量とも呼べるマリーの体躯は軽々と吹っ飛ばされてしまう。


「姉ちゃん!」


 吹っ飛ばされた姉を見て、ミリーが思わず叫ぶ。しかし、妹の心配なんて杞憂だったかのようにマリーはぬかるんだ泥にしっかりと両足を引っ掛け、数mほど泥土の上をスリップしながらも制止を掛けた。

 だが、安堵は出来ない。レッドオークAは再びマリーとの距離を詰め、襲い掛からんとしていたからだ。マリーは石斧の動きに合わせて小回りの利く身を躍らせ、確実に仕留められる相手の隙を狙おうと試みた。

 しかし、オークも手傷を負った時の失敗から学習していた。マリーの注意が自分の石斧に向けられていると知るや、彼女から見て視覚外に当たる足元の泥を蹴り上げて少女の顔に浴びせ掛けたのだ。

 泥が目に入り、一時的にマリーの視界が黒一色に塗り潰される。少しすれば泥は涙と共に排泄されるだろうが、戦いの最中において少しは致命的な空白だ。現に視界が封じられて身動きが取れなくなった途端に握り締めていた鉄鉈が弾き飛ばされ、次いで首を掴まれて持ち上げられる感触が襲い掛かる。


「がっ……!」

「姉ちゃん!!」


 そこ漸く視界が回復し始めるが、首を絞められた事による呼吸困難のせいで、すぐに視界は暗闇と歪みに支配される。嫌らしいまでに得意気な笑みを浮かべるオークの顔が目に焼き付けつつも、いよいよ意識を手放しそうになった時だ。


パァンッ


 甲高い銃声が響き渡り、直後にマリーの首を絞めていたオークの頭部が風船を割るかのように弾け飛んだ。彼女の首を掴んでいたオークの腕から力が失われ、マリーの肉体は重力に引っ張られて泥土へと落ちていく。

 意識を失い掛けて霞む視界の中で、少女はハッキリとソレを捉えた。遠くの方で、見た事もない武器――銃を構える一人の人間の姿を。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る